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相棒は猫

『僕にはわかる、主人はきっと何か辛いことがあり、ひどく落ち込んでいるんだと。』

と、言わんばかりの目線。挙動。

すりすりしてくるその姿。

猫は人の気持ちを強く感じ取ることができるのかもしれないと感じることが多々ある。

普通に一日が過ぎ去っている時には、わざわざ主人のところに体をすりすりしに来たり、何か言いたげな目で訴えかけるということはほとんどないのだが、よくないことが起きた時の猫の反応に助けられるということがよくある。

不思議だなぁ・・・と思いつつもそれに心が支えられているのは確か。

こんなに毛むくじゃらで四足歩行なのに、心が支えられるとは・・・と思うかもしれないけど、実話だ。

寝たいところで寝るし、触られたくない時に触ってきたら遠くに行けばいい。なんとも猫らしいというか、みんなが認識している『猫像』は多分それじゃないかとも思う。

なんだか、サバサバしているというかなんというか・・・

自由奔放とはこのことをいうんだなとある意味感心したりする。

食べたい時に食べて、飲みたい時に飲んで、寝たい時に寝る。

『それ以外に一体何があるというんだ。』
『生きるということはそういうことではないのか?』

言われてるわけではないけど、なんだかそう言われているような気がして、たまに妙に尊敬の眼差しで彼を見ることもあったりする。

でもそんなことを本当に言ってるわけでもないし、自分の中で勝手に解釈してしまってはいるんだけど、目とか動きとかがいつもと違ったりするので、そういう想像が掻き立てられてしまう。

あまり人に会うこともないから、たまに人と対面したりすると、緊張が顔にすごく出ていることがある。それもだいぶ。引き攣っている感じ。

いざ、二人きりになると、安堵の表情に変わる。

ほっとしているのだ。

人の感情も同じようにわからない時もあるけど、コミュニケーションが取れるからわかった気にくらいはなれたりする。

それが本心なのかどうかわからないということに関しては、もはや、猫も人間も同じような感じか。

結局は自分の想像の中でその人とか猫のことを判断しているのだから。

猫と出会ってから、人への接し方とか、気遣いとかがより一層意識できるようになったと感じることがある。

相手がどういうものを望んでいて、それに対してどういう反応をしてくれるのかを考えるということ。そこに関しては猫も人も関係ない。

そんな些細なことですらも気付かせてくれる猫という存在に、私たちは一体何ができるんだろう?いつも癒されてばかりだ。

いや、でもそんなことを考えるよりも、美味しいご飯を与えて、頭をなでなでしてあげて、日向ぼっこさえできる環境があればそれでいいのかもしれない。それでも十分すぎるのかもしれない。

求めすぎるのは、生きる上で重荷になることもあるのかも。

それは本人にしかわからないことだけど。

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