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人に合わせなくてもいい度合いがわからない(自閉ってつまりこーゆーこと&不登校児の親やってました)

じへー&不登校児親 のミックス編です。

じへーってコミュニケーションがあまり上手じゃないですよね。物事の背景や相手の様子を察することが苦手なぶん、「ことば」という情報に頼る割合が高いんです。

教科書や国語辞典なら文字通りの意味として受け取っていいんですが、日常生活で人と接する時は「ことば」というのは氷山の一角というか、表面の薄い皮であって、「ことば」の下にはいろんな状況や思いが存在しています。

人というのはフクザツで理屈じゃない部分もあって、意に反したことも言うし、言うこととやることが違うこともしょっちゅうです。人がよく見える人ほど、自分も含めて人間はみんなそうだと、大前提の当たり前として理解しています。この大前提を理解しているかいないかで、コミュニケーション上手か下手かが大きく分かれます。私はそういうの大の苦手ですけどね(笑)

子どもの支援をしている現場ではよく、子どもの言うことを真に受けてしまって、子どもと支援者が負のループに入ってしまうことがあります。「いやだ」「これ嫌い」「行きたくない」「遊びたくない」「疲れた」「宿題したくない」

支援者であれ親であれ、大人の「じへー度」が高いほど、言葉の表面だけ受け取って対応してしまします。すると、子どもが持っている本来の力を引き出すことが難しくなります。

子どもが「いやだ」と言っていても対処する方法は無限にあります。言うほどいやじゃないこともたくさんありますし、コロコロと気が変わることもあります。促すといやいやながらも行動に移すとか、取り掛かると気持ちが乗ってくるとか、何か状況を変えて観察するとか、選択肢を与えて子どもに選ばせるなどなど。宿題などはどうせやらなければならないことなので、嫌がっているとしてもお尻を叩いて(本当に叩くのじゃなく比喩です)本人のやる気を下から支えてあげるほうがずっと優しい対応です。「いやだ」という少ない言葉情報だけに焦点を合わせず、普段の様子や前後関係を広い視野で見ると、子どもを良い方向へリードしてあげることができます。

しかし、不登校児の親はそれが下手な人が多い印象です。生真面目で、子どもとの口約束を必要以上に守ろうとします。子どもの言葉に合わせすぎてしまうのです。

約束を守ることは大事なことです。しかし、その元となっている言葉にはどれくらいの意味があるのか、その目盛りのようなものが見えないのです。たとえば「今日はカレーが食べたい」という子どもに「OK」と答えてしまったら、カレー以外は約束破りになると思い込んでしまうとか。約束どおりカレーを作ってあげることだけが良い答えなのかというと、そうでもないし、カレーでもいいし、特に正解はないし不正解もないはずなんです。

明日死ぬかもしれない人が「カレー」と言えば、何が何でもカレーを作ってあげなくちゃと思います。しかし、そうじゃないなら、違うメニューになっても大した問題ではないはずです。

しかし、じへーはそこにストレスを感じるので、出来る限りカレーを作ろうとする傾向があります。自分が約束を破ることが嫌なんです。そして、言葉にだけフォーカスが当たるので、子どもが100%カレーの気持ちだと無意識に思い込んでしまいがちです。本当は聞かれたから適当に答えただけかもしれないし、カレー以外に思い浮かばなかった程度かもしれないし、肉じゃがに変更になったとしても美味しく食べられたなら満足度は変わらないし。たとえ不満なメニューであっても、忍耐力をアップさせる出来事になるでしょう。「こうしなければならない」という縛りはないのです。反対に「こうすれば100%正解」ということもなく、何でも物事にはプラスの部分とマイナスの部分が同居しています。

しかし、普段の小さな事柄にもひとつひとつ真面目に対応していたら、子どもはどうなるでしょう。

幼い子どもが口にする言葉の表面だけまっすぐに受け止め真摯に対応していると、子どもが主導権を握る親子関係になっていきます。

「幼稚園いやだ」「保育園いやだ」「学校いやだ」これは子どもなら誰もが口にする言葉です。毎日ではないにしろ、集団生活には嫌なことや思い通りにならないことがつきものです。いやだと感じることはあたりまえなのです。それを大前提に、必要な度合いで子どもに向き合うことが子育てのツボだと思います。(わたしはこれが分かってなかったんですけどね)

まだ忍耐力が初級レベルの子どもの「いやだ」という言葉には、多少冷めた顔をして話に乗るほうがいいと思います。とは言っても親ですから心の中では重く受け取ると思うのですが、顔に出す加減を調整するという意味です。

親の反応を見て、子どもは「あれ?たいしたことないことなのかな?」と、自分の気持ちを軽く受け止めることができ、忍耐力のレベルをじわじわと上げて行くことができます。嫌なことがありながらも通常通り登校できる子どもは、こうやっていつの間にか忍耐力のレベルをひとつずつ積み上げて成長しているのです。

しかし、言葉通り「いやだ」と親が受け取ると、子どもの気持ちは軽くなりません。親がいつも子どもを守ったり、原因探しをして、原因のせいにしていると、忍耐力が備わるペースが遅れ、いつしか実年齢に合った集団生活に馴染めなくなっていきます。それはいつからとか、ある時からというわけではなく、マラソンに例えると赤ん坊として生まれた時がスタート地点で、目に見えないわずかなペースの違いなのですが、年月とともに明らかになっていくのです。

なので、不登校の兆しが見えたら、なるべく早く方向を修正することが大事です。

私が子育てに四苦八苦していた時、そのようなアドバイスをしてくれる人が少なからずいましたが、その時は子どもの性格上(障がい上)仕方がないことだと考えていました。しかし、仕事でいろんな子どもと家庭を見て気づいたのは、子ども自身の性格や障がいよりも、育ってきた環境のほうが影響が強いということです。

性格や障がい特性から集団生活が苦手な子どもであればあるほど、集団生活や社会生活に耐えるための力を養う意識を持って、工夫して育ててあげる必要があるのだということが、今になって大きく気づいた点です。


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