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【音楽ファンタジー】ミミルの旋律・後編

 どこか沈鬱な空気が漂っている王城の地下酒場とは比べものにならないほどの活気が、ここには渦巻いていた。
 狭い店内にはスラングが飛び交い、安酒と油まみれの皿が行き来する。意味を持たない鳴り物のリズムが心を高揚させ、人々の声は一層高くなった。
 十年以上他国との大きな戦はないが、かりそめの平和であることを誰もが知っている。この休戦状態はどこかで破られるだろう。大陸各地にある『波』の観測所が、『世界の危機』を予見していた。それは、大陸全体を巻き込んだ戦乱になると、学のない者でもわかっていた。
 きっかけは、国王の逝去かもしれない、王子同士の争いかもしれない。はたまた、他国の混乱に乗じてかもしれない。穏やかな日常の終わりがすぐ近くに迫っていると、皆が肌で感じていた。だからだろう、下町の酒場は享楽的な色を含んでいる。
 笑い声が溢れる狭い店内を見回し、ブラギはミミルの隣で酒杯を傾けた。
「城下に付き合ってくれって珍しい。どうしたんです?」
 ミミルがブラギを城下の酒場に誘ったことは、二、三度しかない。いつもは王城の地下にある城仕え専門の酒場で飲むことが多かった。地下酒場は落ち着いて飲めるが、バルドルとヘズの次期国王争いが苛烈になるにつれ、荒んだ雰囲気が強くなり足が遠のいていた。
 下町の酒場はミミルにとって遠い場所だったが、好奇心で足を運んでいたことはある。妹弟子のアリアンに頼まれて連れて行ったこともあった。しかし、回を重ねると、酒場の喧騒に疲弊して、その習慣はすぐに途絶えた。
 今回、下町まで来たのは、城下に行けば思い出せるかもしれない、と小さな期待を持ったからだ。この淀んだ気持ちに推進力を取り戻すことができる、と。
「すまないな」
「いえいえ、オレにはコッチの方が馴染みます」
 城下出身のブラギが美味い酒を見繕ってくれたおかげで、貴族が嗜む上物にも劣らない一品をミミルは口にしている。ブラギの弾くチェロの音色と同じ、なめらかで深みのある味わいだ。こうした気遣いを嫌味なくできることが、ブラギの長所だった。ときに主張が対立する楽師同士を繋ぐことができる。
「お前はどうして王城楽団に入ったんだ?」
「オレは成り上がりですよ、ミミルさんと反対で。まあ、今のおっかない雰囲気だと、なかなかどうして難しいですけど」
 ヘマしたら即斬首ってなりそうですから。
 ブラギは冗談のように語るが、それが完全に妄言だと思えない辺り、笑えない。
 そんな中で上流階級の娘に手を出せるブラギの胆力に、ミミルはひそかに感心している。エイルに愛想をつかされたのではないかと一喜一憂している自分には、到底できないことだと思っていた。

 耳障りな鳴り物が止み、店内に歓声が起きた。何事かと見渡すと、店の隅にヴァイオリンを持った女性楽師が立っている。彼女は弓を構えると、軽快なテンポで演奏を始めた。客から手拍子がわく。
「ミミルさんはああいうの、得意じゃないでしょ」
 雑音が混じる音色は、単純に不快だ。その雑味が好きな人間もいるのだろうが、ミミルは癇に障って聴くことができない。
 それでも、酒場の客は杯を片手に聴き惚れる。素晴らしいものだと恍惚の眼差しを向ける。
「……憧れて飛び出した奴は知ってるがな」
 ミミルが王城楽団に入団する際、アリアンは祝辞とともに別れを告げに来た。
「あたしは兄上と違う。王城楽師にはなれない。もう心が、決めたから」
 アリアンは、土の上で躍りながら音を奏で、手拍子や口笛とともにあることを望んだ。
 師は明言してこなかったが、アリアンは自分を凌ぐほどの才気あふれる奏者だ。悔しいが、ミミルはそれを認めている。一音一音が凛と際立ち、聴くもの全てを惹きつける。
 だが、彼女は貴族の地位も、王城楽団も蹴って、旅をする路地裏の楽師になることを選んだ。
 憤りはあった。まるで、アリアンが捨てた王城楽団という場所にしがみついているようで、惨めだった。同時に眩しくもあった。ミミルにはできない選択だ。アリアンは見つけてしまったのだ。何物にも代えられない幸福を。

