2022/11/8 「変」を生み出すもの

 先日、六歳の息子が電車の中で、変なおじさんと仲良くなったという話を、妻から聞いた。

妻と息子が出かけた帰りに、電車の中でだれにともなく話している男性に会ったそうだ。その男性は、世間話のようなものや、食品の安全性についてや、政治批判のようなものまで、近くにいる不特定多数の人に語りかけている。周りの乗客はかかわることを避け、男性の周りに空間が広がっていく。妻も、息子を少し遠ざけようとしたそうだが、熱心に聞いているため、しだいに男性は息子に対して語りかけるようになったそうだ。まんまるな目で熱心に聞いている息子の姿が目に浮かぶようである。降りる駅についたとき、バイバイと手を振って別れたそうだ。息子は男性のことを「ものしりおじさん」と呼んでいた。

 冒頭に「変な」と書いたが、大人の世界から見ると、知り合いのいない空間でまとまった話をしている段階で「変」である。伝えたいことがあるなら、それなりの環境をととのえてから、伝えるというのが「常識」である。ただ、この「常識」にとらわれすぎると何も言えなくなってしまう。息子はその常識の枠にとらわれることなく、話の中身に興味をもったのだろう。『フランダースの犬』で立派な額縁の絵が入賞し、ネロの額装のない木炭の絵が大人の目にとまらないように、私たちは額装ばかり見て、ものを評価しようとしている。息子はネロの絵を見たのだ。そのおじさんの話が傾聴に値するものかどうかは分からないが、とにかく聞いてみるという態度は、尊い気がする。

荒井祐樹『まとまらない言葉を生きる』の中にあった「ある視点からすればいわゆる気が狂う状態とてもそれが抑圧に対する反逆として自然にあらわれるかぎり、それじたい正常なのです」という吉田おさみの言葉を思い起こした。電車の中の男性が、気が狂っているというわけではないが、少しでも常識からはずれるとその人の全てを否定してしまいがちになるが、今一度考えるべきなのは、そういった言論空間を異常と断じる社会の方であろう。

こういう話になると、やはり漱石である。ここは何度読んでもいい。


ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理窟がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった。(『吾輩は猫である』九)


 まさに現代社会そのまま。漱石おそるべしである。

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