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「想像力」をどのように働かせると良いだろうか

この人の言う「想像力」は本当に日本的だと思う。

「老人にも生きる権利はあるのです。障害者にも生きる権利があるのです。だから死ぬ権利とか禁止して生きる権利だけにしましょう。もし老人や障害者の人、難病で苦しむ人が居たら、皆さん、きちんと寄り添ってあげましょう。」と言うわけである。

立派な「建前」である。ある人が本当に苦しい、もう生きていたくないと言うなら、誰か知らない、その人の周囲の人たちが命をかけて寄り添って苦しみを取り除いて生きる気力を取り戻させねばならないのである。勿論、その努力は完全に手弁当で行われるし、やったとしても「当然でしょ。」と一言で切り捨てられるものである。当然、仮にその苦しみを取り除くことができずにその人が死を選んでしまったならば、「どうしてお前らはそんなに無能なのだ。人一人の命も救えないのか。そんな奴は生きている資格がない。可哀想に死を選んだ人の代わりに責任を取って自殺してしまえ、いや、死ねと言うのはよくないな。代わりに私に賠償金を一千万円支払うことで手を打とうではないか。誰も死んではいけない。みんな生きることが重要だよ。じゃあ一千万円よろしく」ってな感じになるわけである。「本音」と「建前」は別。「泣く泣くも良い方を取る形見分け」であろう。

実際に苦しんでいる人の気持ちもどうでもよければ寄り添おうと言う周りの人に気持ちもどうでもいい。形式的に「生き続ける」と言う結果しか求めていないのである。その人にとって本当により良い選択は何かなんて考える気はあるのだろうか。(いやないだろう)

1 パターナリズムと医療

ある人の気持ちを適当に自分の正義感で推し量ってこれでよかろうと強制してしまう。それはパターナリズムである。パターナリズムとは金儲けにしか興味のない医者が患者をダシにしてひたすら金儲けしまくるというイメージがあるかもしれない。

実は、医師が患者のためを思って最大限延命させるというのがパターナリズムである。死ねば敗北である。つまりはとことんまで生かせ続ければ良い。

癌ならまず手術をしよう。痛い?怖い?そんなこと言うな、患者であるあんたのためだ。手術しなければ死んでしまうのだからつべこべ言わずに手術です。日程はもう予約したから考えさせてくれなんて意見は聞きません。さっさと準備して入院しなさい。そうか、癌という病名を告げるから患者が不安になるのだ。胃癌という病名ではなく胃潰瘍と言っておけば患者も不安にならず手術を受けるだろう。「死にたい」なんてくだらん考えを起こされても困る。胃潰瘍だったら流石に死にたいとか言わんだろう。
何?再発しただと!それは大変だ。もう抗がん剤しかない。副作用はきついけれど延命のためだ。頑張ってもらおう。ああ、やはり髪の毛が抜けて吐き気などの副作用が出たか。食事も取れないようだ。
「先生、こんなに苦しい治療は嫌です。もっと楽な治療はないでしょうか。」
弱気になっちゃいかん。あなたにはこの治療法が一番なんだ。まあ、私を信じて頑張りなさい。私があなたのことを一番よく考えているのだから。
肝転移が出てしまったか。よし、アルコール注入で転移巣を攻撃だ。
「え、また手術ですか。」
たいしたことない手術だよ。私に任せておきなさい。
「退院はできるのでしょうか」
うーん、手術の結果次第だよ。少し退院してもらったけれど、また転移巣が増えたから再入院で今度はラジオ波で焼こう。
全身に転移巣が出てきたようだ。けれどもワシも医者。緩和ケアは敗北の証。癌性疼痛にはオピオイド処方すればいい。腹水除去だ、人工呼吸器だ最後の最後まで治療だ。延命だ!

っていうのが昭和の時代のパターナリズムな医師である。(ちょっと戯画的)

治療や延命をガンガン行って、もしかしたら数ヶ月くらいの延命効果はあったかもしれないが、患者の意見などこれっぽっちも聞かないわけである。けれども、患者の死ぬ権利など一笑に付し、最後まで患者の生に寄り添って治療に当たったわけである。まあ、生活の質など最初から無視しているわけであるが。

2 生活の質

生活の質って、抗がん剤治療の副作用の苦しさから出てきた指標である。これは1944年の発表なので、今の治療薬に比べても副作用が出まくって、しかもその軽減法が全く知られていなかった時代に確立されたものである。今では抗がん剤治療の副作用の嘔吐を軽減する薬もあるし、脱毛についてはwigもある。

