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売られたヤクザ その12

 一千万の元手から、すぐに一千万の利益を得られることは滅多にない。投資額と同額のリターンは、利率百パーセントということで、つまり倍増だ。しかし、それでは投機だ。ギャンブルだ。可能性はなくはないが、確率は限りなく低い。投資は、年利五パーセントでも、一〇パーセントでも成功と言える。一千万の元手を、一〇年、二〇年かけて倍にする。それが投資だ。山口は、月々僅かでも利益が上がれば、それで充分と考えていた。この先、生きていられるのは、二〇年か、三〇年か。その間の生活に資する費用を、手持ちのカネで生み出す。資産の有効活用だ。
 だから山口は、会社の実態がなかろうが、それが反社会勢力と目されるヤクザの組の表向きの看板だろうが、一向に構わなかった。この投資が、毎月二万でも三万でも、利益を生み出すなら。
 正確に言えば、月一〇万なら年利一二パーセント。一五万なら一八パーセント。借金の金利の上限が一五パーセントだから、一二、三万ももらえれば、カネを貸すより有利だと言えた。投資として見合う、と彼は考えた。
 小なりとはいえ黒字経営の会社の社長の報酬が、一二、三万ということはないだろう。七桁は無理でも、年利四、五〇パーセントは優に超えるだろう、と目算していた。
 ところが、この一週間余り、牛王町駅界隈、即ちカタビラ組の縄張り近辺を訪ね歩いてみたものの、何一つ手掛かりが得られなかった。自分の報酬に関する手掛かりだ。社員は誰で、経理担当は誰で、金銭の出入は誰が管理しているのか。なかんずく、社長の報酬はどういう仕組みで発生しているのか。工藤親分に彼の一千万が渡っている(正しくは、工藤の入所している介護施設の口座にそのカネは振り込まれた)のに、投資の利潤を受け取る手順が判然としないのだ。
 彼は焦り出した。まさか、と思う。こんなことは思いたくないが、思わざるを得ない。このオレが? という陳腐な自嘲が浮かぶ。
 まさに、まさか、である。このオレが、騙された?
 この年まで、人を騙して生きて来た。人のカネを自分のものにし、さも人並みの収入があるように装い、世間を欺いて暮らしてきた。騙すのは自分。騙されるのは他人。これが山口の生活の基盤であり、人生の信条だった。人間に貴賤はない。彼は完全平等主義者だった。自分も人なら彼らも人。誰にも違いはない。もし、この世に人を分ける根拠が存在するとしたら、それはただ一つ。騙す者と、騙される者。これしかない。彼は完全平等主義者だが、彼以外の人間が、必ずしも平等を信用していないことも知っていた。むしろ、そんな人間の方が多いのが現実だ。人は所詮人なのだから、平等でない人はあり得ないのだが、他人と同じという峻厳な事実を受け入れられない幼稚な人間が、自分と他人との間に線を引きたがるのだ。自分と他人を分けたがるのだ。けだし、古今東西の人間同士の争いは、この架空の線引き上の争論から始まる。架空の、即ちウソを本気で信じる思考上の停滞、平たく言えば拘りが、他人同士の軋轢を生むのだ。そしてその拘りは、煎じ詰めれば、騙す者と騙される者という二元論に納まる。
 人間が二通りしかいないなら、自分は騙す方になってやろう、というのが、山口のこれまでの行動原理だった。完全平等論者の彼には、手段の法的整合性は重要ではなかった。法は平等を謳いはするが、保証するものではない。幸いこの主義は彼の性分に合っていたようで、この年まで一度も失敗することなく稼業を続けることができ、人並みか、やや多い程度の資産もできた。
 そのオレが、騙されるとはこれ如何に。
 油断がなかったわけではなかった。宇佐美は旧知の間柄であり、投資はこれまでも、株式だけだが、多少経験があった。預金を崩して、住む以外にほとんど価値のないマンションを買うよりも、会社を買った方が得だと思ったのは、まだ自分の判断力に自信があったからだ。信金マンから事業承継の話を持ち掛けられるのはさほど不自然なことではないように思われたし、何より、傍から見れば堅実な職業人である自分が、年を経て経営者として見込まれるというのも、ない話ではないと思われた。
 いや、ここが蹉跌だ。
 油断と言おうか、慢心と言おうか。或いは、引退を決めた心に、自分でも気づき難い小さな緩みができた、と言ったところか。
彼は、牛王神社を出た後、駅裏の立ち飲みで焼酎をロックですすった。古ビルの二階にある飲み屋で、一〇坪程度のスペースに、頑丈なカウンターが置いてあるだけの薄暗い店だ。隣の共同トイレの匂いが仄かに漂い、酒は蒸留酒ばかり、カクテルとは名ばかりの、氷を入れて割りものを混ぜただけの、ひどく濃い物ばかり、つまみは乾き物ばかりの店だったが、一杯二八〇円、ボトルは二千円から入れられ、チャージはないので安く飲めた。
「憲法なんてものはね、時代に合わなくなったら、変えてしまえばいいんだよ」
「そうですよね」
