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前近代の戦士及び近代のゲリラと、近代正規軍の「死」に対する認識の違い

人間の認識という面から見ると、いろいろと面白いことが見える。

前近代的な軍隊もしくはゲリラ軍は、現象的な面で言えば装備や訓練、練度といった軍事力の質的な面がバラバラであるというのは現象論的に見れば正しい。

そういった前近代的な軍隊の中から、ヨーロッパは近代軍を形成してきた。

大きな転換点となったのはナッサウ伯マウリッツによる「教範(ドリル)」に基づく斉一行動の訓練である。

これとマスケット銃による一斉射撃によって、かつてのアレクサンドロス大王のファランクス陣形さながらに非常に大きな火力を得ることができるようになったことが近代軍の出発点である。

しかしより中身に分け入って考えてみると、近代軍は前近代的軍隊をちょうどあべこべにしたようなものとも言える。

というのも、確かに近代軍は現象的には極めて均一な、そして練度や装備は全て同一の水準で統一されているし、そのように凸凹を均して均一化している。

しかしながら、それは見た目の部分だけであり、兵士の認識についてはむしろ前近代的軍隊と逆に不均一化しているといえよう。

というのは、近代軍は現代に至るまで「雑兵・足軽」を組織化したものであり、兵士のいうなれば「実体」たる部分は、平民=家畜化された生産階級の人間である。

そもそも論として「戦士の文化」が存在しない者たちを、外的な規律や訓練によって戦士としての機能を果たす歯車に仕立て上げているのが実態であり、生まれた時から戦士として育てている前近代的軍隊の戦士と異なり、戦場や「死」に対する認識は極めて不均一であり、質的にバラバラであると言わざるを得ない。

それは軍事訓練において数多くの脱落者や不適合者が存在すること、そして実戦において戦闘神経症に罹る人間の多さを見れば歴然としている。

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一方で、戦士の文化を保持している前近代的軍隊についてはちょうど近代軍と鏡像のように逆になっている。

すなわち、現象的な装備や個々の技能は不均一ではあったものの、「死」に対する認識や戦場での自らのふるまいと言った文化面に関しては一定程度以上の高いレベルを保持し得ていた。

すなわち前近代的軍隊の戦士は「戦士そのもの」であるのに対し、近代軍の兵士は「戦士を演じているだけの役者」であるということ。

ともに現象論的には戦士に見えるものの、近代軍の兵士の場合は役者と同じで演劇(戦争)が終われば元の一般人に戻る(職業軍人も含めて)。

しかし前近代的軍隊の戦士は「戦士階級」としての文化様式に則った生活をしており、「一般人に戻る」という概念自体がそもそも存在しない。

前近代的軍隊の戦士を「宮本武蔵その人」だとすれば、近代軍の兵士は「宮本武蔵を演じている萬屋錦之介などの役者」と表現できる。

武人としての強さは果たしてどちらが持っているのか?ということは明白である。

近代軍はそれゆえに、集団力と外的な訓練によってそこを補おうとして現在に至るが、しかしメッキはどんなに精巧でもメッキに過ぎず、中身の金属を変質させるわけではない。

それが端的に表れるのが、「自らが死に直面した」時である。

前近代的軍隊でも奇襲によって潰走するということはあるが、その一方で驚異的な粘り強さを見せて圧倒的に不利な戦力差でも戦い続けるということが多々ある。

一方で近代軍の場合、軍を構成する個々の兵士は「戦士のメッキを施された平民」に過ぎないことから、特に個々の兵士が死の際に直面した際に脆さが露呈する。

前近代的軍隊では「弁慶の立ち往生」のような話は星の数ほど存在するが、近代軍において「弁慶の立ち往生」という例はほとんど存在しないという対比もここから生じると言えよう。

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別の例でも見てみよう。

最も面白い例としては漫画「あしたのジョー」のラスト、矢吹ジョーが世界チャンピオンのホセ・メンドーサに挑戦した試合である。

「真っ白に燃え尽きたぜ」というセリフのとおり、ジョーは勝ち負けを超えて「この試合で死んでもいい」という認識の下、いくらパンチを浴びせられようとも何度でも立ち上がり苛烈かつ執拗に戦い続ける。

もちろん技量の差は歴然としており、ジョーとホセの間にはいかんともしがたい差があるのは事実である。

しかしそのジョーの認識の表現たる戦い方は、実力者であり技術面ではジョーなど敵ではないはずのホセを恐怖に陥れた。

というのも、ホセ・メンドーサにとってボクシングとは生計を立てるための手段に過ぎず、自らのテクニカルな技巧によって賞金と名声を勝ち取るのが目的であったから。

「自らの誇りと命を懸けてボクシングで戦い抜くことそれ自体が目的」であったジョーとの最も大きな違いがボクシングそのものに対する認識の違いであったのは明白であり、ゆえに自らの命をも惜しまぬ苛烈な戦いをするジョーに対し、実力充分で勝ってるのはずのホセの方が逆に恐怖し追い詰められるという展開となったのである。

前近代的軍隊と近代軍、それぞれを構成する兵士の違いもまたかくの如しである。

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故に、これからの軍事力の飛躍的発展を期するためには、近代軍が否定した前近代的軍隊の持っていた要素を再び保持するために工夫することであり、それは小手先の技術的改良などでは遠く届かぬことで、本来的な意味での「軍事革命」、すなわち軍事の変革が社会変動を意味するレベルでの大変化(それこそ近代軍が誕生した時のような)を必須とするのである。

すなわち、メッキを重ねることではなく、中身の金属そのものを変える「錬金術」が必要とされるということである。

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