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【精神病と障がい者】植松被告に言いたいこと

小学生から中学生にかけて、生きるってなんだろうと毎日考えていました。

毎日が存在する意味ってなんだろうって、答えのない問いを何度も自分にぶつけていたんですよね。

その答えは28歳になった今も見つかりません。

2016年に神奈川県相模原市にある障がい者施設「やまゆり園」で、大量殺人を行った植松被告に今月16日、死刑判決が下りました。

植松被告は障がい者に生きる意味や価値はないと主張していました。

彼の主張を聞きながら、医療少年院で一緒に過ごした子どもたちのことを考えました。

その人の生きる価値って、なんでしょうね。


障がい者が無益な存在なら健常者は有益な存在か?


私は植松被告の言っていることすべて否定はしません。

色々な景色を見てきて、彼の言っていることに同意できる部分も少なからずあります。

医療少年院にも手の施しようのないほど、重症な精神病の子どもがいます。

たとえ出院しても行く先は家ではなく、閉鎖病棟です。

彼らが一般社会の中で普通に暮らすことは死ぬまでありません。

まだみんな10代ですが、部屋の中しか知らずに死ぬことがもう決まっています。

残酷ですよね。

障がいも精神病も、本人がなりたくてなるものではありません。

自分の起こした事件が発症要因だったとしても、一生の病になりたいとは思っていないでしょう。

それでも残酷な運命に従って、死ぬまでの時間を過ごしている人はこの世にごまんといます。

そして両親や友人を含めればそれ以上に、彼らを見守る人がいるのです。

確かに社会にとって彼らが有益な存在かと問われたら、無益だと答えるのが正解でしょう。

経済を回すわけでもなければ、お金を生み出すわけでもない。

人の役に立ったり助けたりすることもないし、税金はたくさん使う。

健康で会社に勤めている人と比べたら、無益ではあるかもしれません。

ですが、ここで疑問を感じるのです。

だとしたら、健康で会社に勤めてる人は社会にとって有益というのか?

