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【正解の道】


 わたしが小学校の低学年だったころ、下校の途中で迷子になったことがある。正門を出てすぐの曲がり角を左に曲がるべきなのに、なにを思いついてしまったのか右に曲がった。心赴くままに知らない道を歩き続け、気が付いたときにはすっかり迷子になっていた。

 いまとなっては、あのとき感じた恐怖を鮮明に思い出すことなんてできやしない。それでも、しばらく彷徨ったのちに見つけたファミリーマートで、いざお母さんに電話をしようとしたとき、迷子からの脱却に対する安堵よりも強い焦りを感じたことはよく覚えている。怒られたくない。その一点の感情が強硬突破して、口から零れ落ちた言い訳は「道を間違えた」だった。

 スーパーのパートを抜け出してファミリーマートまで迎えにきてくれたお母さんは、あきれ顔でため息をついた。たぶん、幼稚な嘘は見抜かれていたと思う。

「こむぎ。もう道を、選択を間違えちゃダメだからね」

 そう、あの日の過ちは正門を出て右に曲がったことだ。左に曲がる選択をしていれば、迷子になることなんてなかった。左ではなく右が正解の選択肢。ただ、それだけのことだった。

 人生は選択の連続である。たくさんの分岐点に立ち、そのたびに選択を強いられ、自らの意思の有無にかかわらず、わたしたちは選択を繰り返す。もう心が赴いたほうに進むなんて馬鹿な真似はしない。正解の道だけを進み続ける。そうすれば迷子になんてならないし、危険な道にも辿り着かない。

 はじめての大きな分岐点は中学受験だった。わたしは周囲の友だちと同じように公立の中学校に進学したかった。だけど、お母さんは塾で受験した模試の結果とパンフレットを前に言う。

「中高一貫の私立なら付属大学があるし、指定校推薦で良い大学も狙える。だからね、選択は間違えちゃダメよ」

 あのころ、お母さんの言うことは絶対で、その言葉が出た時点で公立中学校への道は侵入禁止になった。強制的な選択で、わたしは中高一貫校に進学した。入学後は文芸部の活動に傾注し、それなりの成績を維持したまま高等部に進学する。友だちにも恵まれて、それなりに充実した学生生活だった。それに、大学受験では指定校推薦を利用した。

 いま振り返ってみると、中学受験は正しい選択だったのだと思う。高校受験や大学受験で涙を流した友だちを見てきたから、なおさらに。

 お母さんは道標で、道路交通法だ。進むべき道を教えてくれる。

 そして、必ず守らなければならない――

 それが迷子にならないための、唯一にして最善の選択だとわかっているから。


小説家になりたかった。

 氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを啜っていると、ふと昔の夢が蘇った。店内に流れている音楽が、ちょうど小説を原作とした映画の主題歌だからかもしれない。

 実写は嫌いだ。未読ならば俳優さんでイメージが固定されてしまうし、既読なら解釈違いに腹が立つ。シーンのカットも許せない。無駄なオリジナルキャラクターも嫌。外に文句を零すことはしないが、わたしは実写拒否過激派だった。

 だけど、わたしが書いた物語が小説として世に出て、人気を博したのちに実写映画化する。そんな妄想をするくらいには小説家になりたかったし、実写化されるような物語を生み出したかった。

すべて、過去の遠い夢の話だけど。

「――ねぇ。ムギってばちゃんと聞いてくれてる?」

 向かいに座った恋人の柊くんはそう尋ねると、食べかけのワッフルをつついた。

「ごめん、あんまり聞いてなかった。もう一回だけ言って」

「だから、持ち込みの結果だって」

 柊くんは歪みのない唇を突き出すと、悔しさが急速解凍されていくのを食い止めるように天を仰いだ。暖かいオレンジ色の照明が、滲んだ涙に光を纏わせる。

 柊くんはわたしと同じ二十歳だけど、芸術系の専門学生で漫画家を目指している。恋人の欲目を抜きにしても、彼の書く漫画は面白いし絵も綺麗だと思う。だけど、

「また、今回もダメだった」

 どうやら、それだけではダメらしい。編集に出会うまでの道のりは小説家よりもオープンなようだけど、デビューへの扉を潜り抜けることができるのは一握りにすぎない。どの分野においても商業作家への道のりは、狭くて険しい。