 それに比べてどうだ、とミミルは酒を喉に流しこむ。称賛、信頼、ある程度の満足。しかし、これが望んでいた場所だろうか。こうなりたかったという姿だろうか。
 途端に、焦りと虚しさが去来する。音楽の道を邁進した先にある未来がこれか? まるで、周りの人間が愚かしい自分を嘲笑っているような気分になる。
「ミミルさんは、どうして王城楽師になったんです? フォールト家ならもっと別の生き方があったのに」
 許嫁に嫌われたと嘆くならば、素直に貴族の仕事をすればよかった。次男とはいえ、フォールト家の出だ。城での働き口は数多とある。
 ブラギは、ミミルが当然のようにそうしなかったとわかって、問いていた。
「それは……」
 跳ねる音とともに、酒場を支配していた曲が終わる。女性楽師が高く掲げた弓に向けて、酒場中から歓声と拍手を送られた。
 女性楽師は、嬉しそうに一礼をして、再びヴァイオリンを構えた。一番太い一の弦を、ささくれだった弓がなぞる。
 低く、長い音から始まる。
 ミミルは最初の音で、その曲が何かわかった。
『蒼き丘に栄えあり』。このウアルティーナ王国の創立神話を語ったものだ。
 曲を認識した途端、全身に鳥肌が立った。それと同時に、怒りが脳を焼く。
 あの日、ミミルの魂に刻まれた音。
 それは、雑音を含んだ『これ』ではない。こんなもの、足元にも及ばない。
 体の核すら掴むような、あの音。空気に満ち、世界を変える音。
「子どもの頃、ある楽師が王城に呼ばれたんだ」
 ミミルは杯の中の水面を見つめる。ここにはいない誰かの影を、そこに探した。

 ミミルがまだ七歳の頃だろうか。もう十五年以上も昔だ。
 当時のミミルは、兄と一緒に父に連れられ、王城に登ることがあった。城の学者に直接学問を教わり、騎士に剣術を指導され、同じ貴族の子息たちとこれからの王国について議論した。
 あれは、国王が催した宴での出来事だ。当時の王――現王の父である先々王――が、一人の楽師を招き入れたのだ。
 楽師の顔はもう憶えていない。男か女かも、老人か若者かも。朱塗りの竪琴(キタラ)を胸に抱え、ボロのような外套を纏った楽師だった。
 皆が眉をひそめた。当然だ。場違いにも程がある。国王の賓客でなければ、斬り殺されても文句は言えない。幼いミミルも、汚らしい楽師の登場に口を曲げた。ああ、美しい模様の絨毯が汚れてしまう、と傲慢にも思っていた。
「その楽師が弦を弾いた瞬間、その場の空気が一変した」
 キタラの弦を楽師が弾いた瞬間、その音が広間の空気に満ちた瞬間、視界が変わった。
 そこは、遥か古の丘、乾いた風が吹き荒ぶ痩せた大地だ。
 楽師の曲『蒼き丘に栄えあり』が、まるで自分の記憶のように鮮明に形を成す。
 ウアルティーナ王国初代国王が、荒涼とした大地を訪れた時のことが見える。彼は天女の導きにより、この枯草ばかりの丘に国をつくった。鍬で畑を耕し、石を積んで城壁を築いた。夜の闇にも灯りが浮かぶ、モンスターに恐れることなく眠れる場所。彼の元に多くの人間が集まり、知恵や武力を授けた。
 しかし、人間に加担したことを怒った空神は天女を罰し、殺してしまう。王が彼女の死に涙すると、天女の亡骸は赤子へと変じたという。広く知れ渡る伝説では、王は後にその赤子を娶り、ウアルティーナ王家の血が始まった。
 ミミルはそれを『見た』。王国の軌跡を、空神の怒りを、王の悲しみと愛を。生きているそのままの姿を。

