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1989 まにあうかもしれない

充実した楽しい日々でした。大いに遊び、大いにバイトし、大いに飲み、大いに音楽を聴きと。いくらでもこの辺りの出来事を語ることが出来ます。でも、それは書かない。

あの充実した楽しい日々、間違いなく自分のため、だけでしたね。なので、沢山の壁にぶち当たりました。どんなに傷ついても、そんなの関係なし。そんな中、21歳の時、32歳の方が修士課程で編入してきました。社会人を経て学び直しという感じでしょうかね。講義で知りあいました。

素晴らしい方でした。深くお付き合いはしませんでしたが、長電話にいつも付き合ってくれました。彼女がいなければ、私の就活での面接の言葉に重みをつけられなかったと思います。

話はちょっと脱線しますが、大学の後輩で、会社の後輩でもある方が、ご自身の誕生日にこのようなことを書いていました。「37歳の誕生日直後に一周目の人生を閉じてから15年が経ちました。今思うと、一周目の人生は常に自分中心で、家族や周囲の方への感謝の心にかけたものでした。多くの方につないでいただいた二周目の人生は、できる限り家族や周囲の方の力になれるよう努力してきたいと考えます。」

話、戻します。とっても楽しかった大学時代の最終章で、先の先輩の言葉が忘れられません。
「自分のために生きることは大切だけど、君の場合は、ほんの少しだけ自分以外の人のために割くといいと思うよ(まだ、まにあうよ)。」

カッコの中の、まだ、まにあうよ、と実際言われたのか、言われなかったのかはもう覚えていません。不思議だよな、普通は言わないと思うけど。いや、言われた気もすごくします。で、拓郎さんの「まにあうかもしれない」を聴くたびに思い出してしまいます。拓郎さんが、というか作詞家の岡本いさみさんが、何にまにあうと言っているのかは分かりませんが。

最近、本を書いているのですが、これは前にも少し書きましたが、自分のために書いているのですが、ほんの少しだけレコード収集という厄介で面倒臭い趣味に人生の貴重な時間の多くを割いてしまった人のために書いている、というのもあります。ほんの少しですが。

人生の後半戦、私の場合はいつまで経っても2周目には入ることができず、例えるなら登山に例えての山を下り中、というのがあっている気がします。

山を下る中では、自分のためだけだともう何も成し得ない気がします。ほんの少しだけ自分以外のために、そう思って書いています。




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