SF映画比較感想文『Arc アーク』VS『夏への扉 キミのいる未来へ』

以下、ブログに載せた二本の感想文を一本にまとめて転載したもの。メジャー邦画には珍しいSF映画が、それもそれぞれ高名なSF小説を原作に持つものが二本も同日公開ということで比較しながら観てみました。基本的に悪口なので注意してね!

『Arc アーク』

映画が面白かったから原作も買って読んでみることは間々あるが映画がつまらなかったから原作を買って読んでみたのは初めてのことだ。こういうときにその場で買える電子書籍は便利ですね。映画の記憶が色褪せぬ間に原作と照らし合わせてあれこれと的確な文句が言えます。そんな邪な目的に利用されて電子書籍も泣いているであろうが。

いやぁ…不老不死ですよ。人類で初めて不老不死になった人が見たものは的な惹句だったのでそういうSFかーと思って観に行ったらびっくりするよね腕時計で確かめたところ主人公が不老不死になったのが開始してから約一時間後。な、長くないか!? 長いっていうか遅くない? それでその不老不死になるまでになにをやっているかというとこの主人公は育児放棄した舞踏家の人なんですがひょんなことから人間の死体を彫刻化する会社の偉い人にスカウトされまして死体彫刻をやってました。

物語の始まりは入り口に用心棒が立ってるいかにも怪しげな地下スポット。知らんけどなんかこういう非合法っぽい場所よくある近未来日本の話かなと思って見ているとステージではリメイク版の『サスペリア』で魔女舞踏団が着ていたような衣装に身を包んだ舞踏家たちが踊ってます。なんかヒョウのポーズみたいの取って「シャー」とか言う。…エロい店なのかな? 入り口に用心棒まで立ててるぐらいだからアダルティな雰囲気ぷんぷんであるがしかしそのわりには健全すぎるような…舞踏見るだけっぽいし…。

ヒョウのポーズダンサーズが退場すると次にステージに出てきたのは主人公の舞踏家・芳根京子です。しかし昔捨てた赤ん坊のことが不意に脳裏をよぎってとても踊る気分になれない。オールスタンディングのガラの悪そうな観客たちの中から「踊れよ!」と嘲るようなヤジが飛ぶ。なんて治安の悪い舞踏バーなんだ…っていうか、舞踏バーってなに? 唐十郎の状況劇場みたいなこと?

よくわからないが客のヤジに激高した芳根京子はその場でなんかいろいろひっくり返したりしながら踊ってみせる。するとその様子を特等席から見守っていた大物感のある寺島しのぶが声をかける。その肉体、うちで使ってみない?(的な)
寺島しのぶの会社というのは前述の死体彫刻を手掛けるところ。プラスティネーションといって人間の肉体が死後も腐らないように諸々入れ替えて剥製化、その剥製死体を死体アーティスト(これが寺島しのぶ)が任意のポーズを付けて固定するわけですがポーズ固定には全身を使ったマリオネットのような操作が必要というわけで、そのために芳根京子の身体能力が買われたのでした。

原作を読んで興味深く感じたのはこのへんの改変で、俺はてっきり(原作ではストリップバーから始まったりするんだろうけどR指定付けるわけにはいかないから裸の出ない舞踏になったんでしょうな~)とか思っていたのだがそもそもそんなシーン自体出てこない。代わりに出てくるのは主人公に身ごもらせたボーイフレンドのエピソードで、このボーイフレンドとのあれこれとか出産に際しての両親との確執とかが色々あって主人公はフっと子供を捨ててしまい、ふらふらと歩いているうちにたまたま通りかかった死体彫刻会社に入社するというのが原作の導入部なのであった。

それは別に金がかかるわけでもなさそうだし変な改変しないでそのまま映像化すればよかったのでは…と原作を読みながら思ったのだが、おそらくそうしなかったのは死体彫刻の描写に理由があるのだろう。原作の死体彫刻描写を一部抜き出すとこうである。