「光景が目の前に迫り、音の一つ一つが全身を支配して、ふるえた。素晴らしいなんて言葉では表現できない、神の域の演奏だった」
 この感覚を、今でも探している。今のミミルには到底できない神業だ。
 王城楽団は、ただサロンの空気をつくるだけ。邪魔にならず、しかし貴族たちの会話を盛り立てる。気持ちよく駆け引きをするための装置だ。あの楽師ほど深い感銘を与えるだけの演奏は、できない。求められていない。やらなくていいことは、してはいけないことだ。
 それでも、ミミルはあの時の感動を忘れられなかった。楽師の顔も、声も、ぼんやりとしか記憶にいないのに、奏でた音だけは今も生々しく思い起こすことができる。音だけではない。見た景色、抱いた感情、全身をうちふるわせた幸福感。
 宴の後、ミミルはキタラを習いたいと両親に頼んだ。しかし、キタラは旅の楽師が扱う卑賎なものだと了承は得られず、貴族の習い事にもなっているヴァイオリンを弾くことになった。落胆はあったが、今ではこの楽器こそが天職だと思える。
 あんな存在になりたい。誰も自分を見てくれなくていい、憶えてくれなくていい。「ただ、あの人のような演奏をしてみたい。……景色をつくる、見せる、それだけをつきつめて……」
 こんなにも焦がれている、とミミルは目頭が熱くなった。キタラが奏でた音に焦がれている。美しい風景に焦がれている。音楽に、焦がれている。王族や貴族からの賛辞も、楽団員や依頼主からの信頼も、霞んでしまうほどの激情。「まだ何もできてない、見つけてない。大好きなんだ」
「――ミミルさん?」
 ブラギの声が耳の中で反響する。ブラギ? ああ、確か隣に……隣に?
 ふっ、と少年時代に見ていたウアルティーナの風景が、揺らいだ。ミミルの視界が、暗い。
「ミミルさーん?」
 大丈夫だ、そんなに酔っていない。
 そう告げようとして、ミミルの時間がとまった。
 ゆっくり、ゆっくりと時間が進む。
 あの時。
 あの楽師の音楽に触れた時、隣に立っていた少女の顔を思い出した。自分と同じ、至高の音に驚嘆し、高揚して輝く瞳。
 ああ、エイルも『見た』んだ。そう、すぐにわかった。秘密を共有したみたいに、不思議な一体感と愛おしさがこみ上げる。
 だから、受け入れてくれる。これから叫ぶ大言壮語な夢を。
 ミミルはエイルの手を取った。手を取って、そして――

