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優しさに触れたら、ふわっと心が軽くなる

小さな流産を経験している最中に、優しさに触れた。このことを書き留めておきたい。

私の場合の流産は、手術もなく、自然に任せて終わっていった。2週間ぐらい生理が続いた感じだったので、一般的にいう「流産」という言葉をあてはめるのは、重すぎる気がする。

でも、出血の量は明らかに多くて、普通でないことが自分の体に起こっていることは感じていた。あえていうなら「軽い流産をし続けているような感じ」だったが、未だに適当な言葉が見つかっていない。

意外と、長く続くんだな、というのが正直な感想で、いいことはほぼないから、早く終わってほしいなと思っていた。思えば、悲しみは、全部終わったあとからやってきたのだった。

この頃、うまく自己完結できなかったこともあって、無性に「人の話を聞くこと」を欲していた。

一人でいてもメソメソしてしまうから、心開ける友達と話してほっとした。

一人は、不妊治療の末、やっと子どもが生まれた友人。

一人は、3人の子どもを育てている友人。

気が紛れたし、なにより元気をもらえたから、二人にはとても感謝している。

一人目の友人は、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いて、駅まで迎えに来てくれた。会うのは5年ぶりくらいだったけれど、すっかりお母さんの顔をしていた。

家に招いてくれて、紅茶とケーキを食べながら話し込んだ。

部屋の中は、新生児がいる、というだけで生まれてしまう、穏やかな空気に満ちていた。窓の外には梅が咲いていて、時折、鳥が遊びに来ていた。この鳥は、最近になって、彼女を連れてくるようになったらしい。見ると、二羽の鳥が仲良さそうに飛び回っていた。

ーーこういうことに気づけてしまうくらいに、暇なんだよね、と、言って友人は笑った。

本棚の絵本をぱらぱらとめくったりしながら、ときどき赤ちゃんをあやしながら、友人の話を聞いた。仕事を辞めたときの気持ち。今、家族が直面してい状況。不妊治療のこと。そこにどんな葛藤があるのか、耳を傾けた。

不妊治療が終わって書類をもらうときには、待合室の患者さんに配慮して、人目を避けて静かにもらうこと。治療中の方々にとって、その書類は「卒業証書」に見えるようで、背中に視線を痛く感じたこと。その日は、裏口から出るように指示されたこと。

家族の状況は、とてつもなく大変だけど、その中に赤ちゃんが来たことで、流れが変わったこと。

聞きながら、ああ、これまで大変だったんだな、そして今も大変なんだな、とわかった。

すやすやと寝ている赤ちゃんがいた。赤ちゃんは、すべてをゼロにして、むしろプラスに変えてしまうくらいの明るさと生命力で、部屋の空気を支配していた。起き抜けの泣き声は、大人の意識を一瞬で奪う力強さがあって、部屋の中に鳴り響いた。

友人の辛さと幸せは、隣り合わせにあって、赤ちゃんのおかげで、幸せが勝っているんだと思った。

もう一人の友人とは、電話で話した。電話越しからは、3人の子どもたちの声がワーキャーと聞こえてきて、大変に賑やかだ。

片時も手を離せないって、こういうことを言うんだろうな、と私は呑気に考えていた。一方の友人は、元気いっぱいの煩さの中に居ながら、寝る間を惜しんで一人の時間を捻出しているようだった。

友人は、これからどのように仕事のキャリアを積んでいこうか、真剣に考えていた。「お母さん」としてではなく、これまで自分の人生に対して努力を重ねてきた「個人」として、どう力を発揮したらいいんだろう、と。

「3人の子どもたちの囲まれて、これ以上の幸せはないって思うのに、やっぱりやりたいことがあるんだよ」とその友人は言った。

今回の電話も、後ろから聞こえてくる子どもの泣き声に押し流されるようにして、終わった。

「やりたいことたくさんあるけど、少し減らして、寝る時間にちゃんと寝て。もう一回生活を大事にしてみようと思うよ」

電話の終わりかけに友人はそう言って、納得していた。

二人と話し終えた後、不思議と心が軽くなっていた。

それぞれに置かれた状況で必死にやっている。どうにもならない日常で、なんとか整合性をつけようとして、悩んだり、パンクしたり、それでも幸せを感じたりしながら。

どっこい生きてるシャツの中、って感じだった。

子どもが生まれると、圧倒的な力で、自分の人生が押し流されていくようになるのかな。想像しかできないけど、きっとそうなんだろうな。

一人目の友人は「たぶん大丈夫だと思うけど。もし、これからも授からないなんてことがあったら言ってね。気持ち、少しはわかると思うから」と言ってくれた。

二人目の友人は「さほちゃんも辛いことあったのに、整理して話してくれるからすごいな。私なんて全然だ。自分がパンクしてることにも気づかなかったし、喋りながら整理させてもらってる」と言いながら、褒めてくれた。

自分以外の話がどっと流れ込んできて、その状況は生き生きと力強く、聞いている分には楽しくて、それなりに切実で大変だった。そして二人ともとても優しかった。ありがたかった。

「子どもがいるから幸せだ」とか「子どもがいる人は、いない人や欲しい人の気持ちがわからない」とか、そんな単純なものではないな、と思った。

それぞれに言葉を尽くして、あるいは、言葉を尽くさなくても伝わることもあって、お互いの状況を想像し合うことができる。全てをわからなかったとしても、想像しながら、寄り添うことができるんじゃないか。

それに、赤ちゃんからはエネルギーが溢れ出ていた。笑って泣いて寝て起きて、こちらをじっと見て、また寝るだけなのに。言葉も知らないのに。全部持っていって、場を明るくしてしまう。

赤ちゃんって、すごい。

最後に。

noteでも、ここに書いたことと同じようなことが起こった。私が書いたことに共感してくださった方が、コメントを書いてくれた。受け止めてくれた。

一人で抱えてなくてもいいんだな、ジタバタしていいんだなって思えたら、柔らかい風が吹き抜けたようにふわっと心が軽くなった。

優しさに触れられたのも、いろいろあってのことだったから。いろいろあるのが、きっといい。

身に起こるいろいろの中から、何を取り出せるか。それは自由に選べるはずだ。

ありがとう、ありがとう。

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