肉の薄い膜は、内臓を隠していたが、その内臓も薄くスライスされて、彩り豊かなジグソーパズルを見せていた。瞼のない片方の目がまばたきをせずに、大勢の人々を見下ろしていた――もう片方の目はくり抜かれて、虚ろな眼窩を見せていた。頭蓋骨のてっぺんが帽子のように取り外され、その下にある脳が新鮮なスフレのようにわたしたちの視線にさらされていた。
皮を剥がれた男性が宙を飛んでいる瞬間の像がこちらにあるかと思えば、スピンしているフィギュアスケートの選手のように片脚を上げ、片方の乳房が爆発しているヌードの女性像があちらにあった。
(ケン・リュウ『円弧』 古沢嘉通 訳)

映画版の死体彫刻はこれとはまるで異なり、おそらく生身のダンサーが静止状態で演じているが、神経剥き出しも乳房爆発もなく、なんか昔ながらのミイラ男みたいな感じである。全裸死体は一応あるが乳首などは映らないのでレイティングを考慮したのではないだろうか。代わりに(?)この設定を活かした見せ場として強調されるのは死体の調律である。ところが。これは死体にポーズを付けるためのものなのでイメージとしてはピキピキと神経をすり減らして腕をあと3ミリ上にとか頭をもう何度か傾けてとかそういう微調整を延々と繰り返す地味過程のはずなのだが、画面に映し出されるのは死体とダンスでもするかのようなダイナミック調律であり、それじゃあ調律にならんだろと思うのでちょっと意味がわからない感じである。

なにもグロ死体があればいいとかなければダメとかそういう話ではないが、これはその重荷に耐えきれずに息子と親と縁を切って「自分で自分を所有する」ことを選んだ一人のシングルマザーが、人間的なあらゆる関係性を失った単なる肉塊として死体を認識して、「ミラーニューロン」の台詞が仄めかすようにあたかも肉塊としての自分自身を操作するかのように死体調律の仕事を通して自己を再生していくという物語なのである。そのためには子供だましのミイラ男なんかではない肉塊としての死体彫刻は必要だろうし、操作としての調律を死体との共同ダンスとして解釈するなどというのは物語の含意をまったく汲めていないとしか言いようがない。

かくして映画版はトンチンカンな舞踏バーの場面で幕を開けることになるが(実際にはその前に「私は息子を捨てた」という簡素な説明モノローグがある)、ボーイフレンドのエピソードはちゃんと終盤の展開に、それもかなり重要な展開に関わるところであり、タイトルの『円弧』というのもこのエピソードと終盤のあるエピソードの円環的対応を指すぐらいなので、そこを変えてしまったらタイトルの意味もなくなってしまうじゃないか…と、呆れつつもその大胆な改変っぷりにうーむと唸るのであった(良い意味でとは言ってない)。

改変部分はここだけではないが残りの部分はネタバレになってしまうかもしれないので伏せておこうと思う。原作はさほど俺の趣味に合う小説ではなかったが面白いは面白いし短編ですぐ読み終わるので気になった人は買って読もう。貶しつつもちゃんと販促に繋げる私は大人です。ここで大人成分は使い果たしてしまったのであとはわりと子供の悪口に堕ちますが。

なんでしょうなぁ、つまらない映画だったよ。うんなんでしょうもなにもないねそれは。あえて言えば舞踏とか死体アートが多少面白くないこともないですけどそれはそのシーンそのシーンごとの単発的な面白さで、言うならばインスタ的というか、そのシーン自体は映えるが他のシーンとの関係を考慮しないでオモシロを繋いでるだけなので物語は表面的になるし、だいたい盛り上がっていくところがない。

これでも俺は気を遣って書いてるんである。最近の邦画実写は本当にSF不毛地帯で『シン・ゴジラ』とか『orange オレンジ』とか堤幸彦の『人魚の眠る家』とかはあるSF設定の中で人間がどう動くかということを丁寧にやっていたのでSFしてるなーと嬉しくなったが、他はもう本当にガワだけSFばかりでそのガワにセンス・オブ・ワンダーがあるならまだしも作り手の記憶の中から取り出してきたカッコイイ記号を並べてるだけの安易かつ幼稚な作りがあまりに多い上、邦画の全体数からすればそんなガワだけSFですらメジャー映画では年に数本あるかないかみたいな絶望状況。そんな中で果敢にもSFジャンルに挑んでくれた映画とくればありがとうとは思うのである一応は!

