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【音楽ファンタジー】ミミルの旋律・前編

 音は空気を震わせて、初めて人々の耳に届くという。
 幼い頃、ヴァイオリンの師にそう教えられた。
 世の理を知った時の新鮮な驚きを、ミミルは今も胸に留めている。
 自分が弦を弾くと、空気にのって誰かに伝わる。空気に音色が満ち、皆は息を吸うように自分の音を取りこむ。
 我ながら捻くれた支配欲と自己顕示欲だ、とミミルは自分を慰めた。
 弓が弦を引っ掻くその行為の意味を、位置づけて、飲みこんで、ようやく尊厳を保っている。
 三人の楽団員に目配せをする。はいはい、とでも言うような視線に文句をつけたくなるが、ミミルも心のどこかで「はいはい」と思っていることは否めない。
「バルドル様、この間の剣舞は見事でございました」
「ええ、本当に。殿下の逞しさは剣神が降臨したかのようでしたわ」
「それに比べるとヘズ様は少々覇気に欠けるご様子。やはり王は覇を民に示せるお方でないと……」
 嫌でも耳に入る雑音に、ミミルは強い感情を抱かないよう努めている。
 しかし、全く遮断することは得策ではない。観客――そう呼べるのかは定かではないが――の感情の機微や話の流れに配慮を怠ると、空気を支配することはできない。
 今日のフィーカ卿のサロンは、現王の息子・バルドルを呼んで武術の話で盛り上がっていた。もちろんそれは建前で、次期国王候補であるバルドルに媚びと恩を売り、体をすり寄せ、色をのせた見識を吹きこむためのものだ。自分は味方だと示し、同じく次期国王候補であるヘズを貶め、笑顔の足元で仲間同士蹴落とし合いをしている。
 胃の奥からこみ上げてくる泥を飲み下し、ミミルは意識を手先と耳に集中した。他の三つの音を聴き、自分の音とともに束ね、導いていく。
 サロンに呼ばれた楽団が行うことは、最上の演奏をこの広間に満たすこと。たとえ、化かし合いだけの集いであっても、まともに音楽をたのしむ人間がいないのだとしても。
 それが、王城楽団に所属するミミルの、王城での責務だった。

 バルドルが次の予定で退席しなくてはならないタイミングで、サロンはお開きになった。
 ミミルたち楽団員は、閉会とともに礼をして部屋を辞する。ここで、主催者が労いの言葉や次回の依頼をすることもあるが、フィーカ卿は他の貴族との手札遊びに夢中のようだった。ミミルたちは楽器を手に、いそいそと扉を潜る。
 廊下へ出ると、何の匂いもしない空気が肺に広がった。仕事終わりには心地いい。
「ねえ、貴方」
 背後から甲高い声に呼ばれ、ミミルは振り返る。声の主と目が合うと、その顔に慌てて傅いた。
 先程バルドルにすり寄っていたフィーカ卿の令嬢が立っていたからだ。
 他の楽団員もミミルに倣い膝を折る。
「ああ、いいのよ、貴方たちは行きなさいな」
 令嬢は他の三人に手を振ると、楽団員たちはミミルに小さく目配せして去っていった。「ご武運を」とでも言うようだ。
 表の廊下を使う文官たちは、令嬢に一度礼をしてから足早に通り抜けていく。ああ、また貴族の娘が男を引っかけているのか、と誰もが辟易して関わらないよう去っていくのだ。
「はい、高貴なお方」
 ミミルも呼び止められるのは初めてではない。楽師は職業地位こそ低いが、芸術性や専門性もあり異性が寄ってくることは事実だった。城下の楽師がサロンで曲を披露し、お抱えという名の情夫になることもある。自分のように地味で固い人間に寄ることに、ミミルは理解が及ばなかったが。立場上、身綺麗にしているだけで、華がある造形ではない。二十五歳という年齢は成熟しきってなければ、瑞々しさもない。背が高いことは密かに自慢だったが、騎士や兵士に比べたら貧相だった。
「素晴らしい旋律だったわ。あのヴァイオリンの、優しく、包みこむような音」
 床を見ていたミミルの視界に、絹の手袋をした細い指が映る。それは頬を撫で、耳の下を通って、ミミルの顎を強い力で持ち上げた。
 必然と、ミミルは令嬢を見上げる。
 彼女は柔らかそうな頬を赤く染めて、蠱惑的に微笑んだ。女の顔だ。
「わたくしのことも優しく包んでほしいのだけど」
 あ。
 と、ミミルが思ったのは、フィーカ卿令嬢の誘いが魅力的だったからでも何でもなく、視界に別の人物が映ったからだ。
 栗色の髪を丁寧に結い上げた、文官のローブを着たエイル。
 幼なじみであり、許嫁でもある女性だ。
 令嬢の肩越しに、明らかに目が合った。そして、すぐに逸らされた。
 重そうな書類を手に、エイルは廊下を進んでミミルの視界から消えてしまう。
「最悪だ」
「え?」
 ついミミルの口から零れてしまった言葉に、令嬢は眉をひそめる。聞き取れなかったのが救いだった。
「ちょっと、聞いてる?」
 顔を覗きこんでくる令嬢が、餌を求めて鳴き声を上げる動物のように映る。たとえば馬が何か喚いていてもわからないように、ミミルの耳に令嬢の声は言葉として入らない。
 それよりも、何よりも。
 ミミルは、ただただ、これからの未来を憂いた。