「ちなみに講評は?」

「絵柄は悪くないけど、どこにでもありそうな内容だって。少年誌で純愛ものなんて、いまどき難しいって言われた」

「なにが足りないのかなぁ……、じゃあ次はエログロバイオレンスとかどう?」

「それも定番だから、オリジナリティーを出すのに工夫しないとなぁ」

 柊くんは考え込み、上を向いたり下を向いたり。汗をかいたアイスコーヒーのグラスを握り締めては、うなり声を漏らした。

 漫画のことを考えて前向きに悩む姿、付箋だらけのアイデア帳、家に眠る没になってしまった原稿。執筆に夢中になるがあまり、デートに遅刻してきたことだって何度もある。そのたびに、大学の友だちからは「甲斐性ない男はやめておけ」と忠告を受けてきた。

 だけど、わたしは柊くんを構成するすべての要素が好きだ。暴力的なまでに無邪気で自由な姿は、わたしが選ばなかった道だからこそ、青く光り輝いて見える。

「就職したくないなぁ」

「専門は二年しかないもんね。もう卒業かぁ」

「卒業しても漫画は辞めないけど、やっぱり仕事を優先しないといけないときもあるだろうし」

 やりきれないと嘆く柊くんの就職先は、地元の食品メーカーだった。下積みとしてアシスタントになる道もあったはずだけど、選ばなかった。

 いや、選べなかったのかもしれない。

 お父さんがすでに亡くなっていて、お母さんは若い男の家に入り浸りでほとんど帰っていない。おじいちゃんの遺産とおばあちゃんの年金だけを頼りに、崖っぷちの危ない道を歩いている。漫画家への一本道が行き止まりに通じてしまったとき、柊くんはいよいよどうしようもなくなる。それを危惧したのかもしれない。どちらにしても、彼自身が選択した道に文句を言っていい権限をわたしは持っていない。

「困ったときはわたしを頼ってね。役には立てないだろうけど、気晴らしくらいにはなりたいな」

「ありがとう。ムギのことすごい頼りにしてる。ムギも困ったら、オレのこと頼ってよ」

 柊くんは柔らかく微笑むと、骨ばった大きな手でわたしの頭をゆっくりと撫でた。中性的な顔立ちに、はっきりと男の子だとわかる身体つき。その矛盾を感じるたび、お腹の奥底がむず痒くなって暖かい幸福に包まれた。


時刻は十八時を少し過ぎている。

 冬の日は短く、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。

 アパートの廊下に設置された蛍光灯には小虫が群がり、黒い斑点模様を浮かばせる。二階の角、お父さんが沖縄土産として買ってきたシーサーが並んで座る玄関のチャイムを鳴らす。ポーンと軽い音が指先に伝わり、まもなくしてドアロックが解錠された。

 出迎えたのはパートから帰宅していたお母さんだ。「ただいま」と上っ面の笑顔を浮かべるが、「おかえり」の言葉は返ってこない。そのくせ、決して広くない玄関を塞ぐように立っているので、部屋に入ることも許されなかった。ただ黙って、なにかを待つようにわたしの顔を見つめている。

 わたしは、お母さんの言いたいことがわかっていた。ただ、反発心が自発的な言葉を生みだそうとはしない。我慢比べのすえ、睨み合いの膠着状態を解いたのはお母さんのほうだった。