でもそのありがとうの思いをつまらなさが越えてきたからなー。不老不死(と便宜的に書くが原作では長命化である)になるまで一時間かかるのもその一時間で描かれるものがことごとく下らないのもどうかと思うが不老不死になってからの一時間はもっとつまらないしSFですらなくなってしまう。どんだけSFを真面目にやる気がねぇんだよと思うがこの監督の石川慶という人は前作の『蜂蜜と遠雷』で『ブレードランナー』のオマージュみたいなシーンを入れていたし今作でもやはり『ブレードランナー』のセバスチャンの家みたいなシーンとかフォークト=カンプフ・テストの有名な設問である「亀」絡みのシーン(これは原作にはない)とか、『ブレードランナー』原作のディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に出てくる動物の修理(のイメージ)が出てくるのでおそらくSF映画とか小説はそれなりに好きなはずである。

SFに興味のない人間がつまらないSFを撮るならアホかの一言で済むが、SFの好きな人間がこんなものを撮っているのかと思うとつまらないでは済まずに軽く腹が立ってくる。う~ん認知の歪み! 人間って難しいですね! いやそういう話ではないんだが。ある意味そういう話だが…。

ともかく、これは俺の中ではガワだけSFなのです。オリジナル脚本でもなくちゃんとケン・リュウの手堅い原作を持ってきてるにも関わらずのガワだけSF。一枚絵としては綺麗に撮れている(インスタ映えってやつですよ!)がケレン味がゼロなので何も迫ってこない空虚ショットの連続、別に下手なわけではないが上手いわけでもなく明確な性格付けもされていない(そのためにもボーイフレンドと家族のエピソードは必要だったと思うが…)ので主役なのに存在感が無きに等しい芳根京子の人形っぷり、原作の持ち味といってよい人体と人間存在に対するドライな洞察を泣きと感傷で上書きした台無しアダプテーション、『AI崩壊』でも失笑ものだった邦画SFの定番クソ演出「怒れるデモ隊」のバカバカしさ! ちなみにこれも原作にはないシーンなんですがなんでどいつもこいつも入れたがるんだよそれ!

でもね、俺この原作はメジャー邦画ではそのままやるの無理だったと思いますよ。単純に死体描写が(R指定を避けるために)無理っていうのもありますけど、テーマ的にっていうか、これは人類が次のステップに進む歴史の一ページを一人のシングルマザーの視点で描いたプレ・ポストヒューマンというべき物語ですけど、その結末で提示される新人類の倫理観は現人類のそれとは相容れないものです。メジャー邦画はびっくりするほど超保守的なのでこういうのは無理なんです。今ある世界を肯定すること以外になにもできない。だからそもそも別世界を空想するSFっていうのはジャンル自体が邦画実写では不可能なのだと言える。あまりにも情けないことですが。

だからこの映画も監督とか脚本家は本当はもっと原作に忠実に作りたかったのかもしれないですけど相当妥協を余儀なくされたんじゃないですかね。そう思えば映画の最後に出てくる台詞は涙を誘います。それは旧人類と新人類の断絶を表すもので、言っていることは原作も映画も同じなのですが、文脈の違いにより映画では新人類の新たな倫理観の肯定の意味合いが抜けてしまっていて、結局人間は死を意識した方がいいんですよメメントモリだ、とこういうまるで自己啓発本のように薄っぺらい、まぁ薄っぺらいだけならいいが原作とは真逆の方向を向いてさえいるしょうもない台詞と結末に堕してしまっており…でもそれが、しょせんメジャー邦画の限界なわけです。こんなに泣けるSF映画は久々に見ましたよ。号泣。

