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温泉行ったら仏師になっていた話

仏師とは

普段自己紹介する時、私は自分のことを「仏師(ぶっし)」と名乗っています。
仏師=仏を彫る人という意味です。

仏師にもきちんとした流派や師弟制度などがあり、自分は流派に属していないので名乗るのがおこがましい気持ちもあるのですが、自分のことを簡潔に説明しやすいので、仏師という名を使わせて貰っています。

温泉の土産物コーナーで仏と出会う

2012年冬、日本中に震災の傷跡がまだ色濃く残っていた頃、私は車で東京近郊の温泉に日帰りで行くことにハマっており、その日は五日市の「瀬音の湯」という所に行きました。

お湯からあがり、温泉に併設されているお土産コーナーをぶらぶらとのぞいてみました。
そこのお土産コーナーは中々充実していて、地元で作った野菜や民芸品のざぶとんなど、商品のバラエティに富んでいました。

地元の元気なおかあさんたちを思わせるような、綿のたっぷり詰まった色とりどりのざぶとんたちがぎゅうぎゅうと並んでいます。
そんなざぶとんたちに隠れるように、陳列棚の隅の方に20センチ程の高さの茶色いオブジェが見えました。
そのオブジェを何の気なしに手を取ったその時、私の仏人生がスタートしたのです。

当時の写真は無いので、近い時期に撮った別の写真を参考に載せます。

なんだこれは!
瀬音の湯のお土産コーナー、
バラエティに富みすぎ!

その異形の仏がどうしても気になり、お土産コーナーのレジの人に聞いた所、どうやら近所の元校長先生が我流で2000体ほど彫っているとのこと。えー!

興味を持った私は、他にどんな仏があるのか見てみたくて先生の連絡先をレジの人に教えてもらいました。普段は店の人に何かを尋ねることを極力したくない方なので、今思うとすごい行動力です。
電話した所、先生は自宅の離れを改装して仏のギャラリーを作っているというので、早速見学させてもらいに行きました。

黒いバナナを食べて仏師になる

先生のギャラリーより

先生の家にはいろんな形の仏が大小様々ありました。
若い頃お母さんが亡くなったのがきっかけで彫り始め、全て独学だそうです。いつも使っているという彫刻刀を見ると、私が小学生の頃に使っていた教材用のよしはる彫刻刀でした。

ひとしきり仏を見せてもらった後、先生は天日干しして黒くしぼんだ干しバナナを食べさせてくれました。「試しに作ってみたけどあまり上手くいかなかった」と言っていましたが、甘みがぎゅっと凝縮されている不思議な美味しさでした。また食べたいなあ。
私は当時マラソン大会によく出ていたので、「むむっ!この干しバナナは小さくて栄養価も高く、フルマラソンを走る時の携帯食に最高なのではないか・・・・」と考えていたことは覚えているのですが、それ以外に先生と交わした会話の記憶はなく、
気づけば翌週、家の押入れから見つけた小学生用のよしはる彫刻刀を持って五日市に行き、先生と一緒に異形の仏を彫っていました。

地元のテレビで放送された先生と彫り場

この時はもちろん仏師になろうとは全く思っておらず、先生に言われるがまま軽い気持ちで彫っただけだったのですが、これが思いの外上手く彫れてしまいました。

今でも初心を忘れないように手元に置いています

この仏様が与えてくれたビギナーズラックは私に大きな心境の変化をもたらしました。
寡黙な先生に「君は才能がある」と褒められ、試しに人に見せれば褒められ、調子に乗ってSNSにも載せたら今まで褒められたことがないくらいいろんな人から褒められました。

仏教、すごい

それまで私は何をやるにしても「変わったことしてるね・・・・」と言われがちでした。
仕事のマンガ図書館ですら、今でこそ全国に立派なマンガ専門図書館が沢山出来ましたが、当時は現代マンガ図書館しか無かったため
「アニメの図書館って何?
(マンガとアニメの区別がついていない人は結構多いです)
ネットカフェと何が違うの?」
と、あまり理解されませんでした。

ライフワークのサンバ(唐突ですが、サンバをやっています)に至っては、かれこれ25年程やっていますが、大人になった今でも親から
「まだあんなことやってるの?いい加減辞めなさいよ」
と言われる始末です。