「日曜のシフトは正午までじゃなかったかしら?」

「ご飯食べてから帰るって、ちゃんと連絡したと思うんだけど。既読も付けてたよね?」

「誰と、どこで、いつまで。最低限これだけでも伝えないと、連絡したうちに入らないのよ。それに、ご飯を食べるだけなら、こんなに遅くはならないでしょう?」

 はいはい、鬱陶しい――心の中で吐き出し、それでも抑え込めなかった苛立ちが、鼻から嘲笑という形で溢れ出た。

「柊くんと、駅前の喫茶店でいまさっきまで。遅くなったのは話が盛り上がったから。これでいいでしょ?」

 お母さんはいまだ釈然としない様子だが、彼女の不満の根源はわたしがスケジュールを事前に連絡していなかったことなのでいまさらどうしようもない。過去に戻ることはできないし、こういうときはなにを言っても険悪になるのが目に見えている。二十歳になった娘の予定のすべてを管理しないと気が済まないなんて、メンヘラの彼女かよ。

 異性と旅行なんてもってのほか、なにがあっても終電は逃すな。行き先と解散時刻はは詳細に言え。行き過ぎた過保護に従うわたしもどうかと思うが、おかげで二十歳をすぎたいまもなお処女を守り抜いてしまっている。変なところで真面目な柊くんとは、そんな話になったことすらないけど。

「それで、柊くんはどこに就職しようとか、ちゃんと考えてる子なの?」

 何回目だよ、その質問。そう思いつつ、最善の返答を考える。

「まだ二回生だよ? わたしも考えてないのに」

「だって、未来の旦那さんになるかもしれないじゃない。でも、国立の工学部でいい成績なんでしょう? なら将来も安泰よね」

 柊くんと出会って一年半、関係が恋人に変わったのはちょうど一年前になる。旅行もお泊りも許して貰えないような関係性なのに結婚。どの時代の話だよ。笑わせないで欲しい。

 喉元まで出かかった文句をすべて飲み込んで、へらりと軽薄な笑顔をつくる。笑いさえすれば、ひとまずこの場は収まる。

「そうそう。大丈夫だから、柊くんのことは黙って見守ってて」

「わかってるけど、こむぎも考えておきなさいよ。就職と結婚は人生における最大で最後の分岐点なんだから」

 適当な相槌を打つ。洗面所に向かおうと足を進めると、「ねぇ」と玄関から呼び止められた。足を止め、振り返らずに耳だけ傾ける。お母さんは続けた。

「わかってるとは思うけど、変なことはしちゃダメよ。まだ学生なんだから、結婚するまではダメ」

 曖昧な返事をして、洗面所のドアを閉める。

 鏡に映ったわたしと視線が交わると、どちらからともなく笑いが込み上げた。すでに成人している娘のセックスに自ら口を出す親がどこにいるんだよ。いや、ここに居たわ。なにも面白くない。それでも腹の底からの笑いが止まらなかった。

 いつもそうだ。わたしに恋人ができるたび、お母さんは決まって口を出した。

 どんな子なのか。

 どれくらいの成績なのか。

 親御さんはどうか。

 兄妹構成はどうか。

 ルックスは悪くないか……?  

 確かに、どれも大切なことだとは思う。わたしだって、性格だけを見て選ぶほど純粋な心は持ち合わせていない。だけど、お母さんはおかしい。お母さんが望む条件からたったひとつでも逸脱してしまえば、もう恋人としては認めてもらえない。少なくとも、いままでの恋人は理不尽な理由で認めて貰えなかった。

「その子が相応しいとは思えない。間違った選択よ、こむぎが幸せにな道を歩けなくなっちゃう。お母さんは心配して言ってるの」

 進学先がダメ、長男だからダメ、身長が子どもに影響するからダメ。その選別にわたしの好意は関係しない。

 一つ大人に近づくたび、お母さんの示す道が正しいとは思えなくなっていった。お母さんの意思に左右されたあべこべの道標。お母さんにとって都合のいい道。そんなことくらいとっくに気が付いているのに、どうしても従う道を選んでしまう。

