見出し画像

庭ぐらしダイアリー hatake day10

今日は久しぶりの畑の日だ。
JさんとYさんといつもの場所で待ち合わせて、早速畑に向かう。

Yさんが数日前に水やり報告してくれた通り、雑草が土を覆うくらいに生えていた。
ただ、小さな草なので、抜きやすい。
問題は、草と植えた植物の芽を区別することだ。
多少いろんな農的生活を見ていたからと言って、詳しいわけではないので、
これかな?どうかな?と言い合いながら、土に顔がつくぐらい目を凝らして探す。

ビーツは赤い葉脈と、明らかに成長している芽で分かりやすかったが、
他のものはなかなか見つけ出せなかった。

通りがかった畑のオーナーさんが「溶けるように芽がなくなってしまう」と言っていたように、
先日まで芽が出ていた場所から、溶けてなくなっていた。

気候条件なのだろうか、虫が食べてしまったのかはわからないが、確かにいなくなっている。

「正解」がわからないけれど、明らかに今の方がわたしは「考える」ようになっている。
「教えてもらう」人ではなく、自分が「やる」人になっているからかもしれない。

オーナーさんや畑仲間も色々話してくれるけれど、「失敗できる」こともわたしにとっては「有難い」体験だ。
もちろん、植物が成長するのも、収穫できるくらいきちんと育てられるのも嬉しいかもしれない。
ただ、わたしはすでに「畑を始め」、「種を播き」、「芽を育て」、そして「失敗した」。
※小さくは芽が出ているので、わたしにとっての失敗ではないのだけれど、普通の意見だと失敗になるかもしれない。


なぜだか、根拠もないのに、「これで行けるはず!」という自信があって、それが違ったら、なんでだろう?と気になる。
理由があるから、現象が起こるはずだ。

巨人の肩に乗らせてもらっているのは嬉しいのだが、たまには肩から降りて、自分で体感したくなる。
本に書いてあるだけでないことが、話を聞いているだけでないことが、すでに目の前の畑がたくさんメッセージを残してくれている。

「すぐに思うようにできたら、面白くないやんな」とJさん。わたしもそう思う。わからないから、すぐ手に入らないから面白い。変な話、その下準備をしているような時間かなと思ったりもする。

教えてくれることを100%その通りにはできないけれど、その都度方向転換して、より良き方へ体験できることほど、畑をしている意味があるのではないだろうか。
経験者からしたら、ごく初歩的なことにつまずいているかもしれないけれど、それがなんだか楽しいと思ってしまうわたしである。
自給自足していないからこそ言える、だからこそ感じられる”気楽な”感覚かもしれない。

サーファーではないが、わたしはいつも「take it easy」と思って適当に生きている。
その弊害もあるのだが、やはりそうやってこれからも生きていくのだろう。
紆余曲折あっても、作物のように思う通りに行かなくても、初歩的なことにつまずいても、それすら楽しめる人生を歩みたいと思う。

(写真は、庭に撒いた豆の種。芽が出る喜びを感じつつ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?