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30手前男がうんこを漏らした話

うんこを漏らした。

僕は30手前の普通の会社員である。
見る人が見ればおじさんの域に入るような
世間的には立派な大人がうんこを漏らした。

しかも、ネットの掲示板などでよく見かけるような

「おならだと思ったらちょっと出たw」
「水っぽいの染みてるww」

なんてあまっちょろいレベルではなく、腸内に滞留するありったけのうんこを漏らした。
それも会社で漏らした。

その日もいつものように電車に乗り、会社に向かっていた。

30分後、クソを漏らすことになるとは、いざ知らず、最近のお気に入りである「奇奇怪怪明解事典」というポッドキャストを聴いて、車内で呑気にニヤついていた。

確か内容は「朝井リョウの小説『正欲』について」だった気がする。

朝井リョウ氏の作品で僕が唯一読んだのは『何者』。

大学生の就活事情とSNSによる歪な関係性を書いたものだと記憶しているが、その作中にある一文が印象に残っていた。

それは一人暮らし学生の生活を表す文で

「いつものスーパーでいつもの食品を買う。そのルートを繋げば『一人暮らしの学生』という星座になるだろう」

というもの。

多分、正確ではないが、ニュアンスはそんな感じだったと思う。

美しい表現だ、と感心した記憶を朝井リョウ氏に関するトークを聞きながら思い出していると駅に着いた。

電車を降り、いつものルートで地下街を歩いていると、不意に肛門付近に熱いものを感じた。
早い話、便意である。

死と便意は突然に、とはよく言ったもので、なんの予兆もなく、振り返ればヤツ(便意)がいた。

ただ、この時点で僕に焦りはない。

なぜなら僕は生まれつき腹痛&下痢症持ちであり、これまで、幾多の便意の奇襲を経験し、圧倒的不利な場面でも肛門突破を防いできた実績があったからだ。

今回の便意は恐れるに足りない、過去の経験上、僕はそう判断した。

さらに、僕の肛門は、数ある肛門の中でも歴戦の猛者と言って差し支えないと本気で思っていた。急に便意軍が盛り返してきても、僕の難攻不落の肛門なら耐えられるという自負があったのだ。

しかし、それは過信以外の何物でもなかったと認めざるをえない。

尻の青い若造だったと、尻を茶色に汚した今となって思う。

みずからの肛門を信じ切っていた僕は会社までにある地下街のトイレなど見向きもせず、便意を携え、会社へ向かった。

地下街から地上に出ると、会社までは徒歩3分。 

この時点では初夏の日差しに目を細め、「今日は暑くなりそうだぜ」と無駄に心につぶやく余裕もあった。

しかしである。

1分ほど歩いたところでそれまでとは比べ物にならない便意が押し寄せて来た。
肛門戦線、異常ありである。

もはや、ポッドキャストの内容など入ってくるはずもなく、僕の状況を知らないパーソナリティたちの無邪気な笑い声に怒りすら覚えていた。

素早くイヤホンを外し、朝井リョウ氏の話題を断ち切ると、僕は全神経を肛門に集中させて歩いた。

いや、無意識に小走りになっていた。

すでに尋常ではない冷や汗が滴り、すれ違う通行人は僕に奇異の目を向ける。

初夏の日差しとはいえ、朝から大汗をかき、肛門を気遣った不自然な小走りをする男だ。

いくら他人に無関心な東京とはいえ、そんな気味の悪いやつがいたら誰でも気にしてしまう。

一刻の猶予も許されないと焦る僕は斜め横断で道路を渡り、会社まで可能な限り最短距離で小走った。

そのルートを結べば、おそらく「クソを我慢する会社員」という星座になるのだろう。

小走りで会社ビルに到着すると、目一杯手を伸ばしてエレベーターのボタンを押した。

が、ここで最悪の事態が起きる。

僕の会社は10階建ての5階にあるのだが、このときエレベーターは7階で止まっていた。
当然だが、7階から1階まで降りて、また5階に上がる時間と、そのまま1階から5階に上がる時間では大きな差がある。

極限までクソを我慢している人間にとっては1秒のロスも許されない。
このエレベーターの時間差は死活問題なのだ。

この時間が勝負を決したと言っても過言ではなかった。

いつもなら無駄にスマホをいじって時間を潰すのだが、すでに肛門は臨界点を超え、いまにも決壊しそうな僕はエレベーターの現在地を表示する階数パネルを鬼の形相で見つめていたにちがいない。