「法律は本来、それに従う人のためのものだからね。天下万民の幸福を実現するための憲法でなければならない。特定の誰かが損をする憲法なら、どんな高邁な内容でもね、あるだけで不平等なんだよ」
奥の、ビア樽を模した丸テーブルを占拠して、ひどく目つきの悪い、洋梨のような体形のビジネスパーソンがおだを上げていた。追従しているのは、彼の後輩か部下らしき、背は高いが腰を屈めた姿勢が卑屈な、中間管理職風情の男だ。平日にはほとんど客のない店だったが、近くのビジネス街から、こうした一見客が流れて来ることがあった。
「今の憲法を誰が作ったかなんてのはね、たいした問題じゃないんだよ。誰が作ったってね、人間のやることだから、どうせろくなもんじゃないんだよ。大切なのは、内容だ」
「そうですよね」
「日本が良くなる憲法。もっと言えばね、日本が儲かる憲法。そういうものに変えなければならない」
「なるほど」
「第一ですよ。九条がいくら神聖なものだとしてもね、それで困窮している者がいるとしたら、平等主義に反するじゃないですか」
「憲法九条で、困窮する人がいますか」
カウンターの中でグラスを磨いていたマスターが口を挟んだ。彼は店主だが、オーナーではなかった。個人経営風な店構えでありながら、この店は、東証に上場している全国規模のレストランチェーンの系列で、彼は有期雇用の契約社員だ。銀髪のオールバックと口ひげ、白シャツに蝶ネクタイというスタイルは、いわば商売用のコスプレだ。
「いる」と洋梨は断言した。「九条のおかげで、我が国は甚大な機会損失を被っているのです」
「ははあ」
「大将、考えてもみなさいよ。我が国は、戦前、世界でトップクラスの武器製造技術を誇ったんですよ。ゼロ戦しかり。戦艦大和しかり。戦後、この技術の多くは衰退した。我が国の技術者は、九条のおかげで活躍の場を失ったのです。お分かりですか?」
「むむ、どういうことですかね?」
「九条に謳われている平和主義のために、戦後、我が国は武器輸出三原則と、非核三原則を宣言しなければならなくなったのです。このおかげで、我が国は武器の輸出と核開発ができなくなった。もちろん、自衛隊の武器は原則自国調達ですからそれは作りますが、何しろ、戦争をしない軍隊ですからね、自衛隊は。武器が減らない。なくならない。新しい物を買わない。周知の通り、我が国の製品の耐久性は世界一ですから、一度配備してしまえば、ほとんど交換の必要がない。ちょいと修繕すれば使えてしまう。このため、我が国の兵器産業は、ほとんど買い手がいない状況なのです。買い手がないから作れない。作らないから技術が発展しない。しかも技術者が高齢化しているのに、若手に継承する機会がない。悪循環に陥っているのです」
「核兵器についても同じことが言えます。憲法は、防衛のための戦争は禁じていません。ですから本来、現行憲法でも核武装はできたのです。これを、平和主義に絡めて自粛してしまったのが、戦後政治の蹉跌です」
追従の男がカウンターに空いたグラスを下げ、マスターは新しいジントニックを二杯作った。彼はさらに、山口のグラスに氷を足し、焼酎を注いだ。
「我が国の職人の技術は世界一。戦後は技術力で奇跡的な復興を果たした。技術力で、これからも乗り切る。これが、我が国の生きる道ですね。そのために、兵器の製造と輸出。これを可能にするべきです」
追従の男が、目尻を下げたにやけた顔つきで声を張り上げた。
「その通りですよ」と洋梨が続けた。
「戦後数十年続いた、武器輸出禁止、核兵器非製造という機会損失。これを取り戻すためにも、今こそ、憲法九条は改めなければならんのです」
「武器を売るために、戦争放棄を放棄するんですか?」
「いや、それは違うんですよ」
追従がマスターに応えた。
「平和主義を捨てることは、誰も望んでいないのです。対外戦争は放棄する。これは正しい。もはや、他国の領土を占領して、自国に組み入れるような時代ではないですから。専守防衛。自衛のための戦争に限る。これも、現在の国際情勢からして正しい。問題は、我が国が、九条の存在のために、武器の輸出も核兵器の開発も制限されている。ここなんです」
「世界に軍隊のない国はない。いや、表向きには、バチカンとか、ありますけどね。でも、世界には戦争があるし、武器を必要とする人がごまんといる。巨大な市場があるんです。ざっと年間二千億ドルと言われている。日本円で、約二〇兆円のビッグマーケットですよ。これに、我が国は参入できていない。世界一の技術がありながら、ですよ? イラク戦争、覚えていますか? あの戦争で、日本は巨額の戦費を負担した。ですが、ですよ。一円も儲からなかったのです。巨額の投資をして、一円もリターンがなかった。悪夢ですよ。あれが転機です。あれのおかげで、世界中が我が国を見下すようになったんです。カネを払って、見返りを求めないバカな国、とね。日本は、憲法のおかげで、何兆円という儲けをフイにしているんです。大馬鹿ですよね、本当に」
「でも、その武器を使って、世界中の人が人殺しをするわけですよね?」
