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週刊レキデンス~第2回~

第1回では、モルヒネの起源や発見の話をしていきました。
第2回では、モルヒネにまつわる、日本にも関係してくる歴史の話をしていきたいと思います。 ちょうど今、NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、井伊直弼の安政の大獄から、幕末の動乱の入り口へと入って行きました。そこにどうモルヒネが関わってくるのか?書いてみたいと思います。

~前回の続き~
1925年前後までにアヘンからモルヒネの単離や構造式の決定まで進みました。そのモルヒネの普及が始まったのは1853年の注射器の開発によるものでした。普及の直後は主に鎮痛効果を目的に使用されていました。その後、南北線戦争(1861年-1865年)普仏戦争(1870年7月19日-1871年5月10日)において、戦争で傷ついた兵士の治療にモルヒネを使用し、薬品を絶った後に欲求などの症状が出現するといった多くのモルヒネ中毒者を生み出して初めてモルヒネ中毒が問題になりました。(1)このように薬物中毒の裏には戦争が関与していることがあります。

<アヘン戦争は何故起きたのか?>
さて、舞台は東アジアに移します。アヘン戦争とは清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争。日本ではペリーが黒船に乗ってやってくる(1853年(嘉永6年))少し前のことです。

戦争が勃発した背景をまとめておきましょう。
当時イギリスから清への輸出は、時計や望遠鏡などの高級な物、または銀です。この様にあまり大量に輸出できるものがありませんでした。それに対して清からイギリスへは、茶、陶磁器、絹を大量に輸入していました。このことで欧州での「ティータイム」が習慣化して茶の需要は増えていき、清はイギリスの大幅な輸入超過となっていました。

また、この時期のイギリスは、輸出によって銀が不足になっており、しかもアメリカ独立戦争の戦費確保などのために、銀の国外流出を抑える政策を取らなければならない状況になっていました。その状況を打破するためには、銀の代わりに植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺する、三角貿易(1830年頃)を整えることにしました。(2)
しかし、アヘンが清に輸入されていくと、今度は清がアヘンを購入する対価を茶では賄えず銀を出すことになってしまった。そのため清での銀不足が生じてしまい、清とイギリスは先程と状況が逆転してしまいました。

その状況に対して、清は早々と対策を取ることになります。
1729年には、①アヘンを販売する者に1カ月の枷(かせ)と近くの土地で軍役に服せしめるの刑を科し、②阿片を吸食所を開いた者には、「杖一百」(杖や板で背中やお尻を打つ刑)「流三千里」(流刑)の刑を定めることに。しかしそれでも1796年には輸入量の増加が見られたため、清朝政府は関税表から「アヘン」の項目を削除。つまり事実上の輸入を禁じました。(3)1839年には「林則徐(リンソクジョ)」がアヘン厳禁策をとりイギリス商人からアヘンを没収していきます。これに怒ったイギリスは1840年から2年にかけて、清の沿岸各地を攻撃、戦争をして清を屈服させた。イギリスの勝利により、1842年8月南京条約を結ぶことになります。広州や香港を含んだ5つの港の開港や自由貿易の解禁などを行うことに。これは、東アジアの植民地化の第一歩となり東アジアの秩序が壊されていくきっかけとなりました。(4)

<アヘン戦争がどう日本に影響を与えたのか>
さてさて、日本にはこの事実がどう伝わったのでしょうか?
日本には「唐船風説書」を通じてアヘン戦争のこと、隣国清が負けたことが伝わりました。私は当初、鎖国により、ペリーの来航前後が江戸時代では主な外国人の来訪だと思っていましたが、実はアヘン戦争前の日本でも太平洋を横断して捕鯨を行う異国船が度々目撃されていたようです。これはアメリカやイギリスが寄港地や避難港としてハワイ島や小笠原諸島、そして日本列島が注目されていたためでです。異国船の目撃情報が増えるにつれて、船員の上陸によるトラブル(死者を1名出すなど)が増えてきました。そして大規模な警備をする必要性に駆られたが、当時の幕府は財政難のため経済的負担が大きかった。
そこで、洋学者・高橋景保(かげやす)は1818年(文政7年)7月に空砲を打って威嚇する策「異国船打払令」を提案し、幕府は発令した。当時は、威嚇で異国船に攻撃しても戦争にならないだろうと考えていました。しかし、当時の老中・水野忠邦がアヘン戦争で清が(イギリスとの)戦争で負けた経緯を正しく認識したことで「これはまずい!」「次は日本かも!」という恐怖に襲われることに。この影響を受けて彼は「天保の改革(1830年-1843年)」を進め、更に「異国船打払令」を撤回し、「薪水給与令(1842年)」を発した。(幕府は欧米列強との戦争をなんとか回避するための政策として、物を売買(貿易をする)のではなく慈悲として共与するという考え方)あくまで開国ではなく、鎖国維持のための策を打つことにした。(5)

同じころ、1842年(天保13年)松代藩主・老中真田幸貫は幕府に海防掛に任じられると、彼は佐久間象山(1811年-1864年)を顧問に抜擢して、アヘン戦争での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究をさせました。象山は魏源「海国図志」などを元に「海防八策」を上書しました。(6)この「海防八策」の内容から、象山は攘夷不可と論じ、萩(長州)藩の久坂らに海軍編成の急務を力説しました。この時に同席した萩藩のメンバーの内、伊藤博文や井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)の5名が英国に赴くきっかけとなった。そう彼らは、「長州ファイブ」と言われている人達だ。(5)この様に佐久間は開国派です。開国派であった佐久間は井伊直弼による安政の大獄では殺されませんでしたが、安政の大獄をきっかけに生じた攘夷派による桜田門外の変(1860年3月24日)や 池田屋事件(1864年7月8日)などに関連して、1864年8月12日に暗殺されました。佐久間象山は萩藩の久坂らの師匠である、吉田松陰勝海舟坂本龍馬らに影響を与えていき、開国論富国強兵の考えが浸透していき、攘夷派との対立を産み一気に幕末の世へと進んでいったのです。
そんなアヘン戦争は、日本にとって、日本が異国に対する対応方法を学び、更に異国への危機感から幕末~明治維新を通して異国の文化を学ぶきっかけとなったと見てもよいのではないでしょうか。


1)モルヒネ中毒と法医学 フランスの事例(一八八〇-一八九九) 渡遺拓也 2002 年 47 巻 2 号 p. 21-36,179 DOI: https://doi.org/10.14959/soshioroji.47.2_21
2)(近代の誕生(3) 民衆の時代へ ポール・ジョンソン (著), 別宮 貞徳 (翻訳) 株式会社共同通信社 (1995/03))
3)実録アヘン戦争 陳 舜臣 中央公論新社 (1985/3/10) 
4)幕末から維新へ〈シリーズ 日本近世史 5〉 岩波新書 藤田 覚 2015/5/21 ISBN-10: 4004315263
5)佐久間象山 大平喜間多著 ; 日本歴史学会編 人物叢書 / 日本歴史学会編, 23 吉川弘文館, 1959.4
6)岡山大学大学院社会文化科学研究科 『文化共生学研究』第6号(2008.3)佐久間象山と魏源 新村 容子


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