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コーヒーカップが割れたときのレビュー:徹底した実在感による物語体験が耽溺できる傑作

マーダーミステリーの最大の魅力の1つは「没入感」です。もう少しかみ砕くと「登場人物になりきって物語を体験する臨場感」です。
本作『コーヒーカップが割れたとき』はこの臨場感へ非常に真摯に取り組んだ作品であり、それによってどの作品よりもプレイヤーが最もキャラクターに寄り添って作品の世界、物語を体験することができる傑作に仕上がっています。
臨場感という面では『ランドルフ・ローレンスの追憶』や『遠き明日への子守唄』といった作品を超えたといっても決して過言ではありません。

没入感を盛り上げる方法はいくつもあります。たとえば作品の世界観に合わせたプレイスペース、キャラクターと同じ衣装、イラスト、小道具類や音楽などです。
これらはプレイヤーがケを離れ、ハレの場たる物語の世界へ入り込む一助になります。
この点でいうと本作でももちろん演出はありますが、ほかの作品と比べて特段に優れているわけではありません。むしろキャラクターシートはイラストなしの簡素なもので、店舗作品と比較すると演出はシンプルな部類です。

ではなぜ本作が没入感で他の追随を許さないのか。それは登場キャラクターの実在感に徹底してこだわっているからです。
『コーヒーカップが割れたとき』にはPC、NPCと何人ものキャラクターが登場します。その誰もがゲーム的な都合で存在していたり、行動するのではなく、そのキャラクターであればそう動くだろう、そう感じるだろうという納得感があります。

ポストモダンなエンターテイメントはデータベース消費に依拠していますが、本作ではデータベースは忌避されています。
作者が1つ1つ丹精を尽くして仕上げるという非常に泥臭い手法ではあるものの、それによって記号的なキャラクターは否定されています。
キャラクターシートの分量はかなり多い方ですが文章は平易で読みやすく、文章量を感じさせません。
作品自体は情動的ですが、キャラクターは直感や感性だけでなく、緻密な論理と理性の元に組み立てられています。智に働けば角が立ちますし、情に棹させば流されますが、すぐれたバランス感覚が発揮されています。
そのおかげで「もしかすると彼/彼女がどこかに実在しているかもしれない」というリアリティが醸成されています。

臨場感を最優先するため、「ゲーム的なもの」は徹底して(おそらくは意図的に)排除されています。
これはもちろん、ゲームとして成立していないという意味では毛頭なく、プレイヤーが「ゲームをプレイしている」と感じる場面が意識的に省かれているということです。
これによってプレイヤーとしての判断とキャラクター目線での判断という二重思考に陥ることなく、プレイヤーとしての思考とキャラクターの心情が重なり合った状態が持続します。
一方でゲーム的なものを排除することで、ほかの作品であればバランスを崩しかねない危険な要素も混入しています。
ところが本作では臨場感という屋台骨があるおかげでその要素も瑕疵ではなくなり、自然と受け入れることができます。
なおゲーム的なものが取り除かれているといっても、論理的な推理や個人戦といったマーダーミステリーの重要な要素はきちんと用意されています。

大事なのはプレイヤーの判断が最終的に尊重されることです。
二重思考に陥ることもなく、作者の独りよがりにもならず、プレイヤーたちの手で物語を紡げるのは、まさにマーダーミステリーの醍醐味です。
だからこそプレイ後には素晴らしい物語を主観的に体験した、やりきったという大きな満足感を得ることができます。

本作についていうべきことがあるとすれば、キャラクターとして物語を体験することに主眼が置かれているため、推理ゲームとしてのマーダーミステリーを楽しみたい人にはまったく向いていないということでしょう。
また現代社会を舞台にしてリアリティを追求しているが故に、センシティブな要素がある点は了承が必要です。芸術や文学は世相を切り取るものですし、マーダーミステリーにおいても忌避すべきではないものの、没入感が高くてリタイアしづらいという性質上、事前の心構えは必要です。
またこれは伸びしろと取るべきでしょうが、雰囲気づくりについては改良の余地がまだまだ残されています。先人の知恵を借りればもっともっと素晴らしい体験へ昇華できるでしょう。

最後に特筆すべきは、作者の作品愛が存分に感じられるということです。作品は作者の子供と言いますが、まさにそれが体現されています。
作者自身もたいへんな人格者で、この人だからこそ『コーヒーカップが割れたとき』という作品ができたのだろうという納得感がありましたし、マスタリングにも人柄の良さがにじみ出ていました。

マーダーミステリーの最大の魅力の1つは没入感です。これまでもそれを強調した作品はいくつもありました。
しかしその極致までたどり着いた作品というのは寡聞にして知らず、没入感を徹底的に追求したらどうなるかという1つの見本が『コーヒーカップが割れたとき』です。

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