見出し画像

死を想う

健康寿命と平均寿命

健康寿命と平均寿命という言葉がある。

平均寿命は女性が87歳、男が81歳くらいであるが、健康寿命はそれより5〜6歳少ない。つまり、それほど入退院を繰り返さずに日常生活を送れる期間が健康寿命であって、脳梗塞で半身不随になったり認知症を患ったりして病院や介護施設にお世話になる率が高くなって最期を迎え、寿命に至るというわけである。

今後、少子高齢化が進んでゆくことは明らかであり、昨年は出生84万人台で出生率も1.36と低下してきた。このまま出生率が回復しなければどんどん高齢化率が増加してゆくわけである。政府の人口予測の中位予測の前提は出生率1.44である。それで2060年の高齢化率は38%であることは前に書いたように思う。低位推定では出生率1.25で高齢化率40%超えである。15歳未満の年少人口が10%位あるので生産年齢人口は50%位になる。5割の生産年齢人口で4割の高齢者と1割の子どもを支えなければならない将来はほぼ確定である。

もし、その時に高年齢者一人一人に介護の生産年齢人口の人材を1人づつ付けたらもはや日本には生産できる人口はほとんど残っていないということになる。残った人材を年少人口の教育にも振り分けなければならないわけである。

今から40年後にこの未来は大体確定している。

End of lifeに向けて: 死を想う必要性

今後出生率が大幅に伸びる可能性が少ない以上、求められるのは高齢者への対応、つまり、end of lifeに向けての戦略である。

誰もが死を見たくないというのが現実である。みんないつまでも生きていたい、死など向こうに遠ざけていつまでも楽しい夢を見ていたいという気持ちはわかる。けれども、それは単なる願望に過ぎない。死は必ずやってくるわけである。しかも死の前には健康寿命があり、健康寿命が尽きると命が尽きるまでの間は病人としての人生を送らなければならぬ。それは自分の体が思うように動かず、他の人の手を借りなければ生活していけない期間となる。

生産年齢人口が減れば手を貸してくれる人が物理的にいなくなるのである。いくら「来てくれ」と叫んでも「私は税金をきちんと収めました」と言っても誰も来てくれないことになる。未婚の人、離婚した人は独居である。仮に「シングルマザーとして子供を育てました」と言ってもその子供が面倒を見てくれるとは限らないわけである。

何年か前に死生学の先生がツイートしていたのは脳死臓器移植についてであったが、その先生は「脳死など認めぬ。医療は患者が心臓が停止するまで全力で心臓を動かし続けよ。意識などなくても手足が腐ってもひたすら心臓を動かし続けるのだ!」って主張しておられたわけである。無責任とはこのことである。

認知症の人たち; 徘徊など

これから、高齢化の社会を乗り切ってゆくためには、一つには少人数で多数の高齢者のケアを行える新技術の開発であろう。今のシステムでは無理である。破綻することが目に見えている。例えば、今以上に認知症の患者が増加し、徘徊する人が増えたらどうするのか。

認知症の人が電車にはねられた事故で遺族が損害賠償を求められた裁判で、最高裁では遺族の責任を認めない判決を出したが、今後、責任が問われた場合に公的支援の動きが出てきている。けれども、徘徊事故が増え過ぎたならば支援が間に合わなくなるかもしれない。

民間の保険会社は当然営利で事業を行っている。救済すべき事故件数がどんどん増えてゆけば、保険会社も保険料をどんどん上げざるを得なくなるだろう。そうなれば地方自治体の財政を圧迫することにも繋がりかねない。セーフティーネットがどこまで維持されるかはわからないであろう。

そういう状況でどのような高齢者医療、高齢者介護を行えばよいかということは大きな問題であろう。国は定年延長を打ち出しているけれど、そりゃ「ワシはまだまだ若いもんには負けん。定年なんてクソくらえ」という人には良いかもしれないけれども、脳血管障害を患ったり認知症を患ったりした人についてどうしようというのだろう。

「優生思想ハンタイ!」とか言って議論を封殺しようというのは自由だけれども、そういう人たちが高齢化社会で何か解決策を出すわけでもないし、当然のことながら彼らに責任など取れるわけがないのである。責任を先延ばしにすることで被害に遭うのは今の子供達であろう。ご愁傷様というべきか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?