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与えられた男 その8・最終回

 中年になって、孤独になって、巡り合わせの不運に呆然とし、行く先に不安を覚える。己の来し方を振り返り、後悔し、反省し、結局それが、何の功徳もないことに気づく。八方ふさがり。打つ手なし。頼る人もない。困ったことには、会いたい人もいない。生活に困窮した中年男など、誰が会いたいと思うだろうか。そう思うと、こちらから連絡を取ろうという気も起らない。梶原の葬儀で焼香した後、小早川は、日暮れの街を、川沿いに下って散歩した。入道雲に夕日が映じていた。世の中、案外、上手くいっているのだ。だから、もし、この世が幻滅しか生まないとしたら、自分がここにいる価値はないのだろう。反対に、いなくなることに意味があるなら、それは一つの価値と言えるわけだ。自分に拘る年ではない。それが新しい世代のためになるのなら、進んで志願するのはむしろ正しい。
 鎮守の境内に入った。砂利を踏んで拝殿へ向かった。誰もいない。祭りでもなければ、夜、こんな場所を訪れる者はいない。あの晩、同じような日暮れ時、拝殿脇の縁側で、波多野と過ごした。何を話したのだろう。もう、忘れた。おそらく、何も話していなかったのだ。夏の、夕暮れの匂い。彼女の、汗のにおい。これから向かう、未来の気配。そんなものを感じ取っていた。虫の声を聞きながら。
 鎌倉武士は、遺族への補償を期待して、自らの命を犠牲にした。幕末の志士は、国家の近代化のために礎となった。特攻隊は、不利な戦況を打開するために先駆けした。いずれも二〇代の若者だ。自分は早五〇。生き過ぎだ。加えて非労働者であり、無産者であり、税負担も少ない。生きていけないわけではないのだ。他の選択肢もあることを、国が示しているだけだ。しかもそれは任意。強制ではない。なまじ、孤独の生活に苛まれて、世間を恨み、隣人を憎しみ、死出の旅路の行き掛けに、道連れを求めようなどという偏狭な思いに囚われて、恥を百年の未来に残すくらいなら、自ら締め括りをつけた方が潔い。
 拝殿に明かりが灯った。廂から広がった光が、賽銭箱の前の参拝客を照らした。小早川は息を呑んだ。波多野だ。娘ではない。葬儀の際に、人目を忍んで声を掛けた当人だ。
 屈んで身を隠した。隠れている場合じゃないのだが、なぜか、ふいに、自分がこの場にふさわしくないような気がした。つまり、こういうことだ。上手くいっている世の中を、自分の都合で乱してはいけない。彼女は晩婚で、授かったのは娘一人という話を聞いていた。婚家と折り合いが悪く、近頃、娘を連れて家を出たことも、予め聞き込んだ。
 だが、ドブ川に鯉が戻ったように、世の中は、案外上手くいっていて、今、自分がこれを乱したところで、一時不穏になるかもしれないが、すぐにまた、元のように上手くいくに違いない。世の中、変えようとしても変わらないが、気が付けば、自分など置き去りにして、変わっているのだ。問題は、そこに参加できているかどうか。世間の流れから落ちこぼれているなら、それもいい。誰にも知られず、静かに消えてしまえばいい。人は得てして、本物を求めながら、本物的な何かで満足しがちだ。しかもその本物は常に変化し続けていて、かつ、自分すらも、変化し続けている。ゆえに、どの時点が本物であるか、人なる身である以上、永遠に分かることはないのだ。
 拝殿の明かりが消えた。小早川は、縁側から飛び降りて砂利を踏んだ。明日は、開庁時間に市役所を訪ねるつもりだ。   
(了)

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夜の来訪者|nkd34 (note.com)

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