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Think difficult ! Final 「...and feel different!」メタ思考で未来予測を超える【全文公開】

Think Difficult!


"Think difficult!"と唱えて、あれやこれや語ってきた。あまり物事を深く考える習慣のなかった方々に抽象思考の意義と方法について伝えたかったからだ。方法論として一般化して話せることはだいたい話した。

これまで、借り物ではない僕自身の思想をありのままに話すことは、意図的に避けてきた。それは偏に、一般的に理解してもらえるものではないとわかっているからだ。しかし、コミュニティという活動の場を持つにあたって、そういう個人的な思想を話す機会も、持っておく必要が出てきたと感じ始めている。だから、全く誰に理解されることもない思想についても、これから少しずつ話していこうと思う。その「覚悟」を綴ることで、"Think difficult!"の最終回とする。

著名な学者が語る話、有名な実業家が語る話、そういう話には「未来」が含まれていることは少ない。社会で成功するために必要なものは、直近数年単位の未来予測であり、100年後の歴史を見通すことではない。100年後の利益回収を目指して経済活動を行なう人など、どこにもいない。当たり前だ。100年は人類の平均寿命を超えているのだから。

しかし、である。100年後を見通すことに意味はないのか。あるに決まっている。ただそれが目先のマネーに直結しないだけである。

皆さんの興味を引くために極めて卑近であるが、堀江貴文氏と岡田斗司夫氏を比較する。堀江貴文氏は数年単位の未来予測精度が高い。岡田斗司夫氏は向こう数十年単位の歴史推移を広く直観するオタク的動機を持っている。どちらが稼げるか、言わずともわかるであろう。

未来予測は論理であり、歴史は直観である。直観力を持て余し未来志向に過ぎると、逆に現実との接続に強い動機が持てなくなる。

しかし、僕はさらにメタな視点に取り憑かれている。時間すらメタりたいという方向に思考が走る。行き過ぎたメタ思考は、ときに現実感すらも喪失させる。しかし、未来を志向すること(物理的に「未来」という時間が存在するのか確信が持てないので個人的感覚としては未来というより時間全体を志向している)は、僕のような平凡な能力しか持たぬ者(人と異なった能力は持っているかもしれないがスペックは平凡である)にこそ、大きな意味がある。

もしも、100年後の人類の姿を思い描けるなら、いまの自分の人生に対して、強い信念を持って生きることができる。

確かにお金さえ稼げれば、信念などなくとも社会で生きることはできるだろう。

信念なんてものが仮に持てたとして、一体どんな良いことがあるのか。

その問いの意味がそもそも僕には理解できないが、信念があればこそ、己の生を(死を)肯定できる。つまり、幸せになれる。幸せに生きる、ないし、幸せに死ぬことができる。

信念を持たずして、一体どうやって幸せになれるというのであろうか。

そして、100年後を見通そうとする俯瞰的な視座を目指さずして、一体どうやって信念が持てるのであろうか。

現代人はあまりにも近視すぎる。現代人の「視力」を矯正する眼鏡をあつらえて、皆で同じ景色を見たい。ある意味、それが僕の活動の動機とも言える。結局、強がってはいても、僕も寂しいのだろう。

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僕が見ようとしている景色は、目先10年の未来予測ではない。

向こう100年の歴史である。

"Feel different!"◆序章◆

諸君の中に、一人でも俺と一緒に立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。
……
それでも武士かぁ!
それでも武士か!
……(三島由紀夫)

- 理想に殉じないこと「三島の覚悟と逃避」

三島由紀夫氏の割腹直前の檄を切り取って書き起こした。僕は三島由紀夫氏を崇拝しているわけでは、全くない。むしろ、この行動には批判的な立場である。けれども、どうしようもなく理想が潰えた時、己の美意識を固定してしまいたいという欲求自体は理解できる。僕は自らの意志で死ぬことを「美」とは感じないので、この行動を感覚として理解できるわけではないが、それを「美」と感じるのであれば、そうしたかったのだろうということを想像することはできる。しかし、一体なぜ僕が突然三島由紀夫氏の生き様(死に様)を引用したのか。それは、人間には生きているという状態しか存在しないという逆のことが言いたかったからだ。

死という概念を以って己の生きた証を固定するという考えに、僕は賛成しない。人は、死んでも生きているものの心の中に生きている。

馬鹿も休み休みにして欲しい。

死ねば終わりだ。どれほどの業績を上げ、それが後世の人々に受け継がれようと、死ねば終わりだ。

我々には、生きているという状態しか存在しない。どれほどレトリックを駆使して本質をごまかそうが、死ねば終わりだ。だから、我々は自分がいま生きているという状態を「ど真ん中」に据えなければならない。僕は誇りある死が美しいとは思わない。しかし、だからと言って、無様に生きながらえることが美しいと思っているわけでもない。

我々が為すべきことは、自分が自分を肯定できる形で生きていくこと、それだけだ。

結果として死ぬことになるのであれば、仕方がない。それは、自死とは違う。そして、死んだら終わりという文脈になると、多くの人は、では、生にしがみつけと言う。

僕はそうも思わない。

死にも生にも、そもそもしがみついてはいけない。あるがままの己の道を肯定する。その肯定の結果、生や死がついてくる。死ぬ道を肯定してはいけないが、生きる道も肯定してはいけない。生も死もなくあるがままの道しかないのだ。

生きようが死のうが、どちらの状態も我々には管理できない。「生」という状態を我々は自由意志で選択したわけではない。そして、我々は「死ぬ」という動作はできても「死」という状態を選択することはできない。我々にはその「状態」は存在しないのだ。

結局、我々には、「生きている」という状態しかない。

であるならば、あなたは今生きていることを世界中に向かって肯定できるはずだ。

本当にできるだろうか。

たとえ理解者が一人もおらず、たった一人孤独であったとしても、あなたは自分を肯定できるだろうか。

そういう意味では、三島氏には覚悟があった。ただ、彼は死に逃げ込んでしまったため、僕はもう彼を追うことはできない。

彼の生き様に、ありのままの生の肯定はなかった。彼は観念で加工された死の肯定を選んでしまった。

もう一度聞こう。

皆さんは、この世に誰一人味方がいなくても、自分を肯定して生き続けることはできるだろうか。

そんな人は、今の世の中にはほとんどいないだろう。他者とシステム的につながることで、どうにか自我を保っている人がほとんどだ。それは依存症であり、中毒だ。ここでそれを唱えて、どれほどの人に伝わるのかは疑問だが、それは事実だ。

もう一度聞こう。

この世に人類が自分たった一人しか存在しなくても、自分で自分を肯定して生き続けることはできるだろうか。

それが大きなテーマになってゆく。

- 一歩一歩進む「IUT理論への共感」

僕が最も影響を受けた人として、以前からルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン氏と養老孟司氏、二人