あらゆる価値判断は差別である

 自分達の先進的な価値観をアピールするとき。あるいは言動が差別的だと批判されたとき。「我々はあらゆる差別に反対します」そんな美辞麗句を並べる企業や人や団体を見かけることがあります。
 確かに差別は悪です。ただ、「あらゆる差別」という単語を安易に使い、自分の無謬性を信じて疑わない恐れ知らずの態度には驚愕せざるを得ません。

 語弊があることを承知で言うなら、あらゆる価値判断は差別です。ただ、許されない差別と許される差別が存在しているだけなのです。

 許されない差別の代表例は人種差別でしょう。かつてから今現在に至るまで、黒人やアジア人に対するヘイト、あるいは日本に存在する非アジア人の血を継ぐ人に対するヘイトは非常に重要な問題であり続けています。更にマイルドな形で言えば、「外見で仕事をするモデルや役者は黄色人種や黒人よりも白人を使った方が美しくて見栄えがする」という商業的な理由によって白人が優遇されていることもあるでしょう。
 他に問題視されやすい差別と言えば、国籍差別や性差別(女性差別)、障害者差別などが挙げられます。部落差別の問題も「もはや差別は存在しないのに不当に利権を得ている」とする“新しい差別”の形も含め依然として存在し続けています。
 比較的問題視されにくいながらも昨今人権意識の高い人の間で注目されてきているのが容姿差別の問題です。「醜い人間より美しい人間を好むのは人として当然のことじゃないか」という開き直りで温存されてきた価値観に対し、「他人の価値を容姿でジャッジすべきではない」という批判が為されるようになりました。
 更に問題とされにくいものとしては、学歴差別や能力差別があります。学校や会社では当然のように能力で人を選抜し、そのことによって生まれ育ちによる差別を克服したつもりでいます。しかし、ハーバード大学マイケル・サンデル教授が著書「実力も運のうち 能力主義は正義か?」で指摘したように、能力は必ずしも当人の努力のみによって決まるものではありません。上野千鶴子氏が東大入学式の祝辞で述べた通り、「頑張れば報われる」と純粋に信じられるのは、周囲の環境が頑張りを認め適正に評価してくれるものであってこそです。「生まれつき優れた才能を持ち、その能力を伸ばす環境を与えられた人」と「知的障害スレスレの知能指数で家庭環境にも恵まれず能力を培うことができなかった人」では、学歴や能力という結果を“平等”に判断すれば当然に前者が社会的に評価され高い待遇を得ることになりますが、「頑張れた人」を「頑張る環境や下地を得られなかった人」よりも優れた人物と評価することは、一見平等であるが故に暴力性があります。それ故に一部の入試や資格試験では障害者向けに試験時間を緩和するなどの配慮を導入しています。
 他には年齢差別も例として挙げられるでしょう。日本では履歴書に当然のごとく生年月日を書き、新卒か否かで就活における状況は大きく変わってきます。会社が「同じ能力ならなるべく若い人を取りたい」と考えるのは長期的な人材育成を見据えれば自然なことだと日本では考えられていますが、アメリカでは雇用機会均等法で年齢による差別は禁止され、新卒だけを募集したり履歴書や採用面接で年齢を問うことは禁じられています。

 このように差別の類型を列挙しましたが、私は上記の全てがあらゆる状況で許されない差別であると思っているわけではありません。差別の種類によって、あるいはその公共性や趣旨によって「許されない差別」と「許容される差別」は変わりうるのです。(私は「差別でなく区別だ」という文句は差別主義者の強弁に聞こえるので使いません)

 例えば女性専用車両は痴漢被害を防ぐ上で許容される措置(俗に言う“区別”)だと見做されることが多いですが(私もそう思いますが)、これが例えば人種差別著しい国において、「犯罪率の高い××人から○○人を守るために専用の車両を用意して“区別”しました」と言えば途端にアウト寄りの差別になるでしょう。「エビデンスがあれば良い」という問題ではありません。特定の属性の加害性や迷惑さは犯罪率等で適当に挙げることができますが、「犯罪率が高いから」という理由で同じ属性の罪の無い人々までを排除すれば容易に“正しい”差別が出来上がってしまいます。また、大学の医学部が「女性は就職後長時間労働をしないから」と言って女性を入試で冷遇すれば、それは「エビデンスを口実にした差別」として批判に当たるでしょう。公共に近いものであればあるほど差別的な取り扱いに対しては厳しい目が向けられます。
 反対に、セーフ寄りに近付いてくるのが私的空間です。例えば結婚相手をどのように選ぶかは個々人の自由であり、年齢や身長や容姿(人種)や収入や障害の有無によって結婚相手の候補から外すのも自由です。行政が高身長のイケメンや可愛い処女を優遇すればゲロキモの差別ですが、個人の結婚においてそれを禁止すればむしろ生涯の伴侶を選ぶ権利を侵害することになるでしょう。しかし「誰を好むかは個人の自由だからどういう基準であろうと問題無い」とは限りません。部落差別の問題では、被差別部落出身の人間が「ごめん、部落の人とは結婚できない」と振られる結婚差別が問題視されています。「個々人の価値観」と言えば必ずしも免責されるわけではありません(規制が難しいことは間違いないですが)。
 私的空間と公共の中間に位置するのが会社や店舗などの事業所です。会社が容姿によって選考することは、日本では許されていますがアメリカでは許されていません。その時点で私と見做されたり公と見做されたりするグレーゾーンであることは理解していただけると思います。では日本では事業所を私的空間として「会社が人を選別する自由」「店が客を選ぶ自由」を無制限に認めているかというとそうではなく、男女雇用機会均等法によって雇用における男女差別は(名目上)禁止され、障害者差別解消法においても正当な理由なく(合理的配慮も検討せず)財・サービスの提供を拒否することは認められていません。

 「あらゆる価値判断は差別である」と言うと、差別を絶対悪として憎み正しくあろうとする人々からすれば非常に腹立たしい暴論として受け止められるでしょう。また差別を指摘された人たちが「そっちこそ別の場では差別してるだろ。一方的にこっちを責められる立場か」とWhataboutismによる問題の矮小化に悪用する可能性もあります。
 しかし私の意図は差別という言葉を濫用して陳腐化・無効化することにあるのではなく、むしろ「無謬な人間などいない」「自分が正しいと思っている価値判断も偏見であり差別かもしれない」という誠実な謙虚さを持ち、しかし他者批判や自己批判から逃げることなく、どこまでが許容されうる合理的な価値判断でどこからが許されない差別であるかの線引きを議論し続けることを求めているのです。
 それによって、今現在虐げられながら見向きもされていない人たちにもいずれ光をもたらすことができるでしょう。

P.S. 人間外に広げると話が拗れるので上では書きませんでしたが、「猫は殺しちゃダメだけどゴキブリは殺す」「犬は食べないけど豚は食べる」「動物は食べないけど植物は食べる」等も、恣意的な基準によって判断し差別をするものです。「だから許されない」と言ってるわけではなく、その曖昧な善悪の線引きに関して社会的な議論をし続けながら合意を形成していく必要があるわけです。

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