「エイル! この間は本当にすまなかった! それでも、俺は王城楽団にいたい! 楽師でいたい! もっと素晴らしい音楽を奏でられるようになりたい!」
 ゆっくりと動き出した時間の中で、ミミルは地面に額をつけていた。冷たく硬い石畳が膝と掌を押し返す。
 何故? そんなことは決まっている。
 いま、この想いを口にしないという選択肢はないからだ。朱塗りのキタラの音色が、景色が、時をこえてミミルの停滞していた熱意を再燃させた。
 だから、謝らなければならない。将来の地位も権威も捨てて、なお楽師でありたいと願った。利己的で、甘ったれた願望だ。
 石畳いっぱいの視界に、靴が映った。男物の革靴だ。
「ミミルさん! ご近所さんに迷惑ですから!」
 ブラギの声だ。どうして奴がここにいるのか。ミミルはそれを思い出せないが、今は些細なことだった。ブラギという存在が、今はとても小さく遠ざかっていく。
「いつも怒らせてしまって、すまない! 楽師の俺が不愉快なら、離縁してもらって構わない!」
 普段は感じるであろう羞恥はどこかへ消えて、ただエイルにだけは伝えたい言葉を叫ぶ。
 屋敷の前では召使いがおろおろと狼狽していたが、とうとう扉からエイルが出てきた。すでに就寝の仕度をしていたのだろう。簡素な寝衣に上着を羽織っている。
 エイルの瞳がミミルを捉えたのがわかった。今日は不機嫌ではないが、困惑した眉が大きく引きつっている。
「わかりましたから! わかりましたから、あまり大声で叫ばないでください!」
「他の道もあったかもしれない! それでも、俺は音楽と生きたい! 愛しているんだ!」
「わかってます! 愛する音楽と生きてください! ですから、もう……」
 ため息をついたエイルが、ミミルの後ろにいる人間に声をかけた。ミミルはそれが誰か、もう忘れていた。
「貴方、ありがとう。家まで遠いから、今日はこちらで引き取ります。悪いけど、中まで運んでもらえますか」
 その何者かに体を引っぱられて、ミミルは石畳から引き剥がされる。胃に浮遊感をおぼえ、これ以上想いを口にすることはできなかった。赤ん坊の時のように、一歩一歩たどたどしく屋敷の中へ進む。
 やがて、柔らかいベッドに転がされ、「ふう」とよく耳にする軽妙な嘆息が聞こえた。
「ではでは、これで。ミミルさん、あんま困らせちゃダメですよ」
 ミミルはゆっくりと重い瞼を上げた。
 エイルの屋敷にある客間か何かだろう。部屋が暗いのか、ミミルの視界が暗いのか、どんな状態なのかほとんどわからない。
 ベッドがわずかに傾いた。誰かが腰かけたのだ。
「本当、あの時から背ばかり大きくなって……」
 呆れを含んだ声が、ため息とともにミミルに届く。
「……何も変わらないのだから」
 撫でるように優しい声だった。
 何のことだ?
 思考を巡らせるため意識を頭の中に引きこむと、足を滑らせたように闇の底へ落ちた。

   ***

 翌日、楽団室で普段通りのブラギを見つけ、ミミルは歯切れ悪く昨夜のことを切り出した。
「ブラギ、昨日は……」
「あ、おはよう、ミミルさん。大丈夫ですか、二日酔い? あと喉やられてません?」
 あれだけ叫んだんだから、とからかわれて、ミミルは今すぐ舌を噛みちぎりたい衝動に駆られる。
 一夜明けて冷静な思考が戻ってくると、酔っ払った後の記憶は容易に引き出すことができた。酒場からエイルの屋敷へ赴き、石畳で土下座をしたことも。ブラギに世話をかけたことも、全て。
「死にたい……」
「いやいや、これしきのことで」
 ブラギは蹲るミミルを椅子まで引きずると、下世話な表情をして隣の席から詰め寄る。
「オレより何より、エイル殿はどうでした?」