ようやく、エレベーターが到着。

乗り込むと同時に僕は「閉」と「5」ボタンを連打する。

限界のあまり足は震え、悪寒が走り歯もガタガタと鳴っていた。

これは極限までうんこを我慢した者にしかわからない感覚である。
うんこを漏らす、それも公共の場で漏らすという恐怖を感じると人は悪寒が走り、体にも異常をきたすのだ。

エレベーターに乗っている間、いつぞやの「トリビアの泉」で放送されていた「うんこを我慢できる方法」を思い出した。

それは、心理学者と肛門科の医師が結集し、8時間の議論末にはじき出された我慢法で、「うんこは腸にとどまるぞ」と言いながら10秒ごとに肛門を締めて緩める、というもの。

もはや僕に肛門を緩めるという選択肢はなかったが、せめてもの抵抗として「うんこは腸にとどまるぞ」と自分に言い聞かせ、会社に到着するのを待った。

極限状態のなかエレベーターが5階に着いた。

扉が開くと、僕は正月にテレビで見る福男レースさながら一目散にトイレを目指す。

服男レースでトップランナーはゴールの瞬間、宮司さんに抱きついて喜ぶように、僕も便器に抱きつくように座り、歓喜の排便をするだろう。

便座に座り、たまったうんこを放出する間、戦線を破られつつあった肛門、肛門を支え続けた尻付近の筋肉たちなど死力を尽くしてくれた自分の体に僕は感謝し、労うのだ。

そこまでのイメージは完璧だった。

早くズボンを下ろしたい、便座に座りたい、排便したい。

その思いと、肛門への激動は最高潮に達していた。

うんこは腸にとどまるぞ。
うんこは腸にとどまるぞ。

トイレまであと10歩、5歩…

うんこは腸に…

ぶりぶりぶりゅりゅぶりゅりゅうぅ

うんこは腸にとどまらなかった。

人生終わった、と思った。

無情の脱糞音が響いたと同時に、
一気に尻が人肌に熱くなり、
さっきまでの便意が嘘のようにたち消えた。

ズボンの裾からうんこが流れ落ちる前に
僕はラグビーのタックルのごとく
個室へ突入し、ズボンを下げた。

眼前のボクサーパンツには茶色の大海原が広がっていた。
下痢5歩手前くらいの柔らかうんこだ。
ふんわりと漂う生温かい臭いに自我を保つのがやっとだった。

あの瞬間、僕ほど頭が真っ白になっていた人間は
日本中を探してもいないだろう。
虚空を、いや、コウンを見つめ、呆然としていた。

ようやく自分が会社で大量のうんこを漏らした現実を受け入れると、
頭をフル活用し、いかに完璧に隠蔽するかを考えた。
幸い、まだ誰も出社していなかったのが不幸中の幸いだった。

トイレットペーパーで尻とパンツを何度もぬぐい、
トイレがつまらないようこまめに流す。
パンツは持っていたコンビニ袋に入れ封をした。

臭いを少しでも消すため、トイレ掃除用のシートで
便器を床を拭いた。我ながらよくやったと思う。

その後、「忘れものをしたので一旦戻ります」とメッセージを残し
自宅に戻った。

ただ、家の鍵を忘れるという痛恨のミスを犯す。

仕方がないのでマンションの共用ゴミ箱にうんこパンツを捨て、
パンツとズボンを開店直後のユニクロで買い、駅のトイレで着替えた。

そして、何事もないような面持ちで再び出社した。

最悪の事態として僕が出社したら
「なんか会社くさくない?」
と騒ぎになっていることも想定していたが、いたっていつも通りの日常がそこにあった。

「いやあ、まさか財布を忘れるとはなあ」と誰に言うでもない独り言を発しながらデスクに着くと、いつものように僕は仕事を始めたのだった。

小一時間前、同じ空間で大量のうんこが漏らされたとは
誰も想像していないだろう。

僕だけがそれを知っていると考えたら
自然と笑みがこぼれていた。

これが30手前でうんこを漏らした男の話だ。
少しでも笑ってもらえたら、捨てたパンツも成仏できると思う。

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