売られたヤクザ その6
それにしても、こんな社長がいるだろうか。会社の業務内容も知らない。社員すら知らない。会社の場所も分からないのだ。登記簿上では、牛王町駅前の、雑居ビルの最上階が本社ということになっていたが、出かけてみるとビルはプレハブ、テナントは外国人経営のエスニック料理店で、現在は休業中。最上階は物置だった。もっとも、人材派遣会社なら登録する派遣スタッフとパソコンの一台もあればできるわけで、社屋が立派である必要はない。ただ体裁として規定の営業所は必要なわけで、その場所を山口は知らされていなかった。七人いるという社員の連絡先も分からなかった。
日中の駅前をうろついて、それらしい事務所を探してみた。牛王町というのは、横浜駅から私鉄で三つ目の小さな駅だが、東海道に面した駅前はかつての宿場町であり、戦後の一時期は首都圏でも有数の繁華街だった。占領軍の撤収後、市の中心が関内方面に移り、さらにみなとみらい地区が開発されて、人の流れが変わり、街は変貌した。キャバレーはパチンコ屋になり、映画館はマンションになって、歓楽地としての地位を失った。一応、東京通勤圏のベットタウンなので人口が多く、賑わいは残った。近接の工場跡地にIT企業が進出して、近年はビジネス需要で息を繋いでいた。
目抜き通りには、飲食店の看板がひしめいていた。ランチとディナーの客を当て込んでいるのだ。それから、美容室と接骨院。賃貸専門の不動産屋。デイケア施設や児童施設もあった。戦後の混乱期に細分化された土地に細かく建てたビルが多いので、大規模な開発ができず、小さなテナントで起業する会社や個人が多いのだ。
商店街を横断して川が流れており、橋の欄干に水鳥が並ぶ。川面にはひどく肥えた鯉が泳いでいた。
山口は橋を渡り、川沿いの道を国道方面に折れて三軒ほど先の、全国チェーンのコーヒーショップに入った。信金近くの店とは別ブランドの店だ。コーヒーを飲むだけなら、この街には老舗の喫茶店もあり、こだわりの名店もあり、フリードリンクのファミリーレストランもあるのだが、たまたまこの店のアプリにブレンドコーヒー半額のクーポンがあったので、使おうと考えたのだった。
黄色の地に青文字の看板の下をくぐり、カウンターの前に立つと、誰もいない。誰も出て来ない。店内を見回したが、コーヒーカップ片手の、妙齢の女性客がチラホラいるだけで、店員らしき者が見当たらなかった。席に掛けて待っていてもオーダーを取りに来てはくれないだろうし、呼び出しベルのような仕組みも見当たらない。山口は伸び上がってカウンターの中を覗いた。
いた。
白シャツの若い店員が、しゃがんで、夢中でアップルパイを頬張っていた。山口は、人差し指の第二間接でカウンターを二度叩いた。店員は跳ね起き、口をもぐもぐさせながら直立になった。
「ヨシヤ! お前はまた」
奥の事務室から現れた、店長らしき男が怒鳴った。
「全部映っているんだから、隠れたって無駄なんだよ」
男は天井に埋め込まれた防犯カメラを指した。ヨシヤと言われた店員は、小柄な、浅黒い顔の少年だ。つぶらな黒目をキョロキョロさせ、店長を見、山口を見た。
「ブレンド一つ」
「そのケーキ代、お前の給料から引くぞ」
店長は店中に響く声で怒鳴った。ヨシヤ少年は直立不動のまま、また店長を見、山口を見た。
「ブレンドだよ」
山口はスマホを差し出した。店長が駆け寄り、レジの端末で割引のバーコードを読み取った。頬がこけ、顎の尖った目つきの悪い中年男だ。短く刈った頭に、店のロゴの入ったキャップを乗せていた。
ヨシヤが機械にカップを置いてコーヒーを入れた。
「エスプレッソじゃねえよ!」店長は声を裏返して怒鳴った。「もういい! オレがやる!」
ヨシヤはまた直立不動になり、おどおどと首を振った。
マグカップに入ったコーヒーをカウンターで渡され、自分で席に運んだ。窓側の席を選んだが、外に見えるのはコンクリートの防波堤。羽を畳んで寛ぐカモメと目が合った。
「いらっしゃいませ、社長」
店長が、わざわざ山口の席まで来て挨拶した。
さっきとは打って変わった、卑屈なほどの笑顔。薄い唇が口角を上げ、尖った鼻がひくひくと動いていた。彼を見上げ、しばらく見つめ合った。
社長と言った。
確かに社長だ。山口は、なけなしの預金を崩して会社を買った。完全なる新米だが、社長に違いはない。
だが、彼が社長であることを知る者は少ない。三ツ沢の介護施設で、取引に立ち会った者の他にいるはずがない、と彼は思っていた。自分の会社の社員ですら、彼のことを知らない。会社がどこにあるかも分からないのだ。
空き巣と並行して投資家としての収入もあった彼は、紙屑同然の株式を引き受けて社長の地位を買った。つまり、これは投資の延長だ、と彼自身は了解していた。社員も、会社の業務すらも知らないままでも、究極的には構わないのだ。利益さえ出ていれば。
だから彼は、ことさら社長であることをひけらかそうとは思わなかったし、社員なる者たちに会おうとも思わなかった。社屋を探しているのは単なる興味本位、というより義務感で、自分の会社の在り処を知らない社長というのも世間的に不自然かと思ったからだった。見つけてどうしようという意志もない。社員たちの働く様子を外から見て、黙って帰ろうと考えていた。
「ワタクシ、こういう者でございます」
店長は名刺を差し出した。
『カフェ、サン・ジュリアーノ店長、大見健三郎』
「よろしいですか?」
大見は、彼の向かいの席を求めた。これにも面食らったが、顔には出さず、手を差し伸べて勧めた。
「ボクのこと、知ってるの?」
「ハイ。先日、宇佐美さんに伺いました」
「ふうん。でも、顔は分からないでしょ?」
「お会いした時に失礼のないように、画像を頂戴しました」
大見はスマホを取り出し、山口の顔を大写しにして見せた。
つむじの毛を立てた、白髪だらけの男が、唇を結んで横に視線を走らせていた。信金を訪れた時の画像だ。宇佐美に撮影を許可した覚えはない。彼は、信金の防犯カメラに映った画像を保存したのだ。
「忙しくなりますね」
「そうですかね?」
「そうですよ。何しろ、五〇年ぶりの代替わりですから」
大見は、両膝に手を乗せ、前のめりになって言った。窓から差し込む日差しが、彼の顔も体も白く輝かせていた。
「そんなになりますか」
「なります。我が社の創業は慶応四年。いわゆる戊辰戦争で、徹底抗戦を主張した幕臣が、東海道の防備のために編成した浪士組が起源とされています」
山口は、白いカップの中のコーヒーに映った蛍光灯を眺めながら、意識が遠のくのを覚えた。
(つづく)
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