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一五分間死んだ男 その3

 路側帯に停まった車のウィンドウが静かに下がった。
 チキショウメ。
 仁田は被害妄想の塊だった。今月に入って三カ所目。大学卒業以来勤めた信用金庫を昨年の暮れにリストラされ、再就職のために求人に応募し続けていた。だが、書類を送ってもブーメランのように送り返されるのが大半で、面接に漕ぎつけても希望を伝えた途端に相手の態度が変わる。「手取り一五万!」慨嘆しながらタバコを吹かした。何でオレが。これでも前職では管理職で、年に五百万もらっていたのだ。この日応募したのは、福祉施設の生活支援員。ハローワークの紹介で、事前に報酬は分かっていたが、実際に話を聞いてみると、実質最低時給と同額で、賞与は実績によって変動し、残業はない。どう計算しても、年収で二百万程度にしかならない。中学生を筆頭に三人の子がいる彼には受け入れがたい条件だった。
「手取り、一五万!」
彼はウィンドウの外に向けて煙を吐いた。
 タバコはやめていた。ただでさえ少ない小遣いの中で、昼食やその他の日常の出費を賄わなければならない。妻が正規の公務員なので、すぐに食うに困るような身の上ではなかったが、ゆとりはない。それでも、就職活動の日は吸わずにいられなかった。胸から沸き上がったイライラが脳内で蠢動して、毛穴から染み出しそうだ。ニコチンを入れて静まらせないと、気が狂いそうだった。
 歩道側のウィンドウを叩く音がした。
「ご主人、ちょっといい?」
くすんだ色の顔が、横倒しになって中を覗いていた。
「タバコ、困るんだけど」
こけた頬に尖った顎。セルロイドのような光沢の目には表情がなかった。
「え、だって、車内だから」
「副流煙。窓、開けてたでしょ?」
男は懐からネームホルダーを取り出した。
 仁田はハンドブレーキを上げ、ギアをドライブに入れた。横浜駅の周辺が禁煙区域だということは知っていたが、停車違反ではないし、車内で吸う分には構わないはずだ。しかし、相手は市に雇われた喫煙マナー監視員。関わらないで済ませたい。ただでさえ少ない小遣いだ。ここで過料を取られるわけには行かない。迷わずアクセルを踏んだ。
「え、え?」
男は手を突っ込んでウィンドウを下げると、ドアを開け、助手席に乗り込んできた。路面に引きずった足を入れ、ドアを閉めた。
「逃げちゃいかんだろ」
仁田の頭をポカポカ叩いた。
「す、すみません」
仁田は混乱した。喫煙マナー監視員が、乗り込んで来る?
 男はシートベルトを締め、さらに殴った。
「逃走は悪質だよ? 情状酌量なしだよ」
「す、すみません」
「すみませんじゃ、すみませんよ。アンタの場合、これだな」
折り畳んだ紙を開いて、過料の等級を見せた。
「二万!」
「そう。即金でね」
信号待ちで急停車した。二人の体が、ガクンと前のめりになった。
「無理です」
「ダメだよ」
「でも、無理なんです。ないんだから」
「ないったって、ダメだよ。条例で決まっているんだから。現金がないなら、キャッシングしなさいよ」
「限界まで借りて、もう貸してくれないんです」
「情けない奴だねぇ。じゃあ、どうすんの?」
冷たい目で睨まれて、仁田は動揺した。ボールを投げ返された形だ。
「どうするって。ええと、あ、あれだ。子どもの貯金があった」
義父が毎年、お年玉を一万円ずつ子ども名義の口座に振り込んでいた。上の子はすぐに下ろしてしまっていたが、下の二人はまだ使い道を考え中で、口座に入れたままだった。
「ひどい親だねぇ。子どものカネに手をつけるの? ま、こっちは何でもいいけどね。カネはカネだから」
仁田は唇を尖らせてブツブツ言いながら車を戻し、東口の郵便局前に駐車して、自分だけ降りた。
 坂口は仁田が置いて行ったスマートフォンを懐にしまった。助手席で仁田のタバコを吹かしながら待った。今朝と合わせて三万五千円。スマホを中古屋に売れば二、三千円にはなるだろう。これくらいあれば、向こう一週間は遊んで暮らせる。久し振りに、ホテルに泊まろうか。サウナでもいいが、仮眠では疲れが取れない。やはり、しっかり体を休めるには個室で寝るのが一番だ。
 バックミラーに、仁田の、腹の突き出た大柄な体が映った。彼の両脇に、やはり大柄な、黒スーツにサングラスをかけた男たちが付き添っていた。坂口は運転席のドアを開けて車道へ飛び出し、反対側の歩道へ駆けた。彼を避けたバイクが危うく転倒しそうになった。
「あそこです!」
仁田は、ビルの脇から階段を下りて地下街へ向かった坂口を指差した。男たちは車道を渡って彼を追った。仁田も後に従った。
(つづく)

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