『夏への扉 キミのいる未来へ』

たぶんこれが映画が始まって最初の台詞だと思うが主人公の山﨑賢人が「僕が生まれたのは三億円事件の犯人が捕まった年で」とか言う。それから本物のニュースフィルムと偽ニュースフィルムを織り交ぜて瞬間移動技術が発明されオウム真理教がテロを起こさず阪神大震災は現実と同じように起きてしまったもう一つの昭和平成史がダイジェストで綴られるのだが、なにこれグッとくる。

この「現実の日本とはよく似ているけれども三億円事件後に枝分かれした現実とは別のパラレル日本なんですよ」感、しっかりSF映画してるな~って思うよね。だってコールドスリープとか瞬間移動とか現代日本を舞台にして普通に出されてもそんなの嘘じゃん今の日本の技術力じゃ無理じゃん(そういう問題か?)とかなって白けるじゃないですか。だからそれをちゃんと違和感なく成立させるためのお膳立てとしてこの映画は冒頭でもう一つの日本現代史を見せるんです。

それがまた巧いのは現代といっても物語の始まりは1995年ということでifの日本の過去が物語の一つの舞台。もう一つの舞台はその30年後ということで2025年…という、2021年の現在から見てifの日本のちょっと昔とちょっとだけ未来で物語が展開するわけで、歴史のif化だけではなく時代のズラしでも設定的なツッコミどころを回避しつつ、同時に完全に別世界の話ではないってことで嘘なんだけれどもここで描かれるのは嘘日本なんだけれどもこんな昔があったような気がするノスタルジーを喚起しながら、あるかもしれない未来を垣間見せたりして現実の現在の日本とちゃんと地続きの世界を作ってるわけです。

ちょっとだけ感動してしまったかもしれん。というのも『Arc アーク』はSF設定をどう違和感なく見せるか、ファンタジーや寓話ではなくてあくまでSFとしてどう説得力のある形で見せるか、ということには無頓着な映画だったわけです。それはそれで面白いけれども『夏への扉』の方はアプローチとしてはわりと逆で、コールドスリープや瞬間移動装置を出すならそれを所与のものとして「こういう映画ですけど?」とか開き直ったりしないで、どうやったら日本映画でSFが成立させられるかということをかなり真剣に検討してシナリオを組んでいるように見える。

原作はなぜか日本でのみSFオールタイムベストの常連になっているハインラインの有名作というわけでその邦画実写映画化と聞けばメガンテを超えて『AKIRA』の冒頭ぐらいの大爆死完成度しか想像しようがないのですが、や、これは予想は大幅に反して実に堂々たる見事な実写映画化であったよ。サブタイトルがキラキラ映画風だからと完全にバカにしててすいませんでした。

原作の方はオールタイムベストならと思って『虎よ!虎よ!』とかと一緒に教科書的に読んではいるはずだが内容ほとんど覚えてない。『虎よ!虎よ!』は強烈に脳に焼き付いているので『夏への扉』はたぶんそれと比べれば時間SFの超王道すぎて脳がスルーしてしまったんではないかと思う。王道ものは完成度が高ければ高いほど読んでいる間は没頭できるが思考の引っかかりがないので読んだ後はわりと忘れがちという悲しい宿命。果たしてそんなに王道だったのかどうかも忘れているから判断しようがないわけですが。

その意味ではこの実写映画版『夏への扉』も似たところがあり、ウェルメイドな映画なので観ている間は巧いなーと感心しきりだったものの鑑賞後数日、早くも冒頭の日本偽史ダイジェストや田口トモロヲのマッドサイエンティストなどなどの印象的な部分を除いて忘却の霧が出てきている。人物設定なんかの部分はかなり変えていそうだがコアアイディアは原作準拠だろうからストーリーはもちろんとても面白い。スピーディな展開もユーモラスな演出も透明感のある映像もさすがキラキラ系青春映画の職人監督・三木孝浩というわけでこの人はキラキラSFの佳作『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を監督した人でもあるが、浜野謙太が文字通りの意味でスベっていたようにギャグは全体的にスベっていた気はするもののそれ以外は全部面白い感じである。