上記は子供用wigのヘアドネーションのNPOが出しているホームページである。

死が不可避になったときに、あくまで延命を目指すか、余命の短縮と引き換えに生活の質を保つかという議論が出てきたのは生命倫理の発展にも関係している。

3 ナチスドイツとニュルンベルク綱領

ナチスドイツが障害者や精神疾患患者などを大量に強制的に安楽死という名目で殺害していた頃、ナチスの医師たちが非人道的な人体実験を強制収容所の囚人たちに行っていたわけである。当時は全世界的にパターナリズムの時代であったから、特に安全性が確認されていない薬でも、医師が「患者に投与します」と言えば患者は逆らうことが困難だったわけである。これはドイツだけではなく米国でも英国でも日本でも同じだった。ドイツではこれを悪用して人体実験を行なったわけである。

ナチスドイツが降伏した後、そういう人体実験のデータが続々発掘されて、軍事法廷はそれを戦争犯罪として裁く必要が出てきた。そこで作られた倫理基準がニュルンベルク綱領である。そこで出てきたのが「患者の自律」尊重である。つまり、「患者・被験者が『嫌や』と言っているのに無理やり人体実験したんじゃないでしょうね。」という原則である。世界の医療界は驚愕したことであろう。何しろ、それまでは医師が全てを決めるのが当然であって、そもそも患者の意見など尊重されたことはなかったからである。

しかしニュルンベルク綱領が公開されてしまったのである。世界中の倫理規定が変更される必要があった。医学研究の新しい倫理規定としてヘルシンキ宣言(1964)が発表されたが、その後もタスキーギ事件など研究倫理に問題のある医学研究が告発された。このことから生命倫理の研究が進み、生命倫理の4原則が発表され、その中には「自律の尊重」が真っ先に含まれていた。つまり、臨床においては患者の自己決定権の尊重が生命倫理の中核となった。

4 患者の自己決定権

新しい生命倫理は患者と医師の両方に混乱をもたらした。患者にしてみれば、自分の病気のことはよくわからず、そのために全てを医師に丸投げしていたのをそれからは自分で自分の病気のことを知り、自己決定することが求められるようになった。一方で医師は自分が最良の治療を選び、施すというパターナリズムを否定され、自分の提案する治療以外の治療法やその効果なども説明して、患者の同意する治療を施すという方法を求められるようになった(インフォームド・コンセント)。患者は自分の納得する治療を受けるためには主治医以外の医師の意見を聞く機会を保障されることになった(セカンドオピニオン)。このように患者の自己決定権が尊重されることにより、医療における意思決定システムが大きく変わることになった。

患者は様々な医師にアドバイスをもらいながら自らの病気に対する治療を決定するようになったが、その選択は当然、必ずしも医師の考える最良のものではなくなり、他覚的には愚行とも思える方法も選択されるようになった。

5 緩和ケアとホスピスケア

緩和ケアとは人生の終末期に、病などのために耐えがたい痛みを経験せざるを得ないときにその苦痛を緩和するケアである。一方で、ホスピスケアは患者が死にゆくプロセスを正常のものとして捉え、緩和ケアを含めて患者のend of lifeを豊かにするケアとして発展してきた。その中では患者の苦痛、身体的な苦痛だけでなく、精神的な苦痛、社会的な苦痛の緩和が目指され、スピリチュアルな問題の解決が目指された。

ここでは延命のための治療は積極的には行われず、むしろモルヒネなどの鎮痛薬の多用は間接的に寿命を短くする可能性も示唆された(間接的安楽死)が、それは定量的に測定されるものではなかった。延命治療を行わないことは生活の質を豊かにしたこととの引き換えであり、それは消極的安楽死・尊厳死とされた。

6 積極的安楽死の合法化

積極的安楽死は日本では違法である。しかし、患者の自己決定権の広がりの中で、自らの疾患がもう不治であり、進行性であること、何の治療法もないと知ったとき、自らの命を断つ自由を自己決定権の中に含めるかどうかという議論が行われるようになった。最初にこの積極的安楽死を認めるようになったのは米国オレゴン州(1997)である。米国医師会などはこの積極的安楽死法に反対したが米国連邦最高裁はこの法律を合憲としている。その後欧州各国に積極的安楽死は広がったわけである。

日本の識者たちは積極的安楽死への反対理由に、日本社会の一般意志が積極的安楽死を強制しているということを挙げている。非常に遺憾というより他ない。社会の一般意志って主権者である日本国民一人一人の総意だよ。そりゃ中には色々な意見の人がいるだろう。「優秀な遺伝子を持つ人の遺伝子は国がプールしておき、優秀な日本人を作成せよ」という優生思想を持つ人も中にはいるかもしれないけれど、おそらくそういう人は多数派ではないと思う。そういう人でも劣等者は排除せよなどという主張にはあまりなっていないと思う。

