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辞書引き行動と辞書アシスタントの話

はじめに――辞書映画のうれしい副産物

映画『博士と狂人』が日本公開された。
さっそく鑑賞した。

原作を未読の人は安心して観たらよいと思うのだけれど。

サイモン・ウィンチェスターによる同名の原著からの改変は極めて大きく、且つ原著ファンにとってその益は極めて小さい。改変は概ね、辞書編纂の喜びや興奮を奪う方向で行われ、それ以外のカタルシスが映画には充填されている。OEDという大辞書の編纂を骨格にして展開した原著をよそに、映画では原著に登場しない登場人物らの〝助け〟を得て、辞書編纂抜きでも全く成立しうる話が進む。実話とは。

この話は終わり! 終わりです!

映画公開に合わせてイベントが企画されたおかげで、山本貴光氏・吉川浩満氏の辞書語りを聴く機会が得られた。実にありがたいことだった。

この、10月14日にニコ生で放送された「飯間浩明×山本貴光×吉川浩満「ひとをつなぐ辞典、ひとがつむぐ言葉――映画『博士と狂人』公開記念」」のトーク終盤で、山本氏がデジタル辞書に行った提言が興味深かった。そこから考えたことを書いてみる。

ユーザーの使い方に合わせてくれる辞書がほしい

山本氏が求めるのは、使うにつれて、ユーザーの適性を理解して自動でカスタマイズが行われ、どんどん自分に馴染んでいくという、ユーザーの使い方に合わせて変化する辞書だ。氏の発言を書き起こして引用する(太字は引用者)。

いまのデジタル辞書に対する不満ってのがちょっとあってね。それは何かと言うと、自分がいくら使っても、向こうが変化してこない。つまり紙の辞書だと、ずーっと引き続けてるとだんだん手擦れして、よく開くページがぱかってすぐ開けて、どこに何があるかが馴染みのものになって。よく訪れる本屋さんとか、よく行く街のようなものに変わっていくわけですね、形のあるものだとね。つまり、期せずしてカスタマイズされていく。ところがデジタルの辞書のプラットフォームって[...]ユーザーがどんだけ使い込んでも、そのユーザーの使い方に向けた変化ってのは起こしてくれない。[...]使い方に応じて向こうが学習してくれて、「あなたはこの辞書をよく好みで使ってるけど、こっちも比べるといいよ」とか、そういう個人の使い方に合わせた提案ってのをしてほしい。
Netflixのレコメンドが変わってくるみたいにして、「あなたこの辞書使うといいんじゃない」みたいなことをですね。[...]「こういう語彙は岩波の辞書強いよ」とか「こっちは三省堂使うともっとよくなるよ」みたいな、辞書ごとの特長とか違いをわきまえた上でレコメンドしてくるとかね。そういう、メーカーを超えたやり方っていうのは、デジタルならやろうと思えばできるので。使う人のカスタマイズってのが効いてくればな、と思いますね。
[...]「自分はこれをよく使う」というので〔AI〕アシスタントにその辞書を与えておくと、その辞書を使ってオススメしてくるようなAIが、[...]どんどん育っていく。「私専用の辞書アシスタント」みたいなAIが現れてきて。それに対して色んな辞書会社が「うちの辞書はこういう強みがあるからいかがですか」って〔売り込みを〕するっていう。そんなことになってくれると、私はもう喜んでいくらでもお金使いたくなっちゃう。

ここで挙げられた辞書機能の要望は次の3点。

(A) よく閲覧するページや項目へのアクセスが楽になる
(B) ユーザーがよく使う辞書に応じて、辞書の選び方や比較対象について適切な助言を与える
(C) ユーザーが辞書を使っている場面に応じて、辞書の選び方について適切な助言を与える