 たぶん、わたしにとってお母さんは道路交通法で絶対守るべきものだから。きっと、これからもずっと重んずべき法律だから。


三月十日。

 わたしはすっかり見飽きた百円ばかりの商品に囲まれていた。納品用の大きなダンボールに詰められた商品を店頭に並べ、フェイスアップをして売り場をなんとなく整える。完璧なフェイスアップほど無駄なものはない。どうせすぐに崩される。荒らされると言うほうが正しいかもしれない。 ぽつんと建てられた百円ショップはショッピングモールなどのテナント店舗に比べると、はるかに治安が悪かった。商品の中身を抜き取られてパッケージだけが残されていたり、買い物かごがトイレに迷い込んでいたりすることもある。さらに、そのトイレも意図的に汚されたんじゃないかと疑うほどに汚い。柊くんがいなかったら、とっくの昔に辞めていただろう。


 その柊くんが、とうとう百円ショップを卒業する。あと十分に差し迫る二十一時に退勤したら最後、もう二度と彼のタイムカードは押されない。

 すぐ近くで、わたしと同じように商品を陳列していた柊くんは感慨深く呟いた。

「今日でここともお別れだなぁ」

「さみしい?」

「当たり前じゃん。学生が終わるんだなぁってしみじみ。もう二十日もしたら、少なくとも週に五日は八時間労働の日々だと思うと嫌になるよ」

 アルバイトは四時間労働を週に三回。連絡網に休みたい旨を流せば簡単に代わりは見つかるし、品出しとレジ打ち以外の仕事は特にない。強いて言うならばクレーマーが鬱陶しいくらいのものだった。それさえも、最後には社員が助けてくれる。学生のわたしたちに責任が追及されることなんて、たったの一度もなかった。

 だけど大人はそうはいかないんだろう。わかっているけど、わかっていない。漠然とした大変のイメージが、漠然とした重圧を肩にかける。

「わたしもそろそろ就職のこととか考えはじめなきゃなぁ。お母さんうるさいし。ついに社会の荒波に揉まれるときがやってくるのか」

 柊くんは苦笑する。商品を出しながら、まるでいま思い出したと強調するように「そういえば」と切り出した。

「もうムギは書かないの、小説。高校時代はずっと書いてたんでしょ?」

「いまさらだなぁ。もう辞めてから二年も経つんだよ? 柊くんと出会ったときには、もうすっかり辞めちゃってたのに」

「ムギが書いた小説、そのまま原作にしたいくらい面白かったから。絶対いつかデビューできると思ったよ、もちろんお世辞抜きに」

 柊くんが褒める小説は公募の一次ですら通過できなくて、それでも諦めきれずにネットに掲載したものだ。投稿サイトでの閲覧数は少ないし、評価も高くない。わたしなんて、所詮はその程度の力量だった。

 だけど確かに、あのころのわたしは小説のことばかり考えて過ごしていた。付箋だらけのアイデア帳、家に眠る落選した原稿、二日に一冊のペースで貪欲に作品を吸収する日々。

 それでも、足りなかった。時間も、才能も、経験も。なにより――

「辿り着く先が行き止まりだって知ってたから」

「行き止まりって……」

 柊くんは苦しそうに表情を崩した。

 言い方が悪かったかもしれない。商業作家を目指している彼の道も行き止まりだと言っているように聞こえるかもしれない、と言葉を改めた。

「ほら、お母さんも反対してたしね。わたしが小説を書くと機嫌が悪くなるの、それはもう誰が見てもわかるくらいあからさまに」

 あの道は、わたしの夢の先は行き止まりだった。いや、進入禁止だった。お母さんが進入禁止の標識を掲げたが最後、進みたくても進むことができない道へと変わり果ててしまった。

