売られたヤクザ その10
赤いジャージの上下を着た河津幸太郎は、笑顔を絶やさなかった。
「ゴリラです」
「ゴリラでも、チンパンジーでも、何でもいいよ」
「ここの大家さんに、使用許可を得ているんですよ。お金払って、借りているんです」
「営業許可は、取っていないんでしょ?」
町内会の会長が、苦情をねじ込んできた。役員なる面々を、数人引き連れていた。
三浦半島の中央に位置する、衣笠の住宅団地。古い空き家の玄関先で、力士のように大柄な河津と、ガガンボのような痩せた町内会長は向かい合っていた。空き家の敷地はおおむね五〇坪。瓦屋根の二階家と、雑草の茂った庭があった。隣は、一〇坪の土地を目いっぱい使って三階建ての四LDKにした狭小住宅だ。
静かな住宅街。風光明媚な土地柄。歴史的な由緒もある。衣笠は、半島の東西と南北を結ぶ交通の要衝に位置し、かつてこの地を支配した三浦一族が、本拠地となる城を築いたところだ。源頼朝の旗揚げに加担した三浦氏は、平家方の軍勢に衣笠城を攻められ、当時齢八〇余りだった三浦大介義明は、一門の若手を房総に逃がして、一人城に残り、白髪頭を打ち落とされた。
その、三浦大介もかくやと思われる高齢者が、一〇、いや、二〇。秋晴れの日に照らされた住宅のそこここで、日向ぼっこしていた。
「どこに行けって言うんですか」
半ば切れ気味に、河津は町内会長に詰め寄った。笑みは絶やさないが、厚ぼったい瞼の奥の瞳には、険が籠っていた。
ゴリラ。護璃羅と書く。無認可介護団体だ。
介護を必要とする高齢者は増えているのに、介護施設が足りない。一方、施設を作っても、その費用を負担できる高齢者がいない。高齢社会は机上の想定をはるかに上回って進展しており、もはや行政だけでは対処できない段階だ。
介護の必要な人間が、巷に溢れている。
行政の間隙に、ゴリラができた。無認可介護をするゲリラ部隊だ。彼らは、月額一〇万円で宿泊介護を行った。認可はない。自前の施設すらなかった。河津は、大家の許可を得ていると言ったが、この空き家の現在の持ち主は不明で、登記簿には死人の名前が掲載されていた。まさしくゲリラだ。国家の許認可制を無視して、独自のルートで高齢者を集めて介護する、反社会勢力だ。
「分かりました。よっく、分かりましたよ」
俄かに声を張り上げ、河津は目尻を吊り上げた。
「どうぞ、訴えて下さい。ケーサツでも、裁判所でも。受けて立ちますよ。言っときますけどね、ウチの弁護士は、口喧嘩で負けたことはありませんから」
彼は、荒々しく玄関の扉を閉めた。
トイレの前に、車椅子が二列に並んでいた。順番待ちだ。列の間にジャージ姿の介護士が立って、ともすれば寝落ちするご老人に、「もう少しですよ、頑張ってください」と声を掛ける。もともとこの家のトイレは一カ所だったが、他に簡易トイレを二つ設置して、担当の介護士が交代で世話をしていた。一階は壁をぶち抜いて広間に作り替え、テーブルとベンチを置いて入居者たちの憩いの場になっていた。食事もレクリエーションもここで行われた。夜はここに衝立を並べ、布団を敷いて寝室にした。二階は三つある部屋をそれぞれ細かく仕切ってベッドを置き、寝たきりの入居者の個室に作ってあった。拘束はないが、老人のパジャマに電極付きの紐が差し込んであり、抜けると介護士のスマホに警報が鳴る仕組みになっていた。入居者は、寝たきりの者から比較的軽度の者まで、常時二〇名前後おり、ほぼ全員が認知症を発症していた。専従の介護士は河津を含め三人で、動かない二階の入居者を世話する余裕はほぼなかった。非常勤の介護士を雇って人手不足の穴を埋めていたが、ここが非正規の施設と分かるとたいていはやめてしまうので、常時人材を募集している状態だ。
「オレも、バイト料貰えるのか」