いずれもユーザーが辞書に補助されている。
ただし、(A)と(B)(C)とでは補助の質が異なる。

前者は、実際に辞書を使うときにかかる手間が減らされる。
後者は、辞書に関する知識が補われる。

「ページの開きやすさ」は、極論を言えば、なくても困らない。
開きにくかろうと辞書をこじ開けて情報に辿り着くことはできる。引くべき辞書があるのなら、どうにかして引くだけである。手間は乗り越えられる。

ところが、辞書選びの知識はそういうわけにいかない。

「辞書」と一口に言っても様々で、内容に違いがあることは以前の記事でもご紹介した。

が、このことは、一般常識ではない。
すると、ある情報を調べようとして、〈〇〇国語辞典〉より〈××国語辞典〉の方が目的にかなうと知らなければ、〈〇〇国語辞典〉の乏しい情報でとりあえず満足してしまうかもしれない。
あるいは、そもそも目的に合う辞書・合わない辞書という概念もなかったならば、「他の辞書にもっといいことが書いてあるかも」と引き比べる動機も生まれない。
何でも〈広辞苑〉に頼ろうとしたり、ネットで引ける〈大辞泉〉で済まそうとしたりする風潮に鑑みれば、そうした知識を習得していることは一部の人が持つ「辞書引きのスキル」になってしまうのかもしれない。

辞書アシスタントとは

だとすれば、辞書アシスタントによる辞書の選び方や引き比べ対象についての助言は、「引くべき辞書を知らない」という障害を突破するのに有益な「引くべき辞書を知っている」というスキルをユーザーに代わり行使したものだ、とも言える。

もう一歩、一般化して言うと、
辞書アシスタントは、ユーザーの辞書スキルを代行する存在である
と、私は考える。

そして次のことが導かれる。
辞書アシスタントの構想は、辞書に関わるユーザーの行動と、その過程で生じる障害、それを乗り越えるのに必要なスキルの理解から始まる。

ハートマン・モデルから辞書アシスタントを考える

そんなわけで、他に辞書アシスタントが活躍すべき場面はないか、辞書引きという行動に即して考えてみよう。

辞書学者・ハートマン(Hartmann 2001)は、辞書の検索を7段階に分けてモデル化している。おおよそ次のような形である。

1. いま行っている読書、作文、翻訳などに問題が生じていることを認識する
2. 問題の語が何か(と、その語がどのような形で辞書に載っているか)を判断する
3. 最も適切な参考図書を選ぶ
4. 辞書を検索して、欲しい見出し語を探す
5. 項目内部を検索して、欲しい情報の載る部分を探す
6. 情報を引き出す
7. 辞書引きのきっかけになったテキストに、その情報を当てはめる

(ちなみにこのモデルを図示すると、辞書ユーザーは発端となる問題から出発して辞書に入ってゆき、辞書を抜けて、解決するため当初の問題に戻ってくる、という円を描く。)

これに沿って山本氏の要望を再び検討する。
(A)「よく閲覧するページや項目へのアクセスが楽になる」は、ハートマン・モデルの第4段階「辞書を検索して、欲しい見出し語を探す」で有効な機能の要望である。
いっぽう、要望(B)「ユーザがよく使う辞書に応じて、辞書の選び方や比較対象について適切な助言を与える」(C)「ユーザが辞書を使っている場面に応じて、辞書の選び方について適切な助言を与える」は、ハートマン・モデルの第3段階「最も適切な参考図書を選ぶ」に対して求められる機能だ。

それ以外の段階で辞書アシスタントが果たせる役割はあるだろうか。もちろん、あるはずだ。適当に思いつきを並べてみる。

1. いま行っている読書、作文、翻訳などに問題が生じていることを認識する

辞書引きの第1段階となる問題の認識は、非常に重要である(山田茂2015)。「わかってない」と自覚しなければ、始まらない。にもかかわらず、実際には「わかってない」場合でも、問題が認識されずに素通りされることが多い(だからこそ誰も辞書を引かないで平気な顔をしている。私もそうしている)。
辞書アシスタントはユーザーの問題発見を助けてほしい。例えば視線のトラッキングで読み進めている箇所を特定し、目が行きつ戻りつしていたり、あるいは使用者の表情や瞬きの回数を見て、「こいつ、わかってないな」と判断したら(できるとしたら)、手を差し伸べてはくれないか。
ただし、くれぐれも鬱陶しくないやり方で。