山﨑賢人の気弱な若科学者っぷりもハマってましたしね。1995年を懐かしんで2025年に聴くミスチルとかめっちゃよいですよ。情感の点では原作超えてたんじゃないかねこれは。なんとしてもあの頃に戻らなければならないっていう理屈じゃない必然性があのミスチルでブワァッと立ち上がるんだよな。俺ミスチルなんてとくに好きでもないのにそこ完全にヤラれたもん。映画の内容はそのうち忘れるかもしれないがミスチル聴いて過去に戻る映画というかなりねじ曲がった形であの曲の記憶だけは残るかもしれない。

SF映画難しいなと思うのがさ、『Arc アーク』と比べていかに『夏への扉』がよくできているかみたいなことをさっき書きましたけど、どっちが記憶に残るって言ったら原作のアダプテーションには納得感がゼロだがスタイリッシュで変な映像を色々作ってる『Arc アーク』の方なんですよね。で、いけすかねぇけど映像とかキャラクターとか音楽とかはカッコイイなぁって思うのも『Arc アーク』の方で、『夏への扉』はアダプテーションは見事だけれどもキャラクターもSF描写もド定番で固めてきているから原作の古さを考慮しても「古いな~」って所々感じたりするし、山﨑賢人のお供アンドロイドとかも笑えるっていうよりは失笑って感じで、要はだせぇ。

それで二作観て思ったのは、日本のSF映画ってたぶんSFの一つの醍醐味であるはずの現実の現在のそれとは異なる価値観とか倫理観とか、そういうのを提示することってできないんです。『Arc アーク』の原作は一種のポストヒューマンものなので今の世界の人間が持つものとは異なる世界観が下地にあるんですけど、映画版ではこれが骨抜きにされてしまったので観る者の思考を揺さぶるところがない。『夏への扉』は『Arc アーク』より遙かに原作の核を(たぶん)捉えてますけど、それは原作の核に別に思考を揺さぶるところがないからで、そういう安全な映画なら面白く作ることが出来る。

実際『夏への扉』は原作者のハインラインがそもそも保守っていうか右翼だからというのもあってか非常に保守的な映画で、記号的とも言えるわけですが、化粧の濃い女=間違いなく悪女、会社の偉い人=どう考えても悪い奴、太った女=動く生ゴミ、清純女子高生=絶対正義、オタク青年=可哀想な被害者、ファナティックなオタク中年=誰にも評価されないが本当は世界の歪みを正せるスーパー能力を持った人…とこんな風に登場人物それぞれの中核要素を抜き出していくとなんだか異世界転生もののような臭さですが、この臭さがストーリーの面白さや痛快さを担保しているところもあるわけで、センス・オブ・ワンダーというか、観ていて驚くところがなくて、ずっとぬるい安心感に包まれている感覚がある(それはストーリーの構成も関係している)。

90年代ぐらいまでの日本のSF映画はまだ観客を驚かせて難しいことを問いかけるようなところってあったと思ってて、『パラサイト・イヴ』はヒトという種の在り方についての話だったと言えるし、『リング』はビデオテープが機械的に媒介する無臭の呪いを見せた抽象的な映画だったし、『回路』は幽霊と生きた人間の境界を消失させる生の不確かさを描いたSFホラーだったしで、そりゃまぁ『回路』の黒沢清が最近撮った『散歩する侵略者』はかなりチャレンジングな邦画SFだったと思いますけど、でもあれがそういうものとして観客に受け止められたかというと、なんかそんなヒットしたわけでもないみたいですし違うんじゃないかなぁと思っていてですね。

なんかだから、『夏への扉』面白かったんですけど邦画SFの限界を感じるようなちょっと切ない映画でもあったわけです。最近のSF映画だと『JUNK HEAD』はちゃんと異なる世界観とか倫理観とかを描いてて素晴らしかったですけどあれは元々個人映画ですし、邦画メジャーでSF映画をやろうとしたらたぶん『夏への扉』ぐらいが限界で、その枠の中で完成されてるからすごい映画ですけど、なんとなく素直に喜べないところもあるんだよっていう…そんな感じなんですよ。かなり面白いけどね!


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