「だからもう疲れちゃって。才能も熱量もその程度なら、はやいうちに諦めちゃおうって。作家業みたいな食べていけない道なんて、さっさと諦めたほうがいいでしょ」

 段ボールに詰められていた同じ文具メーカーの商品を並べ終え、わたしはポケットからカッターナイフを取り出す。空っぽになった段ボールの溝に刃を差し込むと、安物の刃先は引っ掛かりながらガムテープを割いていった。

「それに、いまは柊くんがいてくれるから。わたしの代わりに柊くんが夢を追いかけてくれるだけで、満足なんだよ」

 段ボールを畳みながら笑顔で顔を上げると、ようやく柊くんは安心したように笑った。まだ三分の一ほど残っている彼の段ボールの中から、二十個入りのものさしの袋を取り出す。

「ほら、はやく終わらせて一緒に帰ろう」

 ものさしで引いた線のように真っすぐな柊くんの道は、いったいどこで行き止まりに辿り着くんだろうか。

 誰にも止められることのない柊くんは、どこで行き止まりに気が付けるのだろう。



 店から出ると、柊くんは駐車場の隅を嬉しそうに指さした。薄暗闇の中でぼんやりと光を放っているのは、セブンティーンアイスクリームの自動販売機だ。

「アイス? まだ寒くない?」

「寒い中で食べるからいいんじゃん。ムギのも買ってあげるから、一緒に食べようよ」

「柊くんが買ってくれるなら食べる。プレミアムのやつ食べてもいい?」

「いいよ。ムギがプレミアムにするなら、オレもそうしよ」

 柊くんはわたしの手を握ると、繋いだ手を振り子のようにゆっくりと揺らした。二階の窓から漏れ出た光が、地面にくっきりと模様を作る。誰かに覗かれている気がして、わたしはなんだか恥ずかしい気持ちになった。柊くんのことが大好きで、恋人であることを隠す気はないけど、恋人らしいところを見られたり想像されたりすることは嫌だった。


 夜中に手を繋ぐ恋人たちを見ると、わたしはいつも決まって「この人たちはいまからセックスをするんだろう」と、曖昧な妄想を繰り広げる。処女だから具体的な妄想にはならない。ティーン漫画やアダルトビデオで見た知識が限界の、所詮はモザイク処理が施された妄想止まりだ。

 そんなことを考えているのはわたしだけかもしれないけど、他人に柊くんとのセックスを想像されるのが不快で、知り合いには恋人らしいところを見せてこなかった。

 見られたくないけど、この手を離すのも違う。そんなことを考えていると、柊くんのほうから手を離された。さっきまで体温があった場所に、三月のまだ冷たい空気が入り込む。少しだけ名残惜しかった。

「オレはクッキーアンドバニラだな。ムギはどうする?」

 柊くんは紺色のサコッシュから財布を取り出し、釣銭機に千円札を入れた。

「わたしはラムレーズンがいい」

 柊くんは、クッキーアンドバニラを押して落ちてきたお釣りを受け取ると、戻ってきたうちの二百円でラムレーズンのボタンを押した。受取口にしゃがみ込んだ柊くんのつむじが、なんだか愛おしい。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。このアイスって懐かしいよね。小学生のとき、水泳の帰りに食べなかった?」

