庭ぐらしダイアリー 自分の弱さ・自分の強さ

ふと気づいたことがある。
今日久しぶりに職場に行ったら、必要なパスワードがわからなくなって焦った。その時に「下二桁とあとはこれやで」とヒントを教えてもらったのだが、それがびっくりするくらいわからない。頭が真っ白になっていた。やばいぐらいボケている。数時間前にはいつものように打ち込んでいたパスワードを、いざ言えと言われたら言えないのだ。

わたしがボケているということよりも衝撃的だったのは、言葉(音声)による説明への理解がなかなかできにくいということであった。
例えば読む力と聞く力があったとして、普通5:5で持っている力だとしたら、わたしは7:3みたいな感じかもしれない、とふと思ったのだ。(※自分の感覚での数字なので科学的な根拠はありません)

昔、わたしとは逆に読めない子のドラマを見たことがある。アメリカのドラマで、その子が黒板の文字を読もうとすると、文字が歪んで見えるのだ。ディスクレシアと呼ばれている障害で、目の病気とかではなく、文字を認識することができないというものである。
一般的に文字の読み書き=知能になっていることが多いので、この子の場合他のどの才能が強くても、公共の学校の教育水準からは大きく外れてしまう。実際ドラマでは読めないことでストーリーが面白くなっていた(宿題でやって来て欲しいことがわからず、ものすごい模型を作ってしまうなど、読めない以外で芸術的才能がある子という描かれ方だったように思う)。

東大では「ROCKET」という、一般的な基準ではない水準で才能を持つ子を発掘するプロジェクトをやっているが、そんな風に評価が多様化すればいいのにと思うし、わたしもそんな目で周りを見ていたいと思う。

話が逸れた。音声認識の話である。調べてみたところ、実際に聴覚ではなく、聴覚処理能力の障害もあるらしい。わたしはそんなに重度ではないが(そう思ってるだけかもしれないが)、口頭で反射的に言われたことがいまいちわからなかったりする。でも話がそのまま進むので、しょうがないかとこっそり離脱してしまうこともある。後は、電話や対面での言葉だけでは不安で、どんだけ短いワードでもペンで書いておかないと怖い。逆に書いておけば、それがどんなに汚い文字でも、書いてさえいれば安心する。

人それぞれの弱いところがある。それは病院で診断されていない場合も、それぞれに少なからずあるだろう。だからこそ、それを攻撃するのではなく、その部分をカバーしあえるような社会やコミュニティであればいいなと思うのである。言っているばかりではなく、早く始めなければならないのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?