ディバイデッドホテル 4/32
ああ、これか。
四つある車輪のうち、左の後輪が動かなくなっていた。これのせいで、清掃ロボットの走行速度が落ちたのだ。
小早川芳美は、昼番から、清掃ロボットの修理を引き継いだ。もっとも彼は、ロボットメーカーのサービス担当ではない。遅番パートのフロント係だ。ほとんど面識のない昼番パートからの申し送りなど、本来なら無視してもよかったのだが、この日は客が少なく、手持無沙汰だったので、修理してみる気になったのだった。彼は、正面玄関に向かうカウンターの中で、床に這い蹲って車輪の脇にボールペンを突っ込み、車軸に絡まっていた埃を掻き出した。
ただの清掃ロボットではなかった。人工知能搭載で、ワイパー清掃、バキューム清掃、便器の目皿洗いやベッドメイク、消耗したアメニティーの補充まで、およそホテルで必要な清掃業務はすべてこなせる、マルチタスクロボットだ。『ディバイデッドホテル』では、これを春先に三台導入し、代わりに清掃員はすべて解雇した。人件費の節約だ。芳美は、祖母のような年のパート社員が、「次の仕事、見つかるかしらね」と背中を丸め、私物をまとめて去って行ったのを覚えていた。彼は、早朝に出勤する彼女が、いつも手土産にコンビニのおにぎりと缶コーヒーを買ってくることに閉口していたので、寂しい反面、幾分ホッとしてもいた。
身長一二〇センチほどだろうか。重量も同じくらいの数値の、かなり存在感のあるロボットだ。チェックアウト後ばかりでなく、ほぼ二四時間稼働して、八階建てのホテルを隅々まで清掃する。内蔵のコンピューターに建物の構造が入力されており、館内に張り巡らされたセンサーを通じて汚れ個所を検知し、清掃サインが発せられればすぐさま出動して業務を行う。しかも、原則として客前には姿を現さない。汚れの原因を不作為に特定し、客の自尊心を傷つけることを避けるためだ。
ディバイデッドホテルは、完全無人運営を謳うシティーホテルだ。ルームサービスも、バンケット係も、支配人もいない。予約はすべてネット経由で、チェックインとチェックアウトはタブレット型の端末で行うので、本来、フロント係も不要だ。長期滞在客の中に、いつまで経っても機器の操作に慣れない者がいるので、サポートのために、常時一人だけフロントに詰めていた。だから、正確には完全無人ではないのだが、広告では無人と標榜していた。もちろん彼らは正規雇用ではなく、最低賃金で雇用されたパート社員だ。利益率を上げるために、人件費を極限まで削減することが、このホテルの経営方針だった。
芳美は、地元の大学を出て、三年ばかり大手のホテルに勤めた後、起業を夢見て職場の先輩と独立し、ジャンバラヤの無人販売店をフランチャイジーとして立ち上げたのだったが、頼みの先輩が店の運転資金を持ち逃げして行方不明になったので、彼が開店費用の借金を背負う羽目になり、仕方なくこの仕事を始めた。夜勤を選んだのは、時給がいいからだ。だが、仮眠を取って早朝に帰宅すると、次の出勤は翌々日になるので、正味週に三日しか働けない。これでは手取りが週五の昼勤より少ないので、昼に回してもらうか、兼業で他の仕事を見つけるか、と迷っていた。
カウンターを二つばかり叩く音がした。
「いる?」
黒髪をショートカットにした女が、真っ赤に塗った唇を尖らせて尋ねた。派遣コンパニオンの河村七海だ。
「八〇一?」
「そうだよ。こないだみたいに、すっぽかされたら困るでしょ?」
彼女は止まり木に尻を乗せ、カウンターにむき出しの肘を突いた。芳美は「いるよ」と返事してから、カルーア・ミルクを作って彼女に差し出した。
「何、これ?」
「奢るよ」
「これから仕事なの。ゆっくりしてられないんだけど」
「取っておくよ、終わるまで」
彼女は軽く鼻息を吐き、「温くなるジャン」と口の端を上げ、横目で彼を睨んだ。
内線電話が入った。八〇一からだ。芳美は「ハイ。いや、もうお見えです」と鼻にかかった丁寧語で応対した。七海はショールを肩にかけ、ヒールの音を立ててエレベーターへ向かった。
(つづく)
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