愛がなんだ

久しぶりに愛がなんだを再鑑賞した。というかもう再再再々鑑賞くらいだけど。

17歳になる直前に、この作品に出会った。映画館で観て、大人の恋愛ってこんなもんなのかと思いながら軽い気持ちで観ていた。マモちゃん最低だなー、ラストシーンやばいなーとか思いながら。見終わったときには、なぜかこの作品の虜になっていた。

その後、原作も読んだ。原作と映画で異なるところは、ほとんどないのだけれど、私はなんとなく映画が好きだなーと感じた。

その頃の私は純粋無垢だった。高校3年間ずっと好きだった人がいて「一緒にご飯食べに行きませんか」という文を送るのに、何日もかかるような女の子だった。手を繋いだだけで満足し、つまらない一言で思い悩むような、年頃の女の子。当時行ったこともなかった東京を舞台に、社会人同士の恋愛が繰り広げられる映画なんて、ただの憧れの対象でしかなかった。テルコみたいな都合のいい女って本当にいるのかな?とか、マモちゃんみたいな最低な男の人って本当にいるのかな?とか如何にも高校生らしい疑問を抱いていた。

現在、21歳。初めて観たときからもうすぐで5年。いろんな人に出会った。とくに恋愛において。私は一緒にいても将来的に幸せにはなれない人に好意を抱きやすいことに気づいた。

大学生に入ってから、4回ほど観返したけれど、月日を追うごとに耐性がなくなってきている。高校生のときに抱いた素朴な疑問への答えが出た。

Q1「テルコみたいな都合のいい女は本当にいるのか。」
A1「いる。私だった。でも、私だけじゃなかった。」
Q2「マモちゃんみたいな最低な男の人は本当にいるのか。」
A2「いる。マモちゃんより最低な男もいる。」

そんなわけないのに、観る度に、テルコって私がモデルになっているのか?と感じる。言動・思考が私なのである。ひとつ違う点があるとするなら、テルコのような受け身でなく、自分から連絡して、勝手に負けた気になるような攻めタイプであること。根本はテルコと何ら変わりはない。

マモちゃんみたいな男は、残念ながら居た。映画のマモちゃんは顔があれだから許されていた節があるが、現実に本当のマモちゃんはいない。でも、好きになってしまえば、顔がマモちゃんじゃなかろうと、性格だけがマモちゃんだろうと、関係ないのである。周りに否定されても、私だけが知っているその人の良いところを盾にして、知らないふりをするのである。後から思い返したときに、自分の滑稽さに呆れる。それでもまた人を好きになる。

私が大学生活で見てきた現実。きっとこの作品は受け手が20代後半に迫るにつれ、熟成されていく作品なのだろう。私が社会人になれば、また違った視点で観ることができると思う。

何回観ても圧巻だ、と思うのは終盤である。「恋でもなければ、愛でもない。」「どうしてだろう。私はいまだに田中守ではない。」というセリフの後に、象の飼育員になったテルコが写し出される場面。テルコや私みたいな人間の恋愛の極地ってきっと「その人になりたい」なんだろうなと思う。好意と憧れと独占欲が入り交じった、その終着点。いっそのこともうその人になれたら、と思う。

憧れを持った好意は消えないらしい。嫌いなる隙も与えられずに終わった恋も同様に。20代に入ってから、理不尽な恋愛ばかりに出会う。高校生のときのような恋愛はもうできない。教室や廊下で目が合うか合わないかで一喜一憂するような、一緒に映画を観に行って何事もなく帰るような、そんなまっさらな恋愛はもうできない。したいとも思わない。その人になりたいと思うような恋愛は捨てた方がいいのかもしれない、と最近思う。

自立した恋愛ができないまま、21歳になってしまった。それでも私はまた東京ではない街で、マモちゃんではない人と、また懲りずに恋愛をするのだろう。そして、またこの作品を見て泣いてしまうのだろうなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?