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なにもかもひとりで、よくやってきたね(カウンセリングの記録)

今日は午後からの予約だったので、時間まで待合室でゆっくり読書をして待っていた。
午前中に作業を進められたから気分がよかった。

今週の調子を聞かれて、修士論文の分析と考察の章の叩き台ができたことを話す。
クオリティはともかく、今月中に書きぬくことはできそうだ。

Twitterで、ちらほらと修士論文を提出した人たちを見かけて不安になったことを話した。
指導教官はよく締め切り間際にどんでん返しをする人なので、私もされるかもしれない。

どんでん返しと言っても、理不尽な内容ではない。
作品としての完成度にこだわる人なのだ。
こちらとしてはもう少し早く気付いてくれよ…と思うものの、指摘されたら修正せざるを得ない。

でも、私も、せっかくならなるべく完成度を上げたいと考えているので、そこが一致しているのはまあいい。
だらだら余分な内容を書いたり、ごちゃついた日本語のまま提出したりするのは避けたい。

他のゼミの修士論文だと、「はじめに」で筆者の半生や研究動機について熱く語っているものがある。
他の分野なら個人的な要素が分析に深く関わってくることもあるかもしれないけれど、私の分野ではあまりそういうことは聞いたことがない。
私の指導教官はそういうのも好まないし、私も、わざわざ本文の中に入れなくてもいいだろうと思う。

”実は研究に懸ける熱い想いがあったりしないの?”

そう聞かれて、休学する前は自分に重なる研究テーマだったことを話した。
やっている内にしんどくなって(それだけが原因ではないけれど)休学して、休学明けに今のテーマに変えた。

今のテーマを選んだ時は、”楽しい”と思えることを重視した。
細かな内容を詰める時も、データを見ながら、「ここが面白い」「これなら書けそう」という感覚を頼りに視点を絞っていった。
テーマに思い入れがないからこそ、余計なものはどんどん捨てられたのだろう。

”データを見ながら視点を絞っていくのは、院生と指導教官が議論しながらやっていくことのようなイメージがあるけど…そういうのも自分でやってきたのね”

そう言われると大したことのように聞こえるけれど、そうするしかなかったからそうしただけだ。
指導教官には何を相談しても”自分で決めて”と(いろんな言い方で)言われるだけなので、私も相談しなくなった。

”関心が近い先輩や同期がいれば一緒に考えることもできるけど、そういう人もいなかった?”

院に入った時、同期は3人いた。
残念なことに、全員とそりが合わなかった。
私にも悪い点はたくさんあったけれど、とにかくストレスフルな状況だったのは事実だ。

修士は2年間しかないから、1年ずらせば人間関係も一新される。
そりが合わない同期と過ごすよりは、こうやってひとり気ままに過ごしている方がストレスが少ない。

ちなみに先輩は1人しかいなくて、あまり会うこともない。
そもそも研究室がないので、”なんとなくデータを見ながら話す”こと自体ができない。

”テーマも自分なりに考えて変えて、なにもかもひとりで、よくやってきたね”

相変わらずほめられてもぴんと来なかったけれど、ありがたく受け取っておいた。

思いがけず院に入ってからのことを振り返る時間になった。
残り短いようでまだたくさん時間が残っている。
気負いすぎないで、いつも通り過ごしていこう。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。