新たに催したらしき入居者の車椅子を押して、トイレの前の列に加えた田代が、仁王立ちして老人たちを見下ろす河津に言った。
「払いますよ。時給千百円ですけど」
「千百円!」
田代は声を裏返して叫んだ。
「近頃の介護士は、千五百は取るだろ? 千百じゃパートのオバサンと一緒だよ」
「それでも合うんですよ、人によっては。稼ぎすぎると困る人もいるじゃないですか。粟田さん! 順番だよ。寝たらダメでしょ」
彼は、車椅子の上で斜めになっていた老婆を揺すって起こした。女性介護士が車椅子を引き、彼女をトイレの個室に入れた。
入居者たちの昼食後、河津と田代は近くのファミレスで休憩を取った。河津は田代の高校の後輩で、彼にこの仕事を紹介したのも田代だった。
「オヤジの引退って、本当なんすか?」
「分からねえ」
田代は、日替わりランチのライスに粉チーズとタバスコをかけ、その上にコロッケを乗せて、くるくると渦を描いて醤油を垂らした。河津は、ランチに加えて大盛りナポリタンを頼んでいた。
「タバスコと醤油って、合うんすか?」
「分からねえ」
河津は掃除機のようにパスタを吸い込み、口の周りを赤く染めた。
無認可介護施設は、彼らの所属する『会社』の、数ある事業の一つだった。過疎化の進んだ三浦半島の空き家を改造して介護施設を作り、高齢になって貧困落ちした者を引き取り、その家族から介護費用を巻き上げる。典型的な貧困ビジネスだ。資格はないが、体力のある河津がこの事業を任され、補佐する本職を雇って、試行錯誤しながら軌道に乗せた。不承不承引き受けた仕事だったが、ほぼ口コミのみの宣伝にもかかわらず、引っ切り無しに入居希望者からの問い合わせがあり、開設当初から寝る間も削るほどの忙しさで、不平不満を訴える暇もなかった。かつかつだが利益が出ており、それが評価され、彼は今や社の有力幹部だ。
食事の後、彼らは店の駐車場でタバコを吸った。店内は全面禁煙だ。
「煙が染みるな」
「それ、歯周病っすよ」
田代は、チッと唾を路面に吐いた。
「口内炎だべ? タバスコかけ過ぎたんだよ」
「違いますよ。虫歯が進行して、歯周病になってるんすっよ。ヤバいっすよ。歯周病の菌って、脳に回るの、知ってます?」
「何だよ、それ」
「口の中の菌が鼻から上って、頭に入るんすよ。で、脳の血管を食い破るんだって。マジ、やべっすよ。認知症の奴ら、たいてい歯周病っすよ」
「ウルセー!」
田代は丸めた拳で河津の鳩尾をついた。河津はウッとなって体をくの字に曲げた。
店内に戻り、ドリンクコーナーで、河津はブラックコーヒーを、田代はホットチョコレートを入れた。田代は、ジーンズのポケットからビニールの小袋を出して河津に握らせた。
社長には三人の息子がいた。長男は、競合する『会社』が、社長を狙って雇ったヒットマンに狙撃され、身代わりになって命を落とした。次男は内通を疑われ、後を継いだ三男に追い込まれて行方不明になった。抗争の陣頭指揮を取り仕切った三男は、強引な手法のために現場の反発を食らい、直属の部下だった部長にたばかられ、横浜港に沈められた。その部長は、一時会社を牛耳ったが、特殊詐欺組織の海外移転に失敗し、東南アジア某国へ逃れて、いまだ消息不明。
田代、河津の上の世代が、すっぽり抜け落ちていた。社長の代は、齢八〇を越えた、言わば認知症世代で、もはや現場を指揮する能力はない。社長の弟分に当たる専務がいたが、長らく服役中だ。
「トイレ」
河津は、自分の長財布をズボンのポケットに突っ込んで席を立った。
チャンスだ。
他ならぬ、会社にとってのチャンスだ、と河津は思った。個室で、小袋の中の白い粉を指につけ、鼻の奥に擦りつけた。
この機会に、経営陣を一気に若手に入れ替える。会社を若返らせる。
