【書評】「空気」の研究【基礎教養部】

私は全く知らなかったが、昔からある名著らしい。なんとなく阿部謹也の評論を連想させるタイトルである。日本には社会はない、あるのは世間だけだ、というアレだ。国語の評論で絶対読まされるやつである(今もそうなのだろうか)。

世間とは何か、を読んだ当時のことを思い出すと、こんなに大雑把に比較なんかしていいのか、と感じた記憶がある。私は、日本は〇〇、一方海外は◯◯(この手の海外はほとんど欧米だけを指している)という比較、もしくは田舎は〇〇、一方都会は◯◯という種類の文化比較で、心から納得できた比較がない。常に頭によぎるのは、そんなに大雑把に比較できるのか、という疑問である。この疑問が払拭された比較は見たことがない。

それはさておくとしても、とりあえず空気の研究である。昔からある書なので、空気を読め、という文脈における「空気」の意味は、昔からあるという話になる。本書によると、それは大昔から古今東西に存在するらしい。筆者が戦中世代らしく、空気に支配されていた(と筆者が主張する)旧日本軍の話が多い。欧米では空気は存在するものとして、それを相対化することに命をかけるが、日本は空気が存在するのに存在しないものとして扱うため、無意識に空気を絶対化してしまうところに違いがあるようである。この手の比較論は、本当にそれほど単純化できるのか、という問題が頭にちらついて文章に集中できない。

空気に関して分析、考察、検討が丁寧に行われていることはよくわかったが、そもそも私は空気なるものにあまり興味がない。単に人間の全てが論理で語れるわけではない、というだけの話だと考える。非論理(だけではなく非言語化も含む)の領域にあるものを空気と呼ぶ。その空気に支配されるのはおかしいことなのか。別におかしいことではない。何もかも論理の俎上に載せられる、という理解の方がおかしい。おかしくないので、空気の研究と言われても、おかしくないことをなぜおかしいのかと問い続けるようにしか見えなかった。空気に場が支配されたとき、そこに水を差して空気を壊すということに対しての分析もなされていたが、そもそも空気の支配が悪いことであるという(悪いとまで断言はしていないが、内心そう思っている雰囲気は感じる)前提を共有できていないので、水を差すに対しての分析もあまり頭に入ってこなかった。

さて、ここからが本題である。個人的な興味は、空気の研究よりも、この手の比較文化論的な文章が、最近すっかり見られなくなったことにある。SNSの黎明期などは出羽守みたいな人たちもいたと思うが、それも風前の灯で、ましてやこの種の日米文化比較、日欧文化比較のような文章や書籍は、とんと見なくなった。自分に見えていないだけなのか。

最近では、日本ではなぜGAFAMが生まれないかというビジネス比較論はあるものの、文化比較は見た記憶もない。なぜかと考えると、もう昔ほど海外に興味が持てないのではないか、という結論に至る。憧れるのはやめましょう、と言われるまでもなく、憧れるのはやめているわけである。情報が入りすぎて、理解が進んだ結果、憧れもなくなる。海外への留学生が減っているという話も聞くが、それはそうだろう。知りすぎるのも問題だ。憧れは理解から最も遠い感情とは真実である。(思い込みだとしても)理解はある、憧れはない、となると、文化比較を読む動機もない。比較文化論が盛んだったのは、憧れの海の向こうを知りたかったというのが、真なる動機だったのではないか。

GAFAMがなぜ日本で生まれないのか的な話は、文化比較以上に、意味がある話だとは思えない。ある程度条件が似ているものを比較するならまだわかるが、何もかも条件が違うものを比較することに何か意味があるのだろうか。アメリカの横にアメリカ’みたいな国があり、諸条件がほとんど被っていて、片方にだけGAFAMが生まれているなら、比較する意味もあると思うのだが、日本と比べる意味がよくわからない。そもそもアメリカ以外にGAFAMなど生まれていないのだから、なぜ日本に生まれないのかという問いも不思議である。普通は条件が異なる場所で同じようなものが生み出せるとは考えないのではないか。

個人的には大人になって(というか30歳を超えてから)空気を読むようになった。なぜかといえば、この世には無意味な戦いが多いことを知ったからである。無駄な戦いよりも時間を使いたいことは多い。

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