見出し画像

発達障害 自叙伝#02

小学校1年生〜4年生

小学校に入りたての頃、お尻から透明な液体が出るようになった。最初は何かわからなかった。大便をした後なんかには必ず起こったし、突然起こることもあった。市内の病院に行ってもわからず、結局、宮城県子ども病院を紹介され、検査を受けた。わかったことは、腸の中に膨大なガスがあること。それが何かしらお腹に悪影響を及ぼしているのではないかという推測だった。

それから、治療をしていった。多少よくなっていたが、根本的に解決には至らなかった。その先生は腸の研究をしている先生だけあって、精神分野にも詳しかった。だから、精神科を紹介され、そこの先生にwisk-Ⅲの知能検査を受けた。そこでこの子は天才なのかもしれないと先生が言ってくれた。

東北福祉大学(以下 福祉大)のひかり野宿を紹介された。手始めに精密な知的能力を検査した。そこで学習障害であるとわかった。学習障害でも、ワーキングメモリが弱く、漢字を覚えるのが苦手で、書くのも読むのも苦手だった。そこで漢字を分解して覚えるようになった。例えば、「虫」と「足」の違いが難しかったので、『ムシの「ム」の方向にあるのが「虫」』と覚えた。

 その頃の小学校の担任の先生はベテランで、僕が4年生の時に定年退職するまで担任をしてくれた。その先生は何か配慮してほしいことを言うと、有無を言わずにOKしてくれた。例えば、板書をカメラで撮影したり、給食を食べずに弁当を持参したいと申し出たら、何も言わずにOKしてくれた。

けれど、僕の障害に対して、何か理解しているわけではなかったので、カメラ撮影しやすいようにサポートするだとか、みんなにお弁当を持ってくるだとかの説明をすると言った配慮に対するバックアップはなかった。小学校低学年、中学年で、自分が配慮してほしいことを自ら要求するというのは常識から考えて、難しいことだろう。福祉大の先生が何度か僕の小学校に来て、僕の障害のことや支援について話をしてくれた。けれど、何か学校から支援を提案してもらえるということはなく、僕が困っていることを言語化できなければ、支援をしてもらえないという状況だった。

 担任の先生は子どもたちに力をつけさせたいというコンプレックスがあった。例えば、漢字テストが100点満点になるまで何回も解かせていた。普通に考えると、ワーキングメモリーが弱い僕にとって、無理難題であると簡単にわかるはずだ。しかし、その先生が僕のことを気に留めることはなく、普通にそれをみんなと同様に課すのであった。

だから僕は、合理的配慮として持ち込んでいるカメラの中に、前日、間違えた箇所の漢字の写真を撮り、当日カンニングしていた。絶対してはいけないことだとわかっていた。でも、そうするしかなかったんだと思う。

解けないでヒステリックを起こしている子どもをその先生は叱っていた。そして、僕が「ワーキングメモリがどうとか」を説明することは難しいし、自分でも理解してなかった。

小学校のテストなんてカジュアルなもので、休み時間にちょっとやるにしても、授業中にやるにしても、先生がカンニングに目を光らせてることはまずない。机に関係のないものが置いてあっても注意しない。僕はそれをいいことにカメラに入れておいた前日の漢字テストで間違えた箇所の写真を見ながら埋めて、提出していた。


仕舞いには漢字テストだけでなく、都道府県テストまでそういう形式で行われるようになり、僕はまた、カンニングしていた。その先生はある意味パーフェクトコントロールする先生だったんだと思う。それはいい意味でも、悪い意味でも、クラスの雰囲気も気持ち悪いくらい良い雰囲気だった。悪く言えば、人の悪いところを認められないクラスになってたのかもしれない。ヒステリックを起こすことも、暴れる子を差別する風潮がどこかにあったのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?