脳波は電気だから、方向性が定まっていない。脳波を動かすには、電圧をかけて行く先を指定しなければならない。彼は今、脳内に滞留した脳波が、勢いよくある目的に向かって走るのを感じていた。
彼らの会社『カタビラ商事』で、現状、まともな利益を生み出しているのは、河津の無認可介護施設と、楠美部長の特殊詐欺と、田代の薬物転売。実益は田代の事業が一番多かった。次が介護施設。楠美の組織は開店休業中で、他にも、フランチャイズのコーヒーショップがあったが、これは恒常的に赤字経営だった。河津はナンバー・ツーだ。
社長。
仕事をすることが社長であることの前提なら、本来、会社で一番仕事をしている者がその地位を得るべきだ。
「アニキが社長になったら、」
トイレから戻って来た河津は、抜けるような笑顔だった。
「オレぁ、専務だな」
革張りの椅子にどっかり腰掛けた彼に、田代は顔を近づけた。
「あ? 何言ってんだよ」
田代の目つきを見て、河津はギョッとなった。
「お前が専務? 寝ぼけんなよ。お前がそんな器かよ」
唇を震わせてものを言おうとした河津の前に田代は立ち、カップを床に叩きつけて割った。
音に驚いて、ランチ客が一斉に振り向いた。田代は両手で河津のジャージの襟を掴み、額を寄せ、「舐めた口きいてッと、怪我すんぞ」と言って平手で頬を張った。
「や、やめて下さいよ」
人目を避けて表へ出た。防犯カメラのある駐車場ではなく、店の裏手に広がる田圃だ。畔に河津をひざま付かせ、
「いつから、そんな口きけるようになったんだ。ああ?」
とまた平手打ち。やめてください、勘弁してください、と河津は平謝り。彼は戸惑っていた。田代は先輩で、恩人でもあった。高卒で勤めた会社では精勤ぶりを認められ、若くして管理職だったが、同族が役員を占めるその会社では出世できないことに嫌気が差し、上司と衝突したのを機に辞めた。ぶらぶらしていた頃に声を掛けられ、クスリと刺青を教えられ、以来、彼と行動を共にしていた。彼に逆らったことはなかったし、彼が河津を責めたこともなかった。
やめてください、許して下さい。
訳も分からず河津は謝った。なぜ怒るのか。さっぱり分からなかった。
ただ、思い当たる節はあった。クスリをやることだ。売人が薬に溺れることはままあったが、田代は薬をやらなかった。売り物に手は付けない主義なのだ。河津はやる。激務の疲れを癒すためだ。今の仕事に専従するようになり、疲れがたまって体が悲鳴を上げることがあった。たまに様子を見に来る彼からクスリを分けてもらい、気晴らしに使った。一時の爽快感で、体の疲れを抜いた。
この感覚が、彼に対する忠誠心を増強していた。彼が来れば、癒される。河津はそう刷り込まれていた。
ただ河津は、対価を払っていなかった。激務に耐えている褒賞と考え、田代の方から要求することもなかったので、敢えて払おうとしなかった。先輩の好意に甘えていたわけだ。
そこを、責められている?
「なめんなよ!」
ゴリラのように咆えて立ち上がり、田代を突き飛ばした。よろける彼の顔面に、思い切り拳を突き当てた。
無我夢中。
何発殴ったか、分からないくらい殴った。腹の底の野獣が、一気に目を覚ました。殴られ、張られ、突き飛ばされて、田代は顔面から盛大に血を吹き出した。
「あ、アニキ」
泥の上にへたり込んだ彼を見て、ふと我に返った河津は、彼の肩に手を添え、腕を取って起こそうとした。ああ、自分。自分ってなんだ? 尊敬するアニキを、こんなにぶっ飛ばしてしまうなんて。
「おめえのパンチはその程度か、クソ野郎」
河津はまた咆え、ビッグサイズの白スニーカーで田代を蹴飛ばし、黄金色に実った稲の中に沈めた。
(つづく)
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