店内の全員が、一斉に山口を振り返った。
 白シャツのマスター。スーツとネクタイのビジネスパーソン。対する山口は、カーキ色の、袖のすり切れた作業用のジャンパーに、膝の抜けたスラックスという、水道や内装の工事業者といった風情。
「いや、お話に割って入ってスミマセンがね、」
彼は焼酎のグラスを置いた。
「市場があって、カネが動いているからといって、必ずそこで商売しなければならないというものでも、ないじゃないですか。人道というものがありますから。人殺しの道具を売るのは、まあ、産業としてはあり得るとしても、国としてそれを奨励するのはどんなものか」
「奨励するわけではないんですよ」
「左様。ビジネスチャンスを逸しておるという話でね。例えば、国がコンドームの販売を促進するのは、人口増加と性病を抑止するためで、セックスを奨励するためではない」
追従の男とマスターが、声を揃えて笑った。
「武器を売ったからといって、人殺しを奨励することにはならない。むしろその反対です。敵対する国と同等の戦力を持つことで、戦争を抑止する。人々が武器を所持し、国が軍隊を保有する目的は、ほとんどこれですよ。戦力に格差ができるから、おかしな野望を持って他国を侵略しようとする輩が現れる。はじめから戦力に大差がなければ、戦争は起こり得ないのです」
「いや、それは詭弁ですよ」
山口はグラスを持って彼らの方へ歩み寄った。
「何とかに刃物っていうじゃないですか。刃物に限らず、道具というのは使いたくなるものですよ。冷静にものを考えられる人間なら、武器を使った後の結果も想像できますがね、そんな人間ばかりでもないじゃないのが現実です。実際、銃の所持が認められている米国では、銃撃事件が絶えない」
「銃撃事件と武器輸出は次元の違う話ですよ。おかしな人物は、治安当局が取り締まるべきです。そういう人物に、武器が行き渡らないようにするのもそうです」
「それは現代の『矛盾』ですよ。武器は渡したが、使えとは言っていない、という。今、こちらの方が言ったばかりじゃないですか。おかしな野望を持った奴が、他国を攻撃するって。フセインみたいなのに、日本の武器が渡ったらどうするんですか」
マスターが、山口の腕を軽く指先でつつき、グラスを取り上げて、新しい氷と焼酎を入れた。
 ビジネスパーソン二人は、顔を見合わせて薄笑いを浮かべた。理に屈したという感じではなく、山口の剣幕を恐れて、旗を巻いたといった風情だ。
 彼らとて、日本国憲法のことを真剣に考えているわけではなかった。近頃流行の話題なので、自己流の解釈で酒場談議の花にしていただけだ。山口は後悔した。飲み屋で会った客に絡むなど、これまでなかったことだった。まして、他人に向かって意見を言うなど。
 ものを言えば、言葉の端々から身元が知れる。世間のすき間に住む彼は、他人と深く付き合うことをこれまで避けていた。宇佐美のような、ビジネス上必要な相手とは長い付き合いになったりもするが、これまで決して個人的な話を教えたり、個人的な意見を言ったりしたことはなかった。
 どうも、調子がおかしい。
 山口は支払いをして店を出た。
 店の入り口の前で、壁に寄り掛かり、膝を抱えて座っていたヨシヤが、慌ててついてきた。山口は駅前の牛丼屋に入り、彼に大盛の牛丼を食べさせた。自分は焼き鮭の定食を注文した。
 どうも、おかしい。何がおかしいと言って、自分が一番おかしい。他人に食って掛かるなど、人生五〇年、一度もなかった。親にも反抗しなかった。もっとも、彼は早くに両親が別れ、母親に付いて転々と親戚の家を渡り歩く生活だったので、反抗する暇がなかった。どこへ行っても仮住まいで、他人の目を憚る暮らしで、反抗という回路ができなかったのだ。その代わりというわけでもないが、他人の目を盗んでカネをくすねる癖がついた。反抗をせずに犯行を重ねたわけだ。
 山口は、丼に顔を突っ込んでいるヨシヤに「分かったか?」と尋ねた。「この上」と飯を頬張りながら彼は言った。「この上?」山口は白い飯を持て余し気味だった。腹は空いているはずだったが、胸が塞いで飯が通らない。
 ヨシヤは大見の店を辞めた。ろくに仕事を教えてくれないのに、失敗すると怒鳴られるからだった。彼は、養護施設に暮らし、昼間は働いて、夜間は高校に通っていた。だが、昼の仕事は辞め、高校はサボりがちで、施設にも帰っていないようだった。大見の店で知り合って以来、付き纏うようになった彼に、山口は南条の居所を探させていた。
「カラオケ屋か?」
「違うよ。その上」
雑居ビルの最上階が、南条の事務所だった。店を出て上の階を仰いでみると、台形に切られた天井の低いフロアに、明かりが灯っていた。
「じゃあな。帰れよ」
山口は彼に千円握らせた。
「うん」
「さっきも帰るって言っただろ? もう一一時だ。本当に帰れ」
「帰るよ」
ヨシヤは、プイッと背中を向けて駆け出した。
(つづく)

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