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本当の目的を目的にしちゃだめ

つながり

幸せな人生には、人とのつながりが必要。いろいろな書籍で紹介されているのでご存じの方も多いでしょう。私も一年ほど前にそれが書かれた本を読みました。素直な私はその本を読んで「そうか!つながりが大事なんだ!人とのつながりをつくったり、維持したりしよう!」と思いました。

職場で、すれ違う方と会釈で済ますのではなく、言葉を交わしてみる。勉強会で同じグループになった人と話してみる。大学時代の友達とご飯を食べようと誘ってみる。・・・など積極的にコミュニケーションを取りにいき、つながりを意識した行動をしました。

そして1年後の今、新たにつながりがつくれたかと言われると微妙です。そして維持も微妙です。逆に、つながろうと思わずに関わった人と、つながりができた気がします。

つながろうと思って関わるとつながれず、つながろうと思わないとつながれる。その差はなんでしょう。ちょっと考えながら、読み進めてみてください。

笑い

私は小学校の担任を11年やってました。どの年でも担任する子どもから言われるのは、「優しい」と「面白い」でした(悪い評判は本人には届きませんので知りません笑)。優しいは結構、素の部分があるので努力したという感じはありませんが、笑いに関しては結構努力しました(今もしています)。

漫才、コント、大喜利、テーマトークなど、お笑いは結構見ました。もちろん新喜劇も。しかし、ある時期からネタ番組というもので笑えなくなってしまったんですね。

なぜか。もちろん出ている芸人さんが悪いわけではないです。変わってしまったのは私。自ら設定や話題をもってきて、ボケてツッコむ。そこに笑わせようとする感じが見えてしまったのですよね。いや、芸人さんですから笑わせようとして当然です。何度も言いますが、芸人さんが悪いわけではない。でもとりあえず最先端ですから、笑えなくても勉強のために見るわけです。

そして、笑いを学んで学校で実践。授業中だろうが、休み時間だろうが、笑いの機会をうかがいます(教えることは教えているので許してください)。しかし、全然ウケません。

一方で、子どものボケに私がツッコむとだいたい笑いが起きます。

また、そのころ大好きになっていったのが、毎週キングコングというyoutubeチャンネル。お笑いコンビのキングコングさんが30分ほどのフリートークをするだけのもの。編集もほぼなし。当然BGMも。梶原さんと西野さんが単なる世間話をするだけ。ですからそこにあらかじめ用意されたボケはありません。それでも面白くする2人の話術は国宝級だと思います。

しかもこれは視聴者を笑わせようとしているわけではありません。動画の中でも西野さんがたまに言いますが、西野さんが梶原さんと話す機会が欲しいからやっているだけ。そこには、笑わせようという気持ちより、楽しもうという気持ちが強いです。それでも笑えてしまう。

笑わせようとすると笑えなくて、笑わせようとしないと笑える。さてなぜでしょう。

共通点

人とつながろうとするとつながれなくて、つながろうとしないとつながれる。笑わせようとすると笑えなくて、笑わせようとしないと笑える。なぜか。

私なりの答えは、受け手側に自由意志があるかどうかです。

人とつながろうと思って関わった場合、関わられた方は「あ、なんかすごいしゃべってくる」とか「話をつなごうと話題を一生懸命ひねり出してきている」と感づくのだと思います。それでいて「友達だからさ」とか「人とのつながりって大切だよね」とか言われると、なんか冷める気がするのです。

すると関わられた方は、「仲良くしなきゃいけない」と義務感のようになり、関わりたいからするという自由意志はなくなります。

相手を笑わせる場合、フリをつくる必要があります。緊張と緩和。予測の裏切り。笑いの方程式を成立させるためには、緊張をつくったり、予測をさせる必要があります。すると、自然の会話ではない流れになり、一生懸命感が漂います。そしてボケ。「あ、一生懸命ボケたな」と思うと、「笑わなきゃ」という義務感になり、笑いたいという自由意志はなくなります。

居場所づくり

私の今の仕事は居場所づくり支援員です。学校の中の教室を使い、様々な理由で教室に入ることができない生徒の支援をしています。その関係で居場所ということについてかなり勉強をしました。居場所に関する記事も多数書きました。

居場所をつくりたい。その気持ちは非常に強かったと思います。

でも、あるとき気付くのですね。居場所に通う側の気持ちとしてはその想いって重いのです。初めて通ったときに「ここはあなたの居場所だよ。安心して」って言われたらどうでしょう。なんかざわってしませんか。そうやって言われる場所に通おうとすると、居場所がないというレッテルを自分に貼らなくてはいけません。それって結構つらいことです。

居場所はつくられるものではなくて、感じるもの。

つまり、居場所もつくろうと思うとつくれないのです。居場所をつくることを目的とするとだめで、結果的に居場所と感じるような設計が必要なのです。安心できる環境を整えることは大前提。その上で、別の目的で通ううちに居場所と感じていくのだと思います。

私がつくろうとしている居場所は学校の中にあります。私の運営する部屋は「自分のペースで自分ができる学習をする」と子どもには説明されています。つまり一斉授業は合わない・分からないからこの部屋に通うという名目がたちます。

実際に通い始めると、最初生徒は勉強や読書をします。生徒の本音は勉強も読書もしたくありません。でもその部屋だから仕方なくやっています。いや、やっているフリをします笑

そこで、たまに休憩といいながら私が話しかけたり、「ちょっと休憩がてら遊ぼうよ」とカードゲームに誘ったりするのです。そうやってコミュニケーションをとって信頼関係を築いていきます。

だんだんなれて生徒が居場所って感じるようになってくれると、勉強なんかそっちのけで話すだけとか遊ぶだけの日もでてきます。あ、もちろん、勉強したいっていう子に関しては当然勉強をとめませんよ(そんな子はいませんが笑)。この話すだけ、遊ぶだけの日々が居場所と感じるために必要だと思うのです。

居場所って思ってくれているなーと思ったら、改めて「たまには勉強しよっか」と提案し、いわゆる勉強を少しずつ入れ込んでいきます。すると分からないときは「分からない」と言ってくれますし、「今日はちょっと無理」と本音も出してくれます。

生徒が居場所と思おうという義務感はないようにして、自分の意志で居場所を感じさせています。すると心が安定し、そこから少しずつ前を向き始めます。

まとめ

つながりも笑いも居場所もつくろうとして生むのではなく、結果として生まれるもの。そう思います。

私は小学生をもつ親御さんに向けて記事を書いていますので、最後はそこに関して。

子育ての目的って「子どもが幸せになってほしい」ではないでしょうか。少なくとも私はそうです。でも、「子どもを幸せにする」を目的にするとどうなるでしょう。

子どもに〇〇してあげるということばかり。それでは過保護になります。

幸せには自立が大事だ!と成長させることばかり。それでは幸せを捉え間違えます。

居場所づくりと同じで、幸せは感じるもの。では子どもが結果的に幸せを感じるには、何を目的にすればすればよいでしょう。

そう。親御さんが幸せでいることです。親御さん自身が日々幸せでいることを目的にするのです。そんな親御さんと関わることで、子どもも幸せを感じられるようになると思います。

ただ注意点は、親御さんの幸せの定義も子どもは学びます。家族のことを考えずに、自分のことだけを優先することを幸せとすると、子どもも同じようになります。

そうすると、幸せとはなんだを真剣に考える必要があります。イヤー子育てって深いですね笑

最後駆け足になり、すみません。最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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