私はそう思わないんですよね。

会社という車のエンジンになり燃料になり、社会人として社会に貢献はしているかもしれません。

経済的にも有益であり、多少なり誰かを助ける能力はほとんどの人に備わっているでしょう。

でも、それがイコール有益さに繋がるでしょうか。

「だから有益!生きる意味も価値もある!」

逆に、「だから無益!生きる意味も価値もない!」

というのは、とても安直で短絡的だなって思うんですよね。

人が生きる意味は、そこにはないんじゃないでしょうか。


彼らに生きていてほしいと願う人がいる


医療少年院は騒々しい動物園をイメージしてもらえると、現実に近い感覚を分かってもらえると思います。

身体的病により医療少年院送致になる子もいますが、ほとんどが精神的病により医療少年院送致になります。

みなさんがイメージする精神科病棟のような感じで、叫んだり暴れたりは日常茶飯事です。

私も在院中はろくに眠れず、突然殴られたり噛まれたりと色々我慢ならないことがありました。

植松被告同様に、彼らが生きてる意味などないと思ったこともあります。

罪を犯しただけでもどうかと思うのに、叫んだり食べ物を投げたりナプキンを食べたり…この子たち税金で生かされてるんだよねって考えたこともあります。

しかし、彼らにも親がいて友人がいます。

面会に来て手紙が届いて、差し入れがあって、愛されてることを日々目にしてきました。

正直に言いますが、たまに会いに来る施設以外の人間(親を含め)は、彼らの綺麗な部分しか見ていません。

施設に預ける前は見ていたかもしれませんが、人の記憶などあっという間に消えてなくなるものです。

いない現実に慣れてしまえば、たまに会いに行く子どもにどれだけ手がかかっているか理解することは難しいものです。

「お金を払ってるんだからいいじゃないか、社会保障として国が彼らの生きる権利を守るのは当たり前だ。」

そう訴えるのは構いません。

ですが、それを当然だと思われるのは違うと思うのです。

彼らのために、犠牲になることを買って出る人間がいます。

お金のためかもしれません。

誰かを助けたいという偽善や世間の目、それら職業のレッテル欲しさなど理由は色々あるでしょう。

しかし理由はなんであれ、理不尽な暴力や意味不明の言動に今日も付き合っているのです。

それが仕事とはいえ、文句も言わずに彼らの手助けをしているのです。

それを当然だと思われたら、お金をもらってるからでは済みません。

お互いになんの思いやりも尊重もなくなれば、障がい者も精神病も健常者も関係ないのです。

生きていてほしいと願うなら、気遣うべきは娘や息子ではありません。

仕事にストレスを感じるなら、当たるべきは目の前にいる人ではないですよね。


世間が臭いものに蓋をするからこうなっただけ


日本人って、誰にどう見られてるかを異常に気にするじゃないですか。

狭い島国の中で上手くやっていくには必要だったのかもしれませんが、時々バカバカしく思うことがあります。

介護とか福祉とか、薬物依存や虐待、日本人はこれらの問題を「臭いものに蓋」しがちですよね。

「誰かがなんとかしてくれるから、私には関係ない。」

ずいぶん幸せな人生ですね。

そういう人に限って当事者になると、権利だのなんだのってつまらない主張を始めるわけです。

私は障がい者も精神病も、身体的な病気を含める病死か老衰、自然死、なんでもいいけどその人の寿命まで生きるべきだと思います。

そのために必要なことは、できる人がしてあげたらいい。

実際に時間と労力を犠牲にして勤める人もいるだろうし、それができなければ納税や募金という形で支援できますよね。

役割分担をする人数が多ければ多いほど、一人当たりの負担は減っていきます。

薬物依存も、誰にでも可能性はあります。

やり直すチャンスを与えてあげることは間違いでないと思いますし、必要があれば支援するべきです。

虐待についてもほとんどの場合、子どもに原因はありません。

オツムの弱い親は死刑で構いませんが、その子どもは社会で幸せに暮らしてほしいと私は思います。

生活や夢のために助けが必要なら、国が全力で支えるべきですよね。

私には私の生活があるので、実際に手助けをしたり仕事に就くことはできません。

その代わりに、税金を多く納め、可能な限りこうして世間に訴えています。

健常者と障がい者って、そもそも比べるものじゃないと思うんですよ。

できることをできる方がやったらいいだけで、多いから偉いとか少ないからダメではないと思うんですよね。

この社会には助けられる余裕があるんだから、助けてあげたらいいじゃないって。

シンプルに不要なものから必要なものへ、なんで政治家の先生はそれができないんでしょうか。

人は権力に取り憑かれると、するべきことも見えなくなってしまうようですね。


誰も傷付けずに幸せになれる方法はある


今すぐ変えられることなんて、人生でそう多くありません。

特に他人という生き物は、どんな手を使っても完璧にコントロールすることは不可能です。

それは健常者も障がい者も関係ありませんし、どちらかというと考える力があって行動力もある健常者の方がコントロール不能でしょう。

植松被告は色々なものを見る中で、このままでは誰も幸せにならないと思ったのかもしれません。

面倒を見る方の気持ちになってみれば、確かに生きてる意味がなんなのか分からなくもなるでしょう。

しかし、何人も殺せるほどの行動力があるなら、アプローチ法を変えることを考えてほしかったと思います。

私は医療少年院という存在を多くの人に知ってほしくて、このnoteを始めました。

他にもブログを運営していますが、そちらでは少年院卒であることを話していません。

私の顔と名前を知っている人は、私が少年院卒であることを知らないです。

しかし、世間の人が見る場所で医療少年院について書いてよかったと思っています。

少なからず今までよりも医療少年院という言葉を知っている人が増えただけでも、noteを書く意味はあると思うのです。

今すぐに変えなければ、今そこにいる人にとっては意味がないかもしれませんね。

だとしたら、文句を言う前に、誰かを傷付ける前に、やることがあるじゃないですか。

現場に立つものとして、今は声を上げる方法がいくらでもあります。

仕事がクビになっても訴えられても、間違ってないと胸を張れるなら支援する人は必ず現れます。

殺してしまえば、終わらせてしまえば、そりゃ楽ですよね。

ですが、それではなにも解決されていないのです。

私が医療少年院卒であることを知って、好きになってくれた人もいます。

偏見を持たずレッテルを貼らず、対等にフラットな状態で話を聞いてくれる人もいます。

元犯罪者の考えや生き方を尊重し、尊敬すると言ってくれる人がいます。

絶対になににでも二面性があるのだから、一方だけを見ていても解決しないのです。

それを分かっている人は世の中にごまんといて、手を差し伸べてくれる人も必ずいます。

綺麗事を抜かしているのは、臭いものに蓋をして知らないフリをしている人たちです。

綺麗事ではないからこそ、今すぐ変えることは難しいのです。

でも、諦めたらそこで終わりじゃないですか。


私は医療少年院に感謝している


医療少年院に入って最も興味を抱いたのは、院生ではなく先生でした。

「なんでわざわざこんな仕事に就くの?」

と、ずっと思っていました。

私が退院して少し経って、妹は大学の専攻で児童福祉を学び始めました。

社会福祉士を目指すと言い出し、その理由をこう語りました。

「私は逸れることなく生きてきたけど、同じ環境でもお姉ちゃんは違った。お姉ちゃんがなにに苦しんでたか分からないけど、同じように苦しんでる子を助けたい。」

結果、妹は純粋すぎる余りうつ病になり、その道を諦めました。

実習の帰り道、私に泣きながら電話して諦めていいかと聞いてきました。

それが当然で間違いない世界です。

太陽をサンサンと浴びて生きてきた人間に、陽の光を知らない人間の気持ちがそう簡単に分かるわけがないのです。

しかし、それが悪いことではありません。

知ろうとしたその姿勢や気持ちに、意味があると私は思いました。

きっと色々な感情を乗り越えて刑務官になったであろう、少年院の先生方。

そんな先生たちの人生がとても気になりました。

正直、少年院のプログラム自体には疑問を感じます。

もっとこうしたらいいのに、これって意味あるの?と言いたいことはたくさんあります。

ですが、私は少年院という施設に感謝しています。

入れてよかったという言い方はおかしいかもしれませんが、人生の中でいい経験になったのは間違いありません。

ろくに寝れず無意味に暴力を振るわれ、生きてる意味すら分からない彼女たちからもたくさんのことを学びました。

自分を振り返るきっかけをくれ、人に優しくする意味を知りました。

人生や他人は常にギブアンドテイクではないこと、それでも人のためにすることは自分のためになるんだと教えてもらいました。

五体満足で話ができて、自分の生活費を自力で稼ぐことができる。

これがどれだけ有難いことか、植松被告はわかっていないように思います。

これだけ有難い状況で生かされているのだから、困ってる人や足りない人を助けるくらい大きな器でいられないものでしょうか。

税金とか政治って、そのためにみんなで動かすものじゃないんですかね。

若いし健康だし、もったいないことしたなって思います。

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