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10日間の印度雑観

10日間、インドを旅しました。

まだ耳に、クラクション音と犬の鳴き声が残ってる。写真を眺めるともうすでに懐かしいけれど、現場はいつもカオス。そんな旅の道中にいくらか書き留めていたので、ここに。

デリーから飛行機で1時間。デリーの客引きに疲れていた私たちにとって、ジャイサルメールは良い町だった。ただ、少しの寂しさが入り交じっていた。寄って声を掛けてくる土産物のおじさんたちも、快く迎えてくれたゲストハウスのパダムも、「写真撮るなら10ルピー、あんた達には安いでしょ?」と笑えないジョークをかますレストランのオーナーも。どこか寂しい表情を時折見せた。女の人はみんな家にいるらしく、出会うのはおじさんばかり。

考え事をしたいならラクダの上がおすすめ。動きゆく景色、でもほとんど人の歩みと変わらない速度。それでいて上下に揺れる不安定さがあちこちに心をゆらめかせる。14歳の少年はあまり笑わない。「彼は仕事でやっているのではなく、行きたいと言ったから今日呼んだ」のだと、ラクダ使いのおじさんは説明した。砂漠は風が強く、夜は寒い。まさかの砂漠で野宿。2月でよかった。

パダムは、インド人が嫌いだと言った。ずるくて嫌だと言った。日本に行きたいと言った。日本はずるくないのだろうか。優しいのだろうか。インド人のしつこくせまるエネルギーはなんだろう。彼等はきっとしつこさの勝利しか知らない。

デリーに戻り、そこから夜行バスで12時間。ダラムサラで出会ったチベットの人たち。彼らと話せば話すほどインド人とのコントラストが勝手に生まれてしまって悔しい。怖い場所に行けば行くほど、優しさが際立つように。

にっこりと笑うその笑顔も、冷たいねと言って私の手を撫でてくる仕草も、どれもがうれしい。お坊さんが街中に溶け込んでいることで、温かみのある触れ合いが保たれているような気がする。彼らはただチャイをすすっているわけではないのだろうと思う(そう見える程にみんなチャイ飲んでる)。

チベットの人たちはきっとまた自分の国を持ちたいだろうと思わずにはいられない。

最後の最後に強烈すぎた、アグラへの道のり。リキシャの交渉で250ルピーから130ルピーにするも、ニューデリーで偽旅行会社に引きづられ、目が笑っていないおじさんとデスク越しに相対する。どこに行っても客引きが親切を語り、お金を求める。それはお金がものを言う社会だということ。優しさが弱さだという価値観で生きているということ。そういう社会において、賢い人は学力がお金への近道であることを知っている気がする。その中で豊かな価値観を得るのだと思う。無学な人々の行先に私たちのような「弱くて優しいアジア人」が狙われていて、それはもう合理的で仕方ない。

だからこそ、愉快な微笑みをたたえた人がいることがうれしい。夜行バスの休憩所でチャイをくれたにいちゃんや、騙された後に拾ってくれたリキシャのおじいちゃん。このような社会の中で、ちゃんと愉快に強く生きている人がいて、その人たちからエネルギーをもらいたい。

インドで感じた色々な不思議を、藤原新也の印度放浪を読みながら思い出している。

たとえば、五千年も同じ土地を耕し続けている農家の主婦、彼女たちはよく大口を開けてケタケタ笑う。そして怒る。あらゆるケースを省みるに、それは不思議と感情の程度に並行していない場合が多い。彼らの中には、喜怒哀楽という人間の生活に最も縁の深い情操が、まるで自然物の単位でもあるかのように居坐っている。

感情の表現は、だから文明人の人のそれのように個的ではない。様式なのである。

彼らは様式が持っているだけの大きさの自己表現をする。しかし、それ以外のもの、個人的情緒……それは弱いのである。それはつまり荒れ地の上にあって、生きて行かないのである。

客引きの彼らが怒ったり笑ったりするのは、その様式に当てはめないと生きていけないからであって、個人的な感情ではない。脂の乗ったおじさんたちは、みなみな、わたしたちが微笑みかけるから微笑むだけであって、微笑みたくなるという感情を知らないのではないかと思った。プラットフォームで私たちが無自覚なままに助けてくれた挙句に100ルピーをせがんできた啞の青年や、道ゆく道で出会う物乞いの子供たち。彼らが困った顔や泣きそうな顔をするのも一種の様式であって、誤解を恐れずに言えば、自然の産物として捉えるのが正しい気がした。それに対面した時の心の持ち用はまだわからない。

わたしは10日間という旅をどうやってするべきか知った。それは、まず友達を訪ね、その友達の友達を紹介してもらい、さらにその友達を紹介してもらうことだろう。よく寝て、あてもなく街を歩き、狭い路地を登っていくことだろう。そこに彼らの精神性が見えるのであって、そうでなければ観光客から見える世界で終わってしまう。

そういう意味で、インド人の情緒には触れられなかったのかもしれない。反対にチベット人の心遣いをよく知った。彼らは、ダライ・ラマの言葉が精神に宿っていて、それを実践しているようだった。

カオスで、不思議で、とても濃い10日間に。五感がまだ取り残されている感じがしているよ。

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