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【世界考察16】努力とは何か

●努力とは何か

金。学歴、技能。地位。名誉。何でもいい。努力して手に入れたものがあるだろうか。私はない。何もない、恐ろしいほどにない。おおよそ努力とは無縁に生きている。しようと思ったこともい。強いられたこともない。したくないと思ったこともない。そういう運命に生きていると言えばいいのか。ただ好きなように生きているだけなのか。好きに生きることしかできないのか。努力を努力と感じないのか。それもわからない。

そもそも努力とは何なのか。努力はどこか苦しみの要素を感じさせる。たとえば恋愛ADVの感想を1万字書くことは、私にとっては息を吸うように、軽々と出来ることだが、人によっては凄まじい苦行だろう。ではそれは努力と呼ぶのか。苦しんでいることは確かだが、これは努力とは呼ばない。努力は苦しみに加えて社会的成功がセットになっている。まーた出てきたよ。社会的成功。人はどれだけこの概念に縛られているのか。世界を考察すると、あらゆる場面に顔を出してくる、面白くないやつである。人生を非常につまらなくする何かだ。

努力とは社会的成功を得るための苦行である。努力は一般的にいいものとされている。これは本当に正しいのか? いや、その問いかけは正確ではない。なぜ正しいものとされたのか、という問いかけの方がより本質的だ。なぜ努力は正しいとされたのか。それは人が努力を美しく感じるからだ。

なぜかはわからないが、我々は努力という美しい物語に感動するようにできている。ゆえに努力が正義とされるわけだが、なぜ美しく感じるのか。そこに理由を見いだせない。これは原理なのだろうか。どうも違う気がする。残念ながらまだ答えはない。努力は人間が生まれてからの普遍の原理ではなさそうだ。石器時代や縄文時代にそんなものあったのだろうか。ヒトがナラティブを求めだしたことと、努力の美しい物語はセットになっているのかもしれない。じゃあヒトはいつから物語るようになったのか。生存にたいして余裕が出来てきた頃だろうか。努力とは生存に対する余裕が生んだ物語なのだろうか。今日はだろうかばかりである。

個人的に努力は嫌いである。というか苦労が嫌いである。苦労も努力も人を曇らせる。そして不必要な執着を生む。人は必死で手に入れたものを必死で手放さないようにする。それは本当に正しい姿なのか。不幸の源泉のように思える。もっと自然体に生きられないのだろうか。それが許されることが天性なのだろうか。今回は疑問ばかりが残る回である。


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