見出し画像

猫と人との矛盾(エッセイ)

わたしは猫を飼っている。その猫の毛並みを撫でていて思う。懐かしさ、郷愁、慈しみ、そして喪失感。
そして、わたしの最も奥底に疼くものを感じる。
抑えきれない欲求の源。暴発しそうな喚き。水底に届く月光のような寂しさ。抗えない衝動。それらが言葉ではとても抑えきれない。それでも何とか社会的に生活するために建前としてあろうとしている。
しかし、一方でまったくの晴天のような知性の静かな青もまた心地よい。動物だったころ、この静けさはなかっただろう。しかし、もしかして穏やかでどこまでも平和な日溜まりのような安寧を同じく求めていたのかも知れない。不安。生老病死苦の不安は、生きとし生けるものは等しくあると、釈尊は言った。
 静けさを。星空を渡る銀の風の音を。冬の雲一つなく晴れた空の純粋を。最も始まりであり何処までも果てない光の奏でる詩を。動物であったわたしもきっと、知っていた。
 このカオスである喚き声が満ちる時、言葉は役に立たないのだ。そもそも言葉など知っていたか。生きるために言葉はなかった。真実に届けたい言葉がきっとある。そのためにあるはずなのに、それは見つからない。喉が千切れるほどに、眦が裂けるほどに、叫んでも喚いてもそんなことでは届くはずはない。どこにもいない。
 最も喧噪の中にこそある静けさとは。獣の血涙の果てに観る人間という知性とは。混乱の雲が一時晴れ渡り、恰も星空まで届くほどの晴天が広がる。眩しい冬の陽が射る。静寂の中で言葉が連弾を続けている。言葉が言葉を連れてくる。扉が次々と開かれて、窓が大きく開き、来し方の光の風が吹き込むように。しかし、直ぐに暗雲がやって来て、ごおごおと混沌の心を蘇らせてしまう。まるで泥酔したように視界は揺れて、舌はもつれ指先は震えて覚束ない。
 わたしたちは何処から来たのか。今居る所は何処なのか。そして何処へ行くのか。星空は思いもかけず焦げ臭いという。全てが摩擦しているのだ。過去、現在、未来が高速回転して擦れ合って、焦げ臭いほど真空の中で混ざり合っている。
 かつて動物であった人は、これから遥か先へ進化へ向かう。人ではない何かへと。果たしてたどり着けず尽きるかも知れず、辿り着き拓くかも知れない。進化は幾万年かけて、不規則に発生する。果たしてわれら人類は、その過程を超えられるのだろうか。テクノロジーは進歩する。途轍もなくそれは加速している。しかし、人類はそれに伴わない。生命の進化はもっと宇宙的な時間で、惑星的時間で行われるのだから。
 かつて動物であったわたしたちよ。本当に、真実に必要なものは何か。豊かな生活か。進歩したテクノロジーか。空虚な言語活動か。届きもしない他星への欲望か。もっと、動物だったころにどうしても飢えたものを思い出すべきではないか。殺し合いは無益であることを。奪い合いは愚かであることを。子孫こそが尊いことを。温かな触れ合いに感じる安寧の等しきことを。
 だからつまり、現在はそのままの人類なのだ。戦争を繰り返し、一身の利益だけを抱き、嘘を呑み、本当や真実を軽んじて、虚構の人類社会を信じている。これはそのまま有りの儘なのだ。これが今の人類の姿そのものであって、間違いでも過ちでもないのだ。
 つまり、わたしたちの総体は愚かで、利己的で、他人の殺し合いを好む。果たしてこれが、動物であったころのわたしたちの望んでいた姿なのだろうか。それとも、これは過渡期であり、この先好転するのだろうか。この余りに破滅的な生物が、もしも人類の他にいたならば、凡そ共存は出来ない。ならば、わたしたち人類もまた、人類と共存出来ない道理であるが、この矛盾をどうして超えることが出来るのだろうか。進化まではまだまだ遠い道程のようだが。