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諦めた方がいいのか、否か

あ、こいつはもうダメだ。

諦めよう。

別にすぐにそうなるわけではない。

どこか期待してしまっていて、その通りにならなかったりするとフラストレーションが溜まっていき、苛立つ。

ただ、そういうふうに人に期待するほどできた人間なのか?と疑問を抱く時もある。

今この瞬間の自分の状況に目を向けることができていないというのが、そういう考え方に引っ張っていかれるような感じ。

だから諦めるとか、そういう次元にいる時点でまだまだ未熟なのかもしれないということ。

未熟なのかもしれないという風に自分を下げて、どこかで規律性みたいなものを得ようとしているのかもしれないし、そこはわからない。

それが何になる?

勝手に妄想で作り上げた世界に対して、勝手に苛立ち
期待も勝手にしているだけ。

人との交流なんてめんどくさいし、どうしようもないやつらばかりだ。とどこから目線で語っているのかわからないようなところから物事を語り。

期待というのは結局は自分が勝手に作り上げたものの中から生み出された異物みたいなものだ。

そんなものに振り回されるなんて、結構愚かな感じもする。

どうして、自分自身の人生というものを真っ直ぐに生きたりしないんだろう?という疑問。

都合のいいところでだけ、人とのつながりを求める。

そして、それ以外の自分がめんどくさいと思うところでは人とのつながりをシャットアウトするのだ。

どうして?

そのめんどくさいというところに生きるための何かが隠されている気がするのは、気のせいなのか・・・?

そもそも。めんどくさいというものの中に、生きるということの本質が隠されているのではないか?とも思ったりする。

めんどくさいと言って色々なものを排除していってしまうと、結局残るのは機械的でどこか冷たい世界のみ。

非効率的で無駄なものにこそ ”生きる” ”生きている” という実感がありそうな気がしている。

「働くのなんて無駄」 「上司との飲み会なんて楽しくない」
「コミュニケーションなんて疲れるだけ」

多分、そんなことを言ってるうちは何も変わらない。好転するわけがない。

そこに意味なんてないから。

人との繋がりなんぞ、浅いところから見たら所詮は無駄なものなのだから。

深いところまでいくと・・・?

それでも結局は無駄なものには変わらない。

視点だけが、それを変えてくれる。

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