盗み

ものを盗むということはやってはいけませんと親から、あるいは世間から学ぶ。

実を言うと小学2年生の時に、一度だけ過ちを犯してしまった。

友達の家にあった大事なものを盗んでしまった。

あの時の罪悪感は今もどこかに残っている。

でも、すぐに親のもとにその友達の親から連絡が。
「もしかしたら間違えて持っていってないですかね・・?』

気を遣いながら、言葉を選びながら、そう言ってくれていたんだろうと今になって思う。

親から『お前、盗ったのか?』と言われて怖くなった僕は『知らない』
しらばっくれた。

それでも事が大きくなってしまうことを恐れた僕は、その友人の家のポストにこっそりと盗ったものを置いてきた。

その後、発見されたという連絡とともに、解決した風な時間が過ぎていった。

いや、実は裏で色々なやり取りがされていたんだと思う。

不思議だ。

自分の知らないところで起きている出来事というものは、まるでないことかのようなあの感じ。

でももしかしたらそういうやり取りがされていたのかもしれないというのは、ある程度人生を経験してきたからこそわかる感覚。

実は全ての出来事は、自分の見ていないところでものすごくたくさんの動きがされているということになる。

でも実際に見えるものではないので、なかなか判別しづらいものなのは確か。

人の道から外れそうになった時にその罪悪感とか、色々な感情が自分を律することになるんだなという気づき。

いやいや、そんなことしなくてもダメなことってわかるでしょ。

ん〜まぁそう言われればそうなんだけど、そういうことでもない。

盗みはダメです!それは時間の盗みも同じこと。

そういう教えがあるそうだが、意外とみんな時間盗みは平気でしているのだ。

自分がやらないといけないタスクを他の人にやらせてしまった時とか、カフェで何か商品を頼むときに、事前にある程度決めておけばいいものの、その瞬間に決めようとして店員さんを待たせてしまったり・・・

そればかりは難しいところだけど、「待たされている」と思わせなければ問題ないのかな?とも。

何かおすすめはありますか?とか、何か会話の中から自然と注文してみるとか。たとえばそういうやり取りが行われればみんなが気持ちよくその時間を共有する事ができそうだな、とか。

大切な人の時間を盗むなよ!みたいな変にその価値観に縛られるのではなく、どこまで人に気遣いができるのかということ。

『別に私は私で、人にそういう風にしてほしいとか思ってないんで』
多分そういう事じゃない。自分の物差しだけで、出来事を測っていてはおそらく気遣いのその先には辿り着けなそう。

そしてそれは、綺麗な言葉で語ることもできるけど、実際に行動に示す事ができるかどうかはまた別な気がする。

難しい。

一つ一つの行動が、何かと結びついているので複雑なんだ。

1+1=2

じゃなくて、1+1=100 になる可能性もあるのがこの世の中の法則なのか・・・

その時のその人の精神状態だったり、置かれている状況。
時間帯、周りの環境など左右されるものはいくらでもあり、その辺のあれこれが複雑に絡むことでこの世の中はわかりづらいものになっている。

生きていたら理不尽でイラつくこともあるんだけど、それが理不尽だと思うのは理不尽ではないのか?というループ。

思い通りにいかないとどうしてもフラストレーションが溜まり、人のせいにして自分がそれ以上考えなくてもいいように線を引くという行為に走ってしまう。

でも、そこでそれ以上考える必要はないというところで止まってしまうと、結局自分の人生の躓きに耐えられなくなってしまって酷く大きな転倒になっってしまうのだ。

転び方を知らないと、実際に転んだ時に対応できなくなる。

本当に盗まないと、その罪悪感というものは知る事ができない。(いいか悪いかは別として)

やってしまったその先に、自分がどういう気持ちになるのかというところまで目を向けてようやく一つの現象にピリオドを打つ事ができるのかもしれない。

そしてまた次のタスクが与えられ、考えて、考え抜いて、パッケージ化してまた次。そういう繰り返しなのかも。

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