調子はどうだいイカれた兄弟


 テレビ台が壊れてきた。テレビ台といってもAmazonの段ボールだが。段ボールは徐々に重さに耐えられなくなってきたようで、テレビは少しずつ画面側だけ沈み始めている。お辞儀をしているようだなと思いながら段ボールを変える気も起きずそのままになっている。まさにあるがままを受け入れている。

 あるがままを受け入れる。これは僕のモットーのひとつのようなものである。物事の真実を見つめ、あるがままを受け入れる。あるがままを受け入れ、泰然自若とする。あるいは、あるがままを受け入れる度量をもつ。そのようにありたいと思っている。しかし僕の心根はそれとは似て非なるものであることに落胆する。僕の心根は単なる怠惰と諦念、そして無関心だからだ。あるがままを受け入れるなどと口先だけで格好の良いことを言いながら、実際は面倒だからどうにもならないことは最初から考えないだけなのである。
 いつ頃からか忘れてしまったが、無気力だとよく指摘される。気力が全くないわけではないし、他人より責任感は強い方であると思うが、外からは無気力に見えるようだ。内面が外見を作るとすれば、内なる無気力が外に漏れているということだろうか。内なる無気力というのも変な言葉である。実際、気力が全くないわけではないと言いながら気力というのもよくわかっていない。気力が生命力や活力だとすれば確かにないと自分でも思う。何かをしようという気持ちがほとんどない。「何もしなくていいから家にいなさい」と社会から言われるのをもう10年程待っているくらいだ。待ちくたびれたので自分から何もしないを選択した。それはいいとして、要するに僕は「何もしたくないという怠惰な状態」を「あるがままを受け入れている状態」であると言い換えているだけなのだ。文字通り姑息な言い逃れである。
 そして無気力ゆえであるのか、諦めやすい。端から何もかも諦めている。どうにもならないことに抗う気力がない。それはもうそういうものなのだと始めから諦めている。豪雪地では圧倒的な雪を前に人の無力さを幼少期から見せつけられるために諦めやすく育ってしまうのだ、と高校の先生が言っていた。そんな研究があるのかどうか知らないが、現実に僕は諦めやすい人間に育ったので案外当たっているのかもしれないと思う。何が言いたいかといえば、僕は度量が大きいからあるがままを受け入れられるのではなく、最初から降伏しているからなんでも受け入れているだけなのだということだ。
 ここまで怠惰だの諦めやすいだの述べてきたが、まず第一の問題として関心がない。無関心だ。現代の病理だろうか。自分がそのような俗物的なものに罹っているとは思いたくないが、そう思うこと自体罹っている証左のようにも思う。僕は何にでも広く関心を持っているように見えてその実関心など何にもないのだと思う。結局なんでもどうでもいいのだ。もっと正確に言えば、自分に関わることがどうでもよいのだと思う。自分のことよりも非現実的な思考をする理想主義者に憤ることの方がよっぽど多い。自分には全く関係ないにも関わらずである。このままではワイドショーを眺めて司会と一緒に他人や社会への文句を垂れ流すだけの人間になってしまう。恐ろしい。そんな話はさておき。つまり僕は怠惰だからあるがままを受け入れるしかないし、諦めているからあるがままを受け入れているだけだが、そもそも前提として基本的に関心がないからあるがままを受け入れられるのである。

 ニートとなり半年。あるがままを受け入れようなどと言いながら労働から逃げてきた。収入はないが出ていくものは減らないため、生活は日を追って苦しくなっている。それなのにどこか自分の人生を他人事のように考えている自分。「ゲームをやりすぎると人生にもリセットボタンがあると勘違いする」と山田校長先生が言っていたのもあながち間違いではないのかもしれないなと思う。自殺する気はないが、未来のことはわからない。毎日ご飯のことを考えるので精一杯だ。とりあえず今日は生きて豚しゃぶサラダを食べる。ゴマダレだ。

自己分析してみたよって話。以上。

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