 その夜、王城からほど近いエイルの屋敷に寄ってみたが、ミミルは見事に門前払いにされた。
「お嬢様はお会いしたくないと」
 またですか、と召使いの老婆も呆れ顔だ。
 ふとエイルの部屋の窓を見上げても、分厚いカーテンが隙間なく閉じられていた。

   ***

「いやいや、エイル殿は優しいでしょ。オレは壁に飾ってる剣抜かれましたもん」
 翌日、陰鬱な顔で出勤したミミルを見て大声で笑ったのは、ブラギというチェロ弾きだ。城下の出で、王城楽団に入って四年ほど経つ。やや軽薄な印象だが、腕前はミミルもよく知っていた。チェロはブラギで、と楽団内からも依頼側からも多く指名が入る。王城勤めの女官や貴族と恋に落ち、破談になるたびに殺されそうになっている。それでいて王城で生き抜いているのだから、実力と運は本物だ。
「優しいものか。いつ離縁されるかわからないのに」
「貴族なのに楽師に成り下がった許嫁を見放してない辺り、まだまだ脈あると思いますよ」
 そうだろうか、とミミルは首を傾げる。
 ミミルの実家であるフォールト家は、王都近くの街道が集う都市を統治している。商人や農民、異国人入り混じる都市の均衡を維持し、物流面から国力に貢献している父は王城でもそれなりに高い地位だった。
 長男である兄が家督を継ぐことは決まっていたが、次男のミミルが楽師になると宣言した際は、それは怒られた。いわば、家のために何も献身しないと言ったようなものだ。王城お抱えである楽団は専門職ではあるが、城仕えの中でも地位は低い。貴族の子息が目指すものではなかった。
 エイルの屈託のない笑顔を、もう思い出せなくなってしまった。いつも不機嫌そうに顔をしかめて、冷めた視線をミミルに注ぐ。
 子どもの頃から明るい性格ではなかったが、もう少し穏やかで柔らかい雰囲気を持っていた気がする。摘んだ花を見せてくれた。面白かった本を貸してくれた。
「ミミル」
 と、どんな声で呼んでいただろう。どんな表情で、見つめてきただろう。頭の中で再現しようとすると、形になる前に靄がかかってしまう。そのうち、ミミルも思い起こすことを諦めてしまった。
 父親同士が学生からの旧友ということで、幼い頃にミミルとエイルは婚約をした。長い付き合いだ。ミミルはエイルとこのまま婚姻を結ぶことを嫌だと思わない。しかし、エイルは? 幼なじみとはいえ、将来の地位を捨てたも同然の男に嫁ぎたいと思うだろうか。
 ブラギの慰めは、ミミルから見るエイルとどうしても乖離する。
「文官(キャリア)で相手の地位に余裕があるからじゃないだろうか」
 エイルの父は地理学者として国土大臣の補佐をしている。何代も続く文官の名家だ。エイル自身も学問を修め、王城で働いている。事実を述べると、エイルの方が職業としての地位は上だった。
 王城には他の王侯貴族や騎士がいる。よほどミミルより嫁ぎ甲斐がある男たちだろう。
「何を考えているのやら」
 惰性というものがこの世にあるから、エイルも婚約解消に踏み出せないのかもしれない。それとも、道ならぬ相手がいることを隠すために、ミミルとの婚約を維持しているのだろうか。いや、エイルはそんな人間ではないが。
 思考の迷路に入りこんだミミルを見て、ブラギは強い力で肩を叩いた。
「まあまあ、ミミルさんは王城楽団で人気の楽師ですから。その辺、自信もって行こう! よっ、花形ヴァイオリン!」
 ほらほら、ブランチを彩りに行きますよ。ブラギは次の仕事の準備を始める。ミミルもヴァイオリンの調整と演奏プランの確認に移った。
 ブラギの言葉のとおり、ミミルは楽団でもよく声が掛かる楽師だ。誉れなことだった。
 だからこそ、毎日の憂鬱を実感するたび、噛み合わない歯車に苛立ちをおぼえた。

