塾や学校の本質 勉強の意義

塾は(いやそもそも学校は)、学ぼうとする気力あふれる生徒が集まるところです。学ぼうという気持ちで門をたたいた生徒は、基本的に受け入れるべきだと私は思います。私塾としてスタートした大学はたくさんあります。もちろん大学も学ぼうとする気力あふれる学生が集まるところです。  

しかし、現在の大学は入学試験によって気力を削ぎ落とし、入学後に虚脱してしまうという学生もいますし、ある分野に特化した天才が入学しづらい形であるのは確かです。学習塾にも入塾テストなるものがあり、もはや何だか分かりません。学力をつけるために塾にいくのに、そのために学力がいるというのは、やはり変です。「基本的なところは身につけてから来なさい」というような態度が見えて、少しいやな気持ちになります。

教師たちは、目の前に学ぼうという気力の充実した生徒が目を輝かせていれば、「自分のできることならなんでもしてあげよう」という気に(たぶん)なります。そういったエネルギーが集まった場所が塾であり、学校だったはずです。教える側も教えられる側も、その求めるところが一致していたと思うのです。

 教育の現場では、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という質問を受けることがあります。映画『男はつらいよ(寅次郎サラダ記念日)』で、甥っ子の満男が寅さんに似たような質問をします。その時、寅さんはこう答えます。


そういう難しいことは聞くなっていったろう。つまり、あれだよ、ほら、人間長い間生きてりゃあいろんなことにぶつかるだろう。な、そんな時に、俺みたいに勉強していない奴は、この振ったサイコロで出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強した奴は自分の頭できちんと筋道を立てて「はて、こういう時はどうしたらいいかな」と考えることができるんだ。


 満男は、勉強しなくてはいけないと思っている。それは、周りの大人たちからそう言われてきたからでしょう。でも、寅さんは「勉強をしなくてはならない」とは思っていない。勉強をしておけば、人生に有益だろうと感じているから、勉強が必要だと思っている。(でも勉強していませんけどね。)以前にも書きましたが、内発的と外発的という動機付けの違いがある。当然、内発的な動機付けの方が、勉強するには強い効果を発揮すると思います。でも、今の塾や学校のシステムは、内発的な動機があったとしても、それを外発的なものへと変容させてしまうように感じます。

入塾テストや、入学試験をなくせないものでしょうか。人数の枠は、ある程度仕方ないにしても、一定期間、仮入塾(入学)させて、本人のやる気や特性を見るということができたら、本当に学びたい学生で構成された塾や学校が形成されると思うのです。

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