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リベラルおじさんのアンビバレントな言動

僕のよく行く飲み屋に、あるおじさんがいる。

彼こそ今回のタイトルにある自称リベラルおじさんだ。仮に名前を高橋さんとでもしよう。

高橋さんは過去に80〜90年代のマスコミ業界にいただけあって結構な知識をお持ちで、時々会うと当時の雰囲気や映画、文学などカルチャーについて色んなことを教えてくれる。

彼は自称リベラル。ジェンダーやフェミニズム的な論調にも肯定的だ。そして、ライトな政治家を批判し、ネトウヨとTwitterで激論を交わすなど精力的に活動している。男女同権的な言動も多く、「まともな市民」として振舞っている。

色々と話題となった全裸監督にも批判的で、そのため「Netflixは見たくない」と言う。

「男女の平等」的な考えに肯定的なのは僕はまったく異論がないのだが、しかし、時折、彼の言葉と行動は大きな矛盾を示す。不思議なことに。

飲み屋なので老若男女が集っているのだが、彼の隣に座ると大変だ。好きな映画や時事ネタの話になれば、「それは〜で」と割り込み、延々解説と持論と関係する自分の過去の話をしまくる。「俺、解説癖があるんだよなあ」と言いながら、マンスプレイニングに歯止めが効かない。

「もういいですから」と言われれば、時々「うるさい!」と遮断する。

さらに、ある女性に対し「お嬢さん」と言って、怒られていたし、サシで飲みに行ったことのある女性への対応もまあ酷いもんだった。

こういうことは書ききれないほどある。要するに言葉と行動が伴っていないのだ。こうしたこともあって、その飲み屋には高橋さんNG(苦手)の人、特に女性が多い(と思う)。

彼の心情を察するに、時代の潮流は頭ではわかっていて、それを「支持している」と発言することの重要さも認識している。ただ、人間そうそう根本の部分は変えられないことが、彼の行動を見ているとわかる。

彼はサブカルなどに詳しい、いにしえのオタクであり、現在の若者が言うような「〇〇ファン」「推し」というポップでファッショナブルなものではなく色々とガチだ。

とあるサブカル系評論家は
「かつてのオタクは自身の非モテ性をその探究心のパワーの源のひとつとしていた。当時のオタクは体育会系に対する敵対心とミソジニー的なきらいを少なからず持っている。それらはおじさんになってもなかなか消えることはない」
と言った。

頭では理解しているが、染み付いたものが言動に出る哀しさよ。特に飲みの席ならなおさら「本性」が、不意に出てしまうのだろう。

とはいえ、それは僕も含めて誰にでもある思考の癖、消えない汚れ、生まれ持った骨格のようなものだ。あとは、それをいかに認識して、コントロールするか、なのだろう。

先日、飲み屋で会った高橋さんは
「最近、女性が僕と一緒に飲みに行ってくれないんだ」とぼやいていた。



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