ソーシャル・ジャスティス・ソルジャーと家父長制2.0

日本語で言うところのネット正義戦士(言わないか)を米英語でSocial Justice Warriorといい、「その表現は正しくないよ、差別的だよ」とかネット上で絡んでくる人を揶揄する言葉だが、最近の映画ではダニエル・ラドクリフ主演の『ガンズ・アキンボ』の主人公がソーシャル・ジャスティス・ウォリアーという設定で、日本語版ではこれが単に「クソリプを送りまくる人」にされてしまったのでその含意がわからなくなってしまったが(つまりあれは殺人ゲームの管理人が「そんなにネットで正義を叫ぶなら現実に俺たちを殺して正義を実現してみやがれ!」という理由でラドクリフを殺人ゲームに参加させる風刺的なお話なのです)、まぁそれはいいとして、映画の題材になるぐらいには英語圏でポピュラーなネット用語がソーシャル・ジャスティス・ウォリアーなわけです。

で、こういう人は日本のネット空間にも当然たくさんいるわけですが、その中で昨今のフェミニズムブームに適合するように価値観のアップデートされた男性(と思しい)アカウントたちの振る舞いを見ていると、これはソーシャル・ジャスティス・ウォリアーというよりはソーシャル・ジャスティス・ソルジャーと言うべきなんじゃないかと思った。ちょうどそういう感じの記事を昨日ぐらいにどこかで見かけたので引用したかったのだがちょっと見つからないので、若干感じが悪くなるのは申し訳ないが(そこまで悪意があるわけではないので)俺のイメージしているアカウントを分かりやすくモデル化すると、

・流れてきた何かしら政治的な要素を含むニュースには敏感に反応して

・上から目線でそのアップデートのされていなさを嘆き(または憐れみ)

・なんらかの新しい外来語、例を挙げればマンスプレイニングとかそういうやつでそのニュースやニュースが記述する行動(基本的には男性)を解釈しようとする

こういう男性アカウント。あるいは一応男性ネット評論家とかそういうやつ。これをソーシャル・ジャスティス・ソルジャーと呼んだ方が通りがいいんじゃないかと思っていて、というのもこの一連の行動に思考って介在する余地がないんですよね。流れてきた情報を受け取ってそれを外来語でできた既成の解釈フレームに入れて送り出すっていう流れ作業をやっているだけで、個別事案毎の特徴を抜き出して仔細に論じるようなことはしないし、まぁやる能力も基本的にないんでしょうけど、その脊髄反射の無思考性はウォリアーの行動原理ではなくて言われたことを正確に反復することしかできないソルジャーの行動原理じゃないかと思うわけです(※ちなみここで想定しているのは繰り返しになりますがアップデートされた男性アカウントであってフェミニストの女性とかではないです)

そう名付けることで俺が明らかにしたいのはその行動が一見すればフェミニズムに理解を示しているようでも本質的にはむしろフェミニズムとの間に壁を作る防衛機制的な側面があるんじゃないかということで、要するに、それって家父長制をアップデートして維持したいだけなんじゃないの? というまぁだいぶ意地悪なものになる。理屈は単純で、フェミニズムって別に「新しい外来語を覚えること」じゃないよね。一口にフェミニズムといってもラディカル・フェミニズムもあればマルクス主義フェミニズムもあればポストモダン・フェミニズムもあればサイバー・フェミニズムもあれば…という感じで立場が色々ありますけど、そのすべてに共通する要素を抽出すると、家父長制の概念が象徴するように男女不平等の「構造」に対する疑義もしくは抗議っていうのがありますよね。これが存在しないフェミニズムというのはあり得ないし、形はどうあれこれを持たないフェミニストというのも男女問わずいない。もしそういう人がいたらその人は普通フェミニストとは呼ばない。

ソーシャル・ジャスティス・ソルジャーって世の中に対するこの疑いがないんですよ。むしろ逆で言葉をアップデートすることで世の中に対する疑いや違和感を消してしまう。フェミニズムから輸入した新しい概念フレームの中で世界を解釈し直すことでフェミニズムが持つ根本的な懐疑と共にその革命性も消し去ってしまう。一つには、そうした意味でソーシャル・ジャスティス・ソルジャーはフェミニズムから半ば無自覚的に距離を取る。

もう一つはそうした兵士的行動を可能にする自己制御への意志。これは非常にざっくりした偏見まみれの個人的な意見ですけど、たとえば犯罪統計を見ると暴力犯罪の加害者男女比はどこの国でもほぼほぼ例外なく女性の何倍も男性が多い。性犯罪の場合は加害者がほぼ100パーセント男性。俺みたいな素人が安易にネットで拾ったトリビア的生物学知識を使うとろくなことにならないのでその理由を身体的な性差に求めることはしませんけど、ともかくこういう統計から言えることは、生物的にかそれとも社会的にかあるいはまた別の要因があったりそれらが複雑に絡み合ってのことかもしれないですけど、男性は女性の何倍も犯罪に手を染めやすいので、男性に対する自己制御の社会的圧力は女性よりも強い。これはたとえば駅に貼ってある犯罪防止ポスターなんかを見れば容易にわかることで、こういうのって基本的に男性に向けられてるんですよね。気を抜けばお前らすぐ犯罪やるから抑制しろよって感じで。