「懐かし! たまにお父さんが迎えに来てくれたときだけ『内緒なって』買ってもらってたなぁ。母さん、ご飯の前におやつ食べたら怒るから」

 柊くんは一等優しい表情を浮かべて、クッキーアンドバニラに噛り付いた。

「わたしも怒られてたなぁ。アイス食べたくらいじゃ、小学生のお腹は満たされないのにね」

「しかも、水泳終わり」

 わたしの分を買うためのタイムロスがあったせいか、柊くんのアイスクリームは歯型の部分から溶けはじめていた。

「あっ」

 指先を伝い落ちていくアイスクリームを舌で舐めとって、柊くんは曖昧な笑顔で誤魔化した。そうやっている間に、また次の一滴が溶けていく。

 ちろりと覗いた赤い舌に触れてみたい。

 気が付くと、わたしは手を伸ばしていた。柊くんの舌先に、アイスクリームに冷やされて赤くなった先端に、わたしの指が触れている。

 冷たくて生温い、柔らかくて弾力がある。その感触は一瞬で離れていき、柊くんは目を見開いたあと、わたしの好きな悪い男の人の顔を浮かべた。わたしはバイト先の駐車場にいることなんてすっかり忘れて、ゆっくりと近づいてくる唇と舌先を受け入れようと身構えていた。

 だけど、柊くんは予想とは少し違う、そっと触れるだけのキスをした。

「アイス溶けちゃうよ」

 まだまっさらな状態のラムレーズンの表面を指さし、柊くんは悪戯に口角を上げて笑う。

 わたしが指さしされたラムレーズンに噛り付くと、すでに溶けはじめていたようで綺麗な歯形はつかなかった。唇に触れるひんやりとした感覚を楽しむ余裕なんてあるはずもなく、口の中でレーズンを転がして意識を逸らす。そうしている間に、指先に溶けたアイスクリームが伝い落ちていった。舐めとろうと舌を出すと、温かく固い感触が触れた。

「仕返し」

 わたしが慌てて舌を引っ込めると、柊くんはたっぷりと間を持たせて言う。

「来週あたりにさ、一泊二日くらいでオレの卒業旅行。温泉とかよくない?」

 心臓が跳ね上がり口から飛び出してしまうんじゃないかと、本気で焦るほど激しい動揺だった。

誰にも邪魔されず、終電の時刻に追われることもない。温泉旅行の誘いは、イコールでセックスのお誘いとも捉えられた。柊くんにそういう意図があるかどうかはわからないが、わたしたちは恋人で、プラトニックを維持できるようなピュアな人間でもない。

 わたしは未だ治まらない鼓動とは裏腹に、努めて平然を装う。そして、何気なく出てきた言葉こそ、わたしたちにとって一番の問題だった。

「お母さんに聞いてみる。また、連絡するね」


玄関のエクステリアライトに照らされるシーサーは今日も変わらず呑気な表情を浮かべていて、買ってきたお父さんによく似ていた。

 どうしてわたしはお父さんに似れなかったんだろう。お父さんのようにおおらかな性格なら、お母さんの報連相攻撃にも耐えられたのかもしれない。


 外気に冷やされたチャイムを押す瞬間――遅くなった言い訳を考えるこの一瞬が、なによりも憂鬱だった。指先から伝わる軽いチャイムの音。もっと陰鬱な音色だったら気も紛れるのに、と押すたびに思う。

 ゆっくりと扉が押し開かれ、温かみを感じるダウンライトの光が漏れ出る。自宅は明るくて優しいのに、自由のない監獄のようだ。

「ただいま。納品の商品がすごく多くて、遅くなっちゃった」

「おかえり」

 立ち塞がるお母さんの横をすり抜けてリビングへ入ると、お父さんはテレビを見ていた。くだらないバラエティー番組だ。若手の芸人が無茶ぶりをされた挙句、滑っている。

 お父さんは顔だけを向けて

「おかえり、手洗いしておいで」

 と穏やかな声音で言った。

 手洗いを済ませてリビングへ戻ると、お母さんはお父さんの向かい側に座っていた。テーブルの上にはホットミルクが三人分用意されている。


 我が家は仲の良い家族だと思う。お父さんはおおらかな性格だし、お母さんはいつだって家族のサポートに徹している。日々の食卓を揃って囲むことが難しくても、こうやって暖かい飲み物を囲んで談笑する。わたしが反抗しなければ、示された道を進むことに疑問を抱かなければ、完璧な家族だった。