2. 問題の語が何か(と、その語がどのような形で辞書に載っているか)を判断する

第2段階は、日本語について言えば分節が正しくできるかどうか、終止形に正しく変形できるかがまず障害になる。矢澤真人(2007)は、「川にそって」の「にそって」の意味を国語辞書で知ろうとした場合、学習者や児童には負担があることを指摘する。
また、母語話者であっても、未知の慣用句を慣用句だと認識できないと、望ましい結果を得られない。「足が棒になった」という表現は、国語辞書では大抵「足」という項目内かその近辺にある。それを知らず「棒」を引いても「足が棒になった」の意味はわからないままだ。不親切だ。(たまに親切な辞書もある。)

これらの問題に関して、デジタル辞書で部分的には実現されていると考えられる(Lew and de Schryver 2014)が、さらなる補助は可能であろう。


3. 最も適切な参照図書を選ぶ

第3段階については山本氏が指摘する通りだ。


ここまで見てきた、第7段階まである辞書引きプロセスの第1から第3段階は、辞書を実際に開く前の話だ。
ハートマン・モデルとは別の辞書引き行動の分析でも、辞書を引く前に複数のスキルが関わると考えられている(Nesi 1999)。
辞書を引く前の段階は全くおろそかにはできない。

辞書アシスタントは、まず辞書の「外」で、ユーザーを正しく導く案内人として求められる。

ここから辞書の「中」に入る。

4. 辞書を検索して、欲しい見出し語を探す

デジタル辞書の検索は、項目を「見つける」こと自体の手間を既に激減させた。デジタル辞書の検索にまつわる負担の大部分は、おそらく第1~3段階に由来する。第4段階では、辞書アシスタントに頑張ってもらわなくてもよくなったかもしれない。
長い検索結果リストに手間取ることはあるが、アシスタントの投入よりも、画面の大型化などハード的なレベルで解決すべき課題に思われる。

山本氏の提案するような「もしかして、またこれ調べてます?」といった補助を行う余地はありうる。

物書堂辞書履歴画面

物書堂の「辞書」アプリは、これまでの表示回数によって項目を並べる機能を備える。ここに自動化やフィルタリングを組み込んだものが、氏の望む辞書アシスタントに近いだろうか。


5. 項目内部を検索して、欲しい情報の載る部分を探す
6. 情報を引き出す

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〈三省堂国語辞典〉第7版より

辞書の項目には実に様々な情報が含まれているものの、実態としては活用されていないと、つとに指摘される。何しろ多くの人は、多義語であっても最初の語義区分しか読まない(Bogaards 1998など)。
有用な情報が項目の後半に……と言うか、先頭以外にあったら、もう見向きもされない。
そういう悲劇のないように、辞書アシスタントはユーザーを項目の奥まで連れてってほしい。

仮に先頭にあったとて無視されるのが記号や括弧に入った注記の類いだ。英語で俗に「lexicographese(辞書語)」とも呼ばれる独特の言葉遣いも、読解の妨げとなりうる(Adamska-Sałaciak 2012)。紙の辞書の時代に練り込まれた、簡略化・記号化・省略という編集テクニックがユーザーの障害となってしまう。
こうした障害を乗り越えてユーザーと欲する情報とを引き合わせる仕組みとして、第5・6段階にも辞書アシスタントの出番はあるはずだ。

実のところ、悲劇を生まないために、辞書の巻頭には取扱い説明書がある。「凡例」という。しかし、もうおわかりだろう。誰も凡例を読んでいないのである! とは言え、本来であれば製品の設計は、取扱い説明書などなくても十分に使いこなせる作りになっているのが望ましいのだが。