こうした自己抑制の要求を男性社会は文化として取り込んでいるようなところがある。古典的なハードボイルド小説とか西部劇では自分を律することのできる堂々とした男がヒーローになったりしますよね。これと対置されるのが感情の起伏の激しい情緒豊かな女で、自身の心身を完璧にコントロールする男とコントロールできないからこそ男に愛される女のセットは昔のハリウッド映画の定番。最近ではこういうのってあまり見ない。たとえば男が泣くことは感情がコントロール不能になった状態としてかつてのハリウッド映画では忌避されたが、最近はむしろ泣くことが推奨されるような風潮すらある(『クライ・マッチョ』なんて言うぐらいで)。逆に自分を律する女性が活躍する映画は増えてきて、サフラジェットを描いた『未来を花束にして』とか、『女神の見えざる手』とかはその好例。そこにはこれまでの男女の役割・イメージを逆転することで対等な存在として男性と女性を描こうとする作り手の意志がある。

で、こうした流れに逆らうのがソーシャル・ジャスティス・ソルジャーなわけですよ。つまりこの人たちは解釈フレームを丸ごと入れ替えることが出来るぐらいの強い自己制御を行うことに疑いがなくて、それを男性なら当然にそうあるべきだという形で肯定するわけです。「男性なら」と限定できるのは女性が感情的に世の中の様々な不平等に異議申し立てをしても(当然ながら世の中の不平等には理屈などなくても感情的に抗議すべきである)、これはあくまでも俺の観測する範囲でのことですけど、それをたしなめるソーシャル・ジャスティス・ソルジャーっていない。あたかも女性は感情的であるのが当然だとでも言わんばかりに。

念のために言っておきますけど俺はソーシャル・ジャスティス・ソルジャーが自分と同じような自己制御を女性にも強いるべきと言っているんじゃなくて、いやお前も自己制御のヒロイズムを捨てて感情出せよっていう、フェミニズムから受け取った既製品の解釈フレームの中から取り出した定型句で人を殴ってないでお前も生身のままで世界を見てその違和感を形にしろよ、形にできないならそれがお前とフェミニズムの間にある越えられない壁なんだからその壁があることを理解しろよっていう、その壁がフェミニズムの取り組む不平等の「構造」なんだから…っていう、そういうことを言いたいわけです。俺に言わせればソーシャル・ジャスティス・ソルジャーはそのことから逃げてるんですよ。壁の直面から。あるいは男女間の亀裂から。

だからソーシャル・ジャスティス・ソルジャーは結局のところ兵士としての男性がかよわい立場の女性を守るっていう古色蒼然とした例の図式を仮に意図するところではなくても再生産してしまう。それが具体的な形を取ると家父長制ということになる。もちろんその家父長制は昔々の形とは違って諸々現代的にバランス調整されているから女性にとってそんなに悪くないシロモノに見えなくもない。でも根本的には何も解決してないですよね、そんな家父長制2.0の体制下では。男性と女性がどう仲良くやっていくかっていう打算でソーシャル・ジャスティス・ソルジャーは行動する。そのために家父長制をあくまで維持したままフェミニズムの要求をほんのちょっとだけ受け入れてアップデートする。でもこれは構造的な男女不平等にほとんど寄与するところがないし、フェミニズムのどの要求を受け入れるか(社会に受け入れさせるか)の意志決定に自分たち男性が兵士的ヒロイズムをその身に纏って参与することで、革命的な変化が起きないようクギを刺す効果があるわけです。なぜなら革命的な変化は男女の間に一時的にであれ必ず断絶を生じさせるわけですから。

日本のネット空間を眺めているとどうしてソーシャル・ジャスティス・ソルジャーの狡さにフェミニストは文句を言わないのだろうと俺はフェミニストではないので完全に外野の野次に過ぎないのだが疑問に思うことがある。そうでない奴よりはまだマシ、ということなのかもしれないが、そのある種急場しのぎの受け入れがフェミニズムが課題とする男女不平等の構造を覆い隠すばかりか、それを少なくとも一面では維持してしまうのであれば、男女平等の達成はますます遠くなるのではないかとすら思えるし、現に日本はそこそこ(まぁ犯罪率や宗教の点で)女性にとって暮らしやすい楽しい国ではあるとしても、いまだ女性総理の一人も出せていないくらい不自由で生きにくい国であるというような二重性に、そのことが表れているのではないかとまぁ繰り返しになりますがこれは完璧に外野の野次だが思ったりもする。

そしてその現実が女性を護る男性としてのソーシャル・ジャスティス・ソルジャーの存在を正当化する悪循環もあるとすれば、そんな悪循環は今日明日に断ち切ることはできないとしても、せめて目に見えるようにしておいた方がいいんじゃないかとか、俺としては思うのですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?