 伯爵夫人のブランチでの演奏が終わり、お礼にとごちそうになっていると、すでに昼時を随分と過ぎていた。次の予定のため、ミミルは足早に楽団室へ向かう。
「ミミル!」
 廊下の向かいから呼ばれた。大股で歩いてくるバルドルに、ミミルは慌てて傅いた。
 金色の髪と翡翠の瞳、高貴という言葉がそのまま人の形を成したような麗しさ。それがバルドルという王子だった。
「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」
「よせ、楽師が王族に媚びを売るな」
 楽師を自由と芸術の申し子のように言うが、そもそも王城楽団は国王に召し抱えられた存在だ。無理を仰る、とミミルは心中で呻くが、現王やバルドルが世辞だらけの文化をよく思わない性格だとも知っていた。
 昨日、サロンで遠巻きに見た表情とはまるで違う。借りてきた猫のように大人しかった姿から、人懐こい犬のような快活さへと戻っている。まだ成人したばかりで生命力にあふれた瞳がミミルを見つめた。
「楽師であると同時に、私はフォールト家の人間でもありますから」
「む、アリアンは友のように話すぞ」
 突然出てきた妹弟子の名前に、ミミルは言葉が詰まる。
 同じ師についていたアリアンは将軍家の娘で、バルドルと年が近いせいか友達のように接していた。
「地位が違います」
 堅苦しい挨拶を嫌うバルドルは、アリアンのように親しみを持って接する人間が好きなのだろう。自分には到底できない芸当だ。自分が「そうするもの」と認識したものから脱することができない。頭が固い、と言われればそれまでだが、他人と親しくするのは一つの才能だ。ミミルはぐずついた泥道を踏むような思いがした。
「そのことではなく! 昨日は満足に礼もできずすまなかった。とてもよい演奏だった」
「もったいなきお言葉にございます」
「いや、本当だ。柔らかくて、静かで、それでいてあたたかい! 心が落ち着く綺麗な曲だ」
 抽象的な表現が並ぶ。バルドルの感想はいつも大味だ。細かな箇所や音の響きではなく、全体を捉えている。
「ミミル。第二楽章のソロ、妃の憂いがよく表現されていた。音をわざと揺らしていただろう。圧巻の技術だった」
 これが玉座を争うヘズならば、ミミルの狙いを的確に汲み取って、賛辞を述べるのだ。
 王族を比べるなど不敬にも甚だしいが、やはりバルドルよりヘズの方が洞察力や知識は上だ。
 バルドルが音楽の機微もわからぬ粗忽者というわけではない。バルドルはバルドルなりに音楽に心をふるわせている。
「サロンは息が詰まるが、お前のヴァイオリンはその中で心を癒してくれる。また呼ぶ」
「身に余る光栄です」
 ミミルが賛美を受け入れ一礼すると、バルドルはわずかに目をすがめた。少し引っかかる。ミミルは瞬時に様々な憶測を並べ立てた。距離をとった言葉に対する孤独、ミミルの言を嘘ではないかと思う疑心……。
 考えたが、ミミルに真相はわからない。わかったのは、ミミルはバルドルが求めていたものを与えられなかったということだ。
 廊下の奥からやってきた女官が、バルドルの後ろで楚々と跪く。
「勉学の時間か。わかった」
 ではまた、と手を掲げて去っていくバルドルに首を垂れ、足音が聞こえなくなるとミミルは顔を上げた。
 王城楽団でも花形のヴァイオリンを弾くミミルは、多くの王侯貴族から称賛の言葉をかけられる。それに慣れて何も感じないわけではない。反対に、自分の技術を卑下することもない。それだけ努力はしてきたつもりだ。
 だが、栄誉や実力とは別の何かが圧倒的に欠落している。そんな不安に苛まれていた。できることが多ければ多いほど、できないことも多くなる。
「ああ、もう時間だ」
 ミミルはハッとして懐中時計を確認すると、楽器を取りに楽団室へと急いだ。

