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日常のような公園で、非日常を。

幼いころから公園が好きだった。

幼稚園から小学校低学年くらいの頃、近所の友達とちかくの公園に行って遊んだ記憶がほんのり残っている。そこまで多くはないけれど、友達と遊んだ思い出のある公園がいくつかある。

いつからか、正月は家族で近くの公園にいき、羽子板のかわりにバドミントンをするのが風習になっていた。

大人になってから、公園は遊ぶところから休むところへと役割が変わったように思う。

滋賀県に引っ越してきてしばらく経ってから、暖かい陽気の日に外でご飯を食べたくなった。近くのパン屋さんでパンを買って、住宅街の真ん中にあるような小さな公園のブランコに腰かけて、ラジオを聴きながらパンを食べた。それだけでなんとなく、充実した休日だなぁと感じていた。

滋賀県草津市にある草津川跡地公園(de愛ひろば)では、毎月第2・4日曜に”くさつファーマーズマーケット”という催しが開かれる。
予定のない休日は、そこに行って誰かと話したり、なんとなく人を眺めたりするのが好きだ。

意図して設計された、屋根のない敷地。
楽しみ方は、つかう人たちに任されているみたいでわくわくする。
しかし公園らしい公園というものが、社会の移り変わりと共にだんだんと姿を変えているような気もする。

オープンパーク

先日、京都市にある船岡山公園でオープンパークが催された。
たまたま前日に予定がぽっかり空いたので、朝から行くことに。

いつもは何もない場所に、机と椅子とキッチンカー。
そして、「船岡山公園でやりたいこと」と書かれた模造紙。

日常にある公園が、ほんの少し非日常の装いになる。

毎朝6時半にこの公園でラジオ体操をしに来ているという3人組のおばあちゃんと一緒に、キッチンカーのカレーを食べた。

私はお孫さんとほぼ同世代だという。
公園のちかくにある、ハルハウスという場所をおすすめされた。
数十種類の材料からつくられた、お粥のお店らしい。

おばあちゃんたちは、スマホでいろんなものを見せてくれた。
毎日1万歩以上歩くという、歩数計のグラフ。
ベランダで育てているイチゴ。
趣味で生けたお花。

「あなたはまだまだ若いから、なんでもできるねぇ」と言われた。

私が80歳になったとき、どんな暮らしをしているだろう。
社会はどんなふうになっているだろう。
何を生きがいにしているだろう。

あと1か月くらいで24歳。
十二支を2周分生きた身体に見合うような大人になれているか不安だった。
あと何十年生きるか分からないけれど、死ぬ間際までもがき続けるのも悪くないかもしれない。


5歳くらいの子どもたちと遊んだ。子どもは問答無用に可愛い。

家の近くにも子どもは住んでいるけれど、彼等に近づくことは容易くない。公園で遊んでいる子どもたちに突然話しかける大人は危ない。

オープンパークという空間は、そこにいる誰に話しかけても良いという安心感があった。本来、公園ってこうあるべきだよなぁと、公園が公園らしくあることを意識することになった。

船岡山公園でやりたいことはなんですか?

あの空間でたった一つの問いだったけれど、その問いの周りを当事者がぐるぐる動きまわっていた。

公園らしい公園というものを考える、良い機会だった。
そして、何をしたわけでもなかったけれど、とても楽しい一日だった。

日常のような非日常

人生には非日常が必要。
非日常とは、日常にスパイスを与えてくれるものであり、人生の刺激になるものだと思う。

私が欲している非日常は、日常の上位互換のようなものかもしれない。
公園でたまたま会った人とたわいもないお喋りをしたり、子どもたちや犬と無邪気に遊んだり、家以外の場所でゆったり本を読んだり。

どれも日常の風景ともとれるが、いまの私にとっては立派な非日常だ。

これらの風景が日常になったとき、そのとき見える非日常の景色はどんなものなんだろう。もっと刺激的な人生になるのだろうか。

公園でたまたま会った子たちと遊ぶのが日常だったあの頃(そんなときのことはほぼ覚えていないが)、何に非日常を感じていたのだろう。
それとも全てが刺激的に思えていたんだろうか。

もっと刺激的な、まだ見ぬ非日常をもとめる気持ちがある一方で、いつまでも公園で本を読むときに心躍る大人でありたい、とも思う。

まだまだ長いであろうこの人生、どんな日常を過ごそうか。
どんな非日常に出会えるだろうか。

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