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14.南山のラストエンペラー~他魯毎の墓(tarumai)~

  糸満市を歩いた。漁港として有名な町だが観光スポットというほど人が多いわけではない。まして、歴史的には琉球の三山鼎立時代の南山王、他魯毎(たるまい)の墓があることはほとんど知られていない。それだけに訪れる価値は充分にありそうだ。

山巓毛公園にある説明板

 まずは山巓毛(さんてぃんもー)公園に上り糸満市街を見渡すことにした。という漢字が難しい。てぃんと呼び、頂きという意味だそうだが、中国語の影響(というかそのものだ)をひしひしと感じる。以前に大規模な門中墓と濃厚な血縁関係(腹・ふく)が今なお続いているということを紹介した。町を歩く人物は少なく、墓の駐車場には交番所もあるが警察すら(偶然だろうが)不在であった。しかし目には見えないが魂の巨大な塊が生きている町だと感じた。話はそれるが、私の敬愛する作家、司馬遼太郎氏の『街道をゆく』で面白い一文が出てくる。司馬氏が町の古老?に聞いた話によると糸満は昔この港に漂流した英国人子孫の名前イーストマンからきているのだという。その当否は別として港町ならではの面白いエピソードではないか。

他魯毎の墓(東から)

 さて他魯毎の墓に向かおう。他魯毎は南山の王であったそうだが、本土の人間には全く無縁の人物である。現在の糸満を中心?に島尻地方を統一した按司(アジ、地方の有力豪族)であり南山王統最後の王であると言った方がインパクトがある。三山とは南山、中山、北山の三山のことをいうが要するに琉球群雄割拠の時代の話である。中山の尚巴志(本土の人間でも馴染みのある人物)によって滅ぼされ、南山のラストエンペラーになってしまった。 伝承では、尚巴志のもつ金屛風と南山城の下に流れる嘉手志川を交換したという。水の利用が禁じられた住民は反発、尚巴志に追い詰められ山巓毛に逃げ延びたが、結局自刃したそうだ。この話を真に受けると何とも物欲の強い人徳の無い王であったと思われるが、歴史はそのような一方通行の話ではないと思う。人の上に立つ王である他魯毎が金屏風欲しさに、生活の生命線である水の確保を放棄する様なことは常識的に考えられない。歴史は勝者の書き記す文章のみを信じるのではなく、敗者からの意図を考えることが必要だろう。

他魯毎王之墓(オブジェ感満載)

 他魯毎の墓をお参りした。白い綿菓子の様な何とも異様な墓である。墓の左右には腹門中之墓が併設されている。墓の中から琉球石灰岩製の石厨子が発見されていること、近くの腹門中墓(根人墓)から朱塗片(朱塗りの板厨子)や金具等が出土しており16世紀代とのことだ。さらに板葺きの木槨が立てられたと思われる礎石もあり、通常の按司クラスでない王権レベルの遺構が発見されている。それはまさに運天港を見下ろす「百按司墓」であり牧港を見下ろす「浦添ようどれ」など限られた者しか持ち得なかったモノである。南山王のプライドが見えそうだ。

他魯毎の墓(掘込墓・屋根部分)

 写真は墓の側面から見た他魯毎の墓である。背後の崖を利用して墓室を造る掘込墓というものだ。白色でコーティングされているが、どうやら輪郭に塗られているようなので亀の甲羅部分の曲線にも見える。(用語では屋根回り=ヤージョーマーイという)つまり亀甲墓だった可能性があるということだが、後に前面や背面が現代風にアレンジされたのだろう。
南山王の最期は、時のスーパスター尚巴志によって滅ぼされたが、それまでは糸満の港を中心に大いに栄えていたことが想像できる。イメージや時代は違うが、戦国時代の武将織田信長(尚巴志)と松永弾正久秀(他魯毎)との覇権争いについ思いを重ね合わせてしまう、歴史ロマンに浸るのも楽しい。
 今日は沖縄の旧正月である。糸満漁港では漁船に大漁旗を立ててお祝いをするという。他魯毎の時代にも漁船で大いに賑わったであろうこの町を、また訪れたいと思った。

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