 国王付きの女官に案内され、ミミルは部屋へと入ることを許される。
 金で縁取られた窓、天井には空神の使いである白い鳥が描かれ、床には最上の羊毛で編まれた絨毯が広がる。目が眩む内装は何度足を運んでも慣れない。
 大きな窓の傍には銀の刺繍が施された寝椅子が設置され、そこに国王は座っていた。
 公の場では編まれている白銀の髪はゆるくまとめられ、深緑のマントを纏う体は締めつけの少ない平服を着ている。
 武人であった先王の兄に比べ、現王は頑健な体を持たず、今も病床に臥せりがちだ。
 その憩いの時間に呼ばれるようになった理由を、ミミル自身は知らない。ある日、国王陛下がお呼びです、と声をかけられ、その日からほとんど毎日、ミミルは国王のためだけにヴァイオリンを奏でている。
「おお、ミミル。よく来た」
「本日もお呼びいただき、ありがたき幸せにございます」
「世辞はいい。そうだな、今日は『月光のグウェーディ』を弾いてくれ」
 目を輝かせる国王からの指定に、ミミルはわずかに口の端を引き結んだ。
 曲を決めることに、一体どれだけの意味があるというのだろうか。
「御意に」
 胸に浮かんだ言葉を腹の底までぐっと押しこみ、ミミルはヴァイオリンを構える。
 寝椅子でくつろぎながら、国王はミミルの準備をじっと見つめていた。
 ゆっくりと三の弦に弓を滑らせる。半音の不穏な音色は、まるで暗い森を進むかのように先が見えない。
『月光のグウェーディ』は、巫女であるグウェーディが都で流行する疫病がおさまるよう、森に住む賢者を求めて旅をするという曲だ。
 夜の森、前方に見えるわずかな月明かりを頼りに歩くと、やがて美しい湖が見えてくる。柔らかな光を反射する水面に、グウェーディは旅の疲れから眠ってしまう場面だ。
 不躾にならないよう、ミミルは慎重に王の様子を窺った。
 そろそろ頃合いだ。
 やがて瞼が落ち、寝椅子に預けた体から力が抜けていく。
 すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
 それでも、ミミルは演奏をやめない。眠っている国王に少しでも届けばいいと思いながら、瞳を開けて見つめている姿を想像して、弓を滑らせる。
 音が、空気に満ちている。
 その中で、国王が安らかな気持ちで休息できるのならば、それは名誉なことではないか。
 誰かを誘惑し、夢中にさせることだけが音楽ではない。
 それこそが、ミミルの望んだ音楽のはずだった。息を吸うように取り入れ、浸透し、人を形づくるもの。

 最後の一音を寸分の狂いなくのばし、終わる。以上が『月光のグウェーディ』という曲、だった。
 部屋に広がった最後の音が小さく聴こえなくなると、そこには国王の寝息だけが残った。
 所望したヴァイオリンがやんでも、国王は瞳を開こうとしない。まるで幼子のように体を寝椅子に預け、眠りに身を委ねていた。
「陛下の御前での演奏、天上にも昇る想いでございました」
 起こさないように小さな声で礼を述べ、ミミルは国王の部屋を後にした。
 毎日これだ。
 あの部屋に呼ばれてから、国王が最後まで目を開けていたことはない。それどころか、第一楽章の序盤で『おねむ』になる。昼寝のためだけに演奏している。子守歌だ。眠りに入るための手段。退屈なものだと言われているようで、ミミルは演奏後、いつも自問自答してしまう。
 体調がよくない国王を少しでも力づけることができるのならば、ミミルは自分の演奏に誇りを持とうと思える。そうしていないと、一体何のために奏でているのかわからない。
 空気に満ち、当たり前に取りこむ音楽。
 ――本当に?
 楽師として恵まれた環境にいながら、ミミルはいつも疑問を持ち続けている。
 どこにもないものを、探している。

(続)

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