 重い頭を首の上に座らせてベッドから起き上がると、ミミルは昨晩の醜態に嘔吐したくなりながら部屋を出た。女中に水をもらおうと思っていたところで、すでに仕度を整えたエイルと出くわす。
 昨日散々みっともない謝罪をして、さらに今日も「すまない」から入っていいものか、とミミルはエイルの顔を見つめた。うすい化粧が施された顔は、いつもの不機嫌で冷淡な表情ではない。清々しい朝にふさわしい、かすかに張りつめた穏やかな顔だった。
「……おはよう」
「おはようございます」
 咎めることも吐き捨てることもなく、平坦な挨拶が返ってくる。
 エイルが呼んだ女中に洗顔用の水やタオルをもらい、ミミルは身支度を整える。エイルはいつから敬語になったのだろう、と先程の声を思い出して考えた。子どもの頃は違った。十代の頃だろうか。ミミルの母親も父に敬語をつかっていたから、それと重なって大人になったと感じていた。年月を経て、それは許嫁だからではなく、単純によそよそしいからではないか、と疑うようになったが。
 用意された朝食を向き合って口にすると、ミミルは面映ゆい気持ちになる。それとは反対に、エイルはまるで日常のようにてきぱきと果物を頬張っていた。ミミルがいてもいなくても、変わらない生活がそこにあるようだった。
 謝罪のタイミングがわからないまま無言の食事が終ろうとして、ミミルは慌てて口を開く。
「そのっ、昨日のことは、何と言っていいか……すまなかった」
「そう思われてるなら、もうしないでください」
 強い拒絶の言葉に、ミミルの喉が締まる。令嬢の背後に見た、逸らされた視線。隙間なく閉められたカーテン。それと同じだ。
「わかりきってることですから」
「何がだ?」
 疑問に思い、そして昨晩も似たような疑問を抱いたまま意識を失ったことをミミルは思い出す。気付けば声に出していた。
 エイルは虚を突かれたように大きな目で瞬きをして、
「なに、って……ようするに」
 もごもごと言い淀む。幼子のむずがりのような仕草に、ミミルは声を掛けるのを躊躇った。
 んん、と小さく咳払いをして、エイルは冷えた茶をぐっと飲んだ。涼やかな声で、はっきりと告げる。
「ミミルがそういう人だということが、です」
 会話はその言葉で終わった。ミミルは要領を得ないまま、席を立ったエイルを見送って急いで食事を済ませた。
 その後、一緒に王城まで連れ立って来たが、一言も話をしていない。

「ほらほらー! それ絶対離縁されないやつー!」
 浮かれるブラギの予想を、ミミルはどうにも飲みこめない。
「そうだろうか」
「そうだろうですよー! はいはい、朝からごちそうさま!」
 甘いひと時とでも言うようにブラギはにやついているが、ミミルには冷えきった夫婦の食卓のように映った。また呆れられてしまった、と傷ついているミミルに、ブラギは苦味の強い水出し茶を勧める。
「言葉足らずなだけです」
「……あれだけ叫んでか?」
 昨晩の記憶が瞬間、脳裏に過ぎる。熱いものがこみ上げて、声を出さずにはいられなかった。
 エイルにはいつも謝っている。謝ってもなお、楽師であることをやめようなどと思わないのだから、たちが悪い男だろう。
「それでも、言ってしまったからな」
 エイルに宣言してしまった。ずっと音楽を愛し続けると。挑み、究め、この先の未来も捧げると。
 朱塗りのキタラで奏でられた音とは程遠くても、それに追いつきたい、追い越したいとミミルの胸には常に炎が灯っている。
 この王城での責務。この王城での限界。
 それらが前に横たわっているとしても、引きつれて、進んでいくしかない。
 醜く蹲りながら、一番大切な人に言い放ってしまったのだから、取り消すなんて格好悪いことはできなかった。
「ブラギ」
「はい」
「……それはそれとして、昨日の詫びは、何を持って行ったらいいと思う?」
「ミミルさんは詫びるより先にすることがあると思うんですよ、オレは」
 ブラギは色男然と鼻を持ち上げて、ミミルに笑いかけた。

 今日も、王はミミルの旋律を前に、第二楽章まで保たなかった。
 臣下の前では絶対に見せない力の抜けた体勢で寝椅子に転がっている。上がったままの眉は、睡眠の心地よさを物語っていた。
 ミミルの心は穏やかだった。毎日のことだ。期待はしていない。
 それでも、毎日お呼びはかかる。王に認められた演奏だ。
 それに――
 無礼千万とわかっていながら、ミミルは国王を起こしてみたくなった。今の自分の限界が、王を眠りに誘うことならば、いつか王に目も覚めるような感動を届けたい。腹の底でひそかに、それを目標にすると決めていた。
 自分にできることをすること。したいことができるように努めること。できないからと嘆くばかりではなく、どんな形ならばできるようになるか考えること。
 耳障りのいいだけのサロンの音楽、ミミルとの距離に悲しそうに歪んだバルドルの瞳、諦めたように逸らされるエイルの横顔。
 ミミルがキタラの音色を奏でられれば、解決するだろうか。そうではない。そうではないから、探している。塵ほどの光を追い求めるだけで、噛み合わない歯車も淀んだ水も、神々の与えた試練のように感じた。
 王が眠りに落ちようと、決して手を抜いてはならない。あの楽師の足元にも及ばないとしても、今の最上の演奏をすることが、ミミルの矜持だった。この音が満ちた空気を揺りかごに、少しでも疲労を癒してもらいたいと思う。