ここでユーザーは辞書の「外」に出て、スタート地点に戻ってくる。

7. 辞書引きのきっかけになった言語表現に、その情報を当てはめる

第6段階と地続きだが、第7段階は基本的にユーザーの頭の中で行われる。辞書アシスタントにできることは多くないと私には思えるが、実際どうかはわからない。国語教育・日本語教育の分野に知見が蓄積されているんではなかろうか。
とりあえず、英文に日本語のルビを振ってくれるChromeの拡張機能があるように、第6段階までに辞書から獲得された情報を、何らかの形で元のコンテキストに反映させられたら便利かもしれない、なんてことを思う。

以上、ハートマン・モデルに基づき、辞書引き行動の各段階で辞書アシスタントにしてほしいことについて、ごく適当に述べてきた。

辞書と対峙したユーザーの行動研究は欧米を中心に進んでいる。今後は、それらの研究の成果を踏まえた、優れたUIの辞書が登場するだろう。
そしてその先に辞書アシスタントがいる、のかもしれない。

おわりに――誰が辞書アシスタントを作るのか

ところで、山本氏は辞書のレコメンド機能(要望(B)(C))について「メーカーを超えたやり方っていうのは、デジタルならやろうと思えばできる」と発言していた。
でも、誰がやることになるのだろうか。

メーカー自身、つまり辞書出版社自身ではないことは明らかだ。
なぜって、辞書アシスタントが「この分野では〈〇〇国語辞典〉を引くといいよ」と場面に応じてレコメンドするためには、誰かが蛮勇を奮って辞書に目的ごとの優劣をつけねばならない。
しかし、辞書の売り手自らが「うちの〈〇〇国語辞典〉は副詞が弱いので、ここは〈××国語辞典〉さんに」「うちの〈××国語辞典〉は文法項目が貧弱で、てにをはなら〈〇〇国語辞典〉さんに」と引き下がることは、営業上ありえない。

自社の辞書しか売れないという(当然の)しがらみから自由な誰かだけが、辞書アシスタントを作ることができる。降臨が待たれる。

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私なりに「辞書選び」をガイダンスした『悩み別にみる 辞書の選び方』という同人誌を以前作りました。

しばらく買えない状態が続いていましたが、近日、書店さんでまた取り扱っていただけることになりましたので、その際にはお知らせします。

参考文献

ネットで読めるものにはリンクを付した。

- 矢澤真人. (2007). ユビキタス辞書の時代. 日本語学, 26(8), 58–66.
- 山田茂. (2015). OALD9活用ガイド 辞書編. 旺文社.
- Adamska-Sałaciak, Arleta. (2012). Dictionary Definitions: Problems and Solutions. Studia Linguistica Universitatis Iagellonicae Cracoviensis, 129 (4), 7–23.
- Bogaards, Paul. (1998). Scanning Long Entries in Learner’s Dictionaries. In T. Fontenelle et al. (Eds.), Actes EURALEX ’98 Proceedings (pp. 555–563). Université de Liège.
- Hartmann, Reinhard R.K. (2001). Teaching and Researching Lexicography. Pearson Education Limited.
- Lew, Robert and de Schryver, Gilles-Maurice. (2014). Dictionary Users in the Digital Revolution. International Journal of Lexicography, 27(4), 341–359.
- Nesi, Hilary. (1999). The Specification of Dictionary Reference Skills in Higher Education. In R.R.K. Hartmann (Ed.), Dictionaries in Language Learning: Recommendations, National Reports and Thematic Reports from the TNP Sub-Project 9: Dictionaries (pp. 53–67). Freie Universität Berlin.

このほか、Nesi 1999をオンライン辞書の観点から再構成したLew「Online Dictionary Skills」(2013)も有用。


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