でもこれは自業自得な部分もあるのです。
若い頃、数人のサンバ仲間と遊んでいたら唐突に「今から渋谷でサンバしようぜ!」ということになりました。

音楽とは唐突にプレイしたくなるものです。
ですがよく路上で行われている弾き語りなどと違い、私達のやる音楽はサンバなので、
言ってみれば飼い主と戯れているチワワを羨ましく思ったゴリラがチワワの真似をして人間に抱きつき大怪我をさせてしまうようなもので、
サンバは(騒音に厳しい日本においては)あまりカジュアルに楽しめる音楽ではないのです。
私達は若かった故にチワワとゴリラの区別がついていませんでした。
私達はゴリラだったのです。

夜中、シャッターが降りた渋谷西武前で、通りすがりのサラリーマンを巻き込んだりして楽しくサンバしていたのですが、たまたまその場にテレビのカメラが居合わせていてカメラを回しており、
数日後、その映像が
「暴走する無軌道な若者たち」
というタイトルで報道バラエティに流れました。

狂喜の形相でサンバの楽器を演奏している私のアップ姿を運悪くテレビでみてしまった母は驚き、激怒しました。
私が言うのも何ですが怒るのも当然です。親からしてみれば、渋谷で暴れる無軌道な若者にするためにここまで育てた訳ではないでしょう。
そんなこんなで、未だに我が家ではサンバの話を極力しないようにしています。

話が脱線してしまいました。

ただ好きなことをしているだけなのに、変わり者だと言われがちな人生だったので、仏像を彫ったことによる周囲のいつもと違う優しいリアクションに私は感動しました。

「仏教、すごい!」

自分の中ではマンガもサンバも仏像も、同列で変わらないものなのに、仏像は有難がられ、喜ばれ、尊敬の眼差しを頂くことすらあります。渋谷で暴走する無軌道な人間であることは今も変わりないのに、不思議なことです。

正直、なんて楽なんだと思いました。
世間体のいい趣味というのは社会に守られているような安心感があり、やっているだけで自己肯定感を上げてくれるものなんだ、ということを知った私は、その後も五日市に通い次々と仏を彫り上げていきました。

初めて人の為に仏を彫る

仏を彫り始めて程なくして、大きな事件が起きました。
現代マンガ図書館の創立者、内記稔夫館長が亡くなったのです。
2012年6月のことでした。

そこで私は初めて先生の与えてくれる課題作品としての仏像ではなく、自分のオリジナルで、人にあげるための仏像を彫りました。
オーソドックスな坐像で、通常仏像の手は何かしら印を結んでいるのですが、マンガを置けるように手はそっとそえるだけにしてあります。

アレンジもできます。



完成した仏を館長のご遺族に渡した時、館長の娘さんが仏を見て言いました。
「お父さんと同じ場所に穴が空いているね」

見ると、左胸に黒ずんだ木の節があります。
館長は確かに、タバコの吸い過ぎによる心臓からの大動脈破裂で倒れたのでした。

私が「へんな仏」を彫る理由

仏像彫刻は精神の健康にとてもいいです。
やっているだけで煙たがられるということも無いし、「こんなことをずっとやっていて何になるんだろう」と自分を見失いそうになることもありません。

しかし、館長に捧げる仏像を彫ったことで、自分の中に新たな気持ちが芽生えました。

仏像という人類の生んだ素晴らしい造形形式の上に、万人から理解されづらい、でも大切なものたちをインストールすれば、その本質が人の心に届きやすくなるのではないか?という閃きです。

そうして私はだんだんと「へんな仏」を彫り始めていきます。
大量に余ったダボ(棚板を固定する時に使う3センチくらいの棒)に彫ったり、
急激に減っていくタピオカ屋を偲んで巨大タピオカに彫ろうとしたり(失敗しました)、
そして今はまた原点に立ち返り、マンガ図書館のことを思いながらジャンプに仏を彫ろうとしています。

「仏さえ彫っていれば誰からも好意の目で見てもらえる」
という、まるで初めて女の子と付き合って少し恋愛に慣れた気になっている男子のような、彫仏初期の純粋な成功体験は、この数年後、ある大きな仏を彫った時に粉々に砕かれるのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

本当の所、生来から捻くれている自分には、仏像彫刻の清廉な世界は些か居心地が悪かったのかもしれません。
でもだからこそ、先生のような人生の師となる人を(温泉で)見つけることが出来たし、
他の人が彫ろうと思わない仏を彫れるのだと思っています。
そして、そのような「へんな仏」が流れ流れて誰かの心に届くことを願っています。


ここまで読んでいただきありがとうございました。
次回は、少年ジャンプ仏を彫るきっかけとなった現代マンガ図書館でのエピソードを書きます。
どうぞよろしくお願いいたします。

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