 湯気が立つミルクに息を吹きかけると、穏やかな水面に波紋が広がった。

「こむぎに見てもらいたいものがあって」

 お母さんは嬉しそうに言うと、ファイルからパンフレットを数冊取り出した。

「そろそろ三年生になるでしょう? やっぱり安定した就職先といえば公務員だと思って。こういうのは、はやくはじめたほうが有利だから」

 差し出されたのは、公務員試験の対策を専門とする学校の入学パンフレットだった。スーツを着た男女を背景に合格率が大きく記載されている。すべての冊子が似たようなデザインで代り映えしない。

「わたし、公務員になるつもりなんてないんだけど」

 お母さんはリビングにある本棚の方を向いて、不満げに首を傾げた。

「どうして? 副業がダメだから?」

「そういうわけじゃないけど」

「なら、いいじゃないの。大切なのは安定よ、安定。職場で旦那さんを見つけられたら、もっと安泰。お母さんたちも安心できるし、結婚するまでは家から通えばいいじゃない」

 お母さんは「当たり前のことでしょう?」と主張して、お父さんに同意を求める視線を送った。手のひらに包まれたマグカップは、心が冷えていくのを強調するように暖かい。

 お父さんはうっすらと髭が生えた顎をさすりながら、わたしに笑顔を向けた。

「働くのはこむぎだから、好きな道に進めばいいと思うよ。だけど、公務員になってくれるなら安心だね。いまのこむぎは、将来どんな職業に就きたいの?」

 将来の夢。

 幼い頃に描いていた夢はたくさんあったはずだ。幼稚園の先生、パティシエール、国語教師、小説家。どの夢も浮かんでは、シャボン玉のように消えていった。割れたわけではないのに、いつの間にか見失ってしまう。どれ一つとして、わたしが進む道について来てくれなかった。

「それは、まだ……」

 視界に映るお母さんの得意げな笑みが気に入らない。

 正しい道を示していると誇らしげなのが気に食わない。

 だけど、きっとわたしは公務員試験を受けるだろう。合否次第ではあるけど、公務員になる気がする。お母さんが示した道に従わない選択肢は、とうの昔に失っていた。

「……わかったよ。だけど、しばらくは自力で勉強してみるから。それに、行くとしてもどの学校にするか決めないと行けないし」

 テーブルに広げられたパンフレットをひとまとめにして受け取り、わたしはヘらりと軽薄に笑って見せた。笑って了承してしまえば、この場は収まる。わたしはよく知っていた。

 いつもそうだ。

 わたしの目の前にある道のほとんどが進入禁止で、進むことが許されていない。民間企業への道も、たったいま進入禁止に変わった。

「こむぎ、正しい道を選び続けてね。人生は迷子になったら戻れない選択の連続だから、間違ったらダメよ」

「わかってるって。わたしはちゃんと選んでるでしょ?」


――お母さんにとって最善の道を。客観的には正解の選択肢を。


「安心してよ、ちゃんと正解の道を選び続けるからさ」

 お母さんの表情が安心から柔らかになる。わたしはこの場において最善の選択肢を選んだ。そこにわたしの意思が反映されていなくても、いかに正解の道を歩き続けるかだけが重要だった。

 お父さんがトイレに行くと呟いて、返答も待たずに立ち上がった。背中は昔よりも丸くなり、全体的に老けた。いびきもかくし、枕やワイシャツの襟からは加齢臭がする。それを差し引いても、お母さんにとってお父さんは正解の道だったんだろう。

 パンツのポケットでスマートフォンが振動した。少し遅れて、軽快な通知音が響く。開いて確認すると、柊くんからのメッセージだった。

『いいネタが思いついた!』

 わたしは、柊くんが羨ましい。同時に尊敬もしている。自分が進みたい道が、どうしてそんなに明確なんだろう。自分で選んだ道を進み続けることが怖くないんだろうか。その道が正解に辿り着くとは限らないのに。