7 劣等者の排除

私が一番聞いた『劣等者は排除せよ』という言説は「ネトウヨどもは劣等者であるから排除せよ」という意見である。今はカウンター達は「極右は今すぐ家に帰れ、ここから消えろ」という叫びが多いね。これはノイホイ君がそう主張した功績だと思う。それまでには「そんなに日本が好きなのならネトウヨどもは日本海溝の底に行って暮らせばいい」って叫んでいた人もいたね。つまりは土左衛門になれということである。左派にしてみれば「ネトウヨなんていうマイナーな連中を全員殺害してもたいした問題ではない。むしろ積極的に害虫を駆除した方が綺麗な日本になる。それよりも在日コリアンに祖国に帰れという方が差別だ」という主張が一般的だと思う。左派にはマルコムXの崇拝者も結構いただろうから、ノイホイくんがいなければ、左派は過激化して今頃、在特会の連中がそこかしこで正義の左派に嬲り殺されていたかもしれない。結局、今までのところはそんなにネトウヨではない大学生を殴ったり蹴ったりしてリンチした事件くらいだよね。在特会が鶴橋などで派手にデモした前後はネットの論調では「あの在特会元会長氏を殺害してはらわたを喰らうのが正義だ!」って過激化しそうな人たちが結構いたと思うよ。例のALSの患者さんの死亡では、実行者の医師二人が嘱託殺人で起訴されたが、あの患者がもし、例の在特会元会長氏であれば、「もちろん、積極的安楽死は殺人であるが、私はその殺人を擁護したい」って叫ぶ左派が数限りなく出現したのだろうと思う。

多くの日本人において弱者と劣等者は一致せず、多くの日本人は弱者は守りたいが劣等者は排除したいのであろう。そして、誰が劣等者であるかもその人その人で違うのである。もしかすると「劣等者を排除しましょう。」と日本国民全員に命令するとお互いそれぞれを殺し合って最後には誰も残らない可能性すらある。だからといって全体主義思想で死ぬ権利を禁止して生きる義務だけを国民に許しましょうということになればパターナリズムの時代に逆戻りである。死ぬ可能性の最も少ない選択肢しか許さないということであれば患者の自己決定権は不要である。

8 患者が適切に自己決定するためには

パターナリズムでいうとブラックジャックのDrキリコもパターナリズムである。彼は最終ゴールを延命ではなくて安楽死においているだけである。彼は不治の病に侵された患者が安楽死に迷うと「是非安楽死をしなさい」というわけである。そこには患者の自己決定権を尊重しようという態度はないであろう。今、左派がもとめているパターナリズムな医師、患者が安楽死を求めても「そんなバカなことをいうもんじゃありません。」と言ってひたすら延命作業に勤しむ医師とミラーイメージを形成しているわけである。

ではどういう医師が望ましいのだろうか。まず、ヒトには寿命があって、いくら望んでも永遠に生きられる訳ではないという常識を知っている必要がある。その常識ではまあ年老いたものから順番に死んでゆくことは当然であり、そのことを特別に悲しむ必要はないということになるだろう。

その上でなぜ人は生きなければならないのかという意味は医学は提供できないであろう。医学は人の生き死にを司ることはあるが、死んでいなければ生きているわけである。「まだ死にたくないんだ、何とかしろ」と言われればなんとか可能な限り延命処置を施すことはできるだろう。それで生きるか死ぬかは本人次第である。「もう死にたいんだ殺してくれ」と言われれば、法律を度外視すれば生命活動を不可逆的に停止する処置は可能であろう。けれども生きるか死ぬかどちらかを選ぶのは医療ではなく本人である。

患者の自己決定権が尊重される世界では医療は前景ではなく背景である。医師の中にもカウンセリングマインドを持つものがいるだろうから、患者の自己決定権について相談に乗れないわけではないだろうが、最終的に生きるか死ぬかを判断するのは本人である。

本人に生きる意味を見出させるのは本人自身でなければ、家族や周囲、社会的関係であろう。社会が病人に死を強制するなどというのは社会が悪いのであって、それを改善するのは社会の成員の責任であろう。この社会は我々の社会であるのだからやれ誰が悪い、と言って他人に責任転嫁するのは単なる逃げに過ぎない。

自分たちで社会を変えて、多くの人々、病者も老人も含めてが豊かな人生を送れるようにするためには我々一人ひとりの努力が必要であるということだろう。

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