 第三楽章に入る。ラッパを思わせる高らかな音、アルペジオは凱旋する軍隊への喝采だ。
「はっ!」
 王から突如発せられた悲鳴に、ミミルは全身を跳ねさせて弓を止めた。
 国王は大きく目を見開き、横たわったまま固まっている。沈黙が流れた。演奏を止めてしまったことを咎められる、とミミルは姿勢を正し俯く。
「ミミル」
 国王は寝椅子からいそいそと起き上がり、縮こまっているミミルの腕を掴んだ。
 ミミルが視線をおそるおそる上げていくと、少年のように顔を輝かせた王が微笑んでいる。
「よい案が浮かんだ! でかしたぞ!」
「は、あ、それは光栄にございます……?」
 一体何のことか、と首を傾げたい思いに駆られながら、ミミルは国王の調子に合わせる。
 王は演奏が止まったことなど気にもせず、絨毯の上をぐるぐると歩いた。
「これでテラプカもスノーゼルも、和平条約にのってくるかもしれん」
 休戦状態にある隣国の名前に、ミミルは瞠目した。各地の観測所が出した『世界の危機』が迫っているという予見に、戦争が始まるのではないかと王城の人間だけではなく街の住民も不安がっていた。
 王は、今の状況で隣国と和平を結ぼうとしている。皆が心の隅で怯えている危機を、回避しようと試みている。
 呆けているミミルは、王の言動についていくことができなかった。王国トップが語る政治の話は、楽師には過ぎた言葉だ。
 それに……。
 でかした? 何が?
 表情に出ていたのだろう。王はミミルに悪戯っぽく口をつり上げた。
「お前の演奏は素晴らしい。その音を聴いていると、清らな水が頭の中を洗い流すのだ。邪なものや愚かしいものを取り除き、水底の小さな宝石を見つけさせてくれる」
 それが、『これ』だ。王は慌ただしく両手を振り、体から湧いた妙案を形にしようと紙とペンを探しだす。
 ミミルは、ただ眠っていたとばかり思っていた自分を恥じた。
 頬が熱くなる。羞恥だけではない。
 体の中がふるえた。これ以上の言葉を、ミミルは知らない。
 おそらく、国王はミミルの音色に『見て』いたのだろう。宝石にたとえた、国や世界の未来の姿を。今日だけは思い上がらせてくれ、とミミルは謙虚に否定しようとする自分を説き伏せる。
 この技術は、邁進は、熱情は、決して無意味ではなかった。楽師であることは、求めていた音色は、目指す方向を誤っていなかった。
「演奏の途中ですまんが、これから書簡にまとめるので今日はもう下がるがいい」
 病床などどこへやら、という光る双眸で、国王は執務に向いていない小さなテーブルの上で文字を書きつける。
 後で女官に上着を持ってくるよう伝えなければ、とミミルは深く頭を下げ、跪く。
「かしこまりました」
「明日、また頼むぞ」
 毎日の命が、昨日までとは違う色に映った。
 空気に音を満たす。ただ、それだけしか望まれていない、してはいけない。その考えを、短い呼吸とともに吐き出した。
 王城の楽師の限界を決めていたのは、ミミル自身だ。
「……至上の歓びでございます」
 ああ、だからか、とミミルはおかしくなって、心の中でふきだした。
 今さら、エイルに告げる「すまない」以外の言葉が、次々と出てきた。

(了)

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