 わたしはお母さんの指示に従って、たくさんの道を捨てながら生きてきた。

 小学六年生のころに仲が良かった友だち、認められなかった恋人たち、小説家になる夢。

 わたしが選ばなかった――選べなかった選択肢。選んでいれば、どんな道に辿り着いていたんだろう。その先の未来を想像することは、とても怖い。ここよりも幸せないまに辿り着いていたらと考えると、後悔の波が押し寄せてくる。ここよりも不幸ないまに辿り着いていたらと考えると、自分で選択することに恐怖を覚える。

 わたしに意思なんてもの存在しないのかもしれない。わたしは臆病になりすぎた。この先の道が行き止まりに辿り着けば、全部お母さんのせいだ。他人に責任を擦り付けることができる状況が楽であると知っているから、文句があっても指示通りの道を進んできた。

 正しい道は、楽な道で、責任が伴わない道だ。そして、それがわたしの意思だった。


 結局、わたしが選んできたんだ。

 わたしが、自分で捨ててきたんだ。


 手のひらに振動が伝わる。再び暗転していた画面上に通知が入った。まだ返事を返していないのに、柊くんのメッセージを次々と受信する。顔認証でロックが外れると、一斉に既読マークがついた。

『邪道だけど、ダークヒーローもの』

『ちょっと攻めてみた。 迷走するかな?』

『ムギママ、旅行どうだって?』

 お母さんが首を伸ばして、画面をのぞき込もうとする。スマートフォンを傾けて拒むと、不服そうに顔が歪められた。

「こんな時間に誰から?」

「柊くん」

 こんな時間と言っても、まだ日付は跨いでいない。まして、通話でもあるまいし。

「柊くんと普段はどんな話してるの?」

「別に、面白かったテレビの話とか」

 お母さんは見せて欲しいと表情で訴えかけてくるが、画面は絶対に見せられない。柊くんが漫画を描いていることだけは、隠し通さなければならなかった。

「そういえば、柊くんと旅行に行きたいって話になってるんだけど」

「えぇ……?」

 お母さんは眉間に皺を寄せて、訝し気な声を上げる。不機嫌と言うよりも困惑の色が強かった。

「あなたたち、まだ大学生なのに?」

「絶対に定期的に連絡するから、お願い」

 大学生だから自由に旅行が行けるんじゃないか。もう大学生だから旅行に行きたいんじゃないか。

 意見は飲み込む。柊くんだけは選び続けたい。だから、お母さんに柊くんが正解の道だと選んでもらわなければならない。

「柊くんは正解の道だから、手放しちゃダメなんだよ。国立大の工学部生で、優しくて真面目だもん」

 自分の言葉に虚しくなった。嘘ばっかり。柊くんは国立大の工学部じゃないし、そもそも大学生ですらない。専門学校生で、漫画やアニメーションについて学んでいて、シングルマザーで、お母さんは男の人に会いに行ったきり帰っていない――


 大好きな柊くん。夢を追いかける一途な背中も、柔らかく笑う白い陶器みたいな肌も、矛盾する男らしく骨ばった手のひらも、すべてが愛おしい。

 だけど、たったの一度も思わなかったわけじゃない。柊くんが国立大の学生で、工学部だったら……

 わたしはなんて愚かなんだろう。自分が選んだ恋人すら、正しさを信じられない。自分が選びたいと思った恋人でさえ、嘘で塗り固めて他人に選んでもらおうとしている。


 お母さんはまだ迷っていた。

 もし、ダメだと言われたらどうしよう。おとなしく諦めるか、主張を突き通すか。果たして、その選択は正しいのだろうか。嘘をすべて剥したほんとうの柊くんは、正しい選択なんだろうか。

 手のひらでスマートフォンが震えた。柊くんからのメッセージだと思う。わたしはもうなにもわからない。自分の選択をどれ一つとして信じることができない。


 教えて、柊くん。

 あなたを選んだら、わたしを正解の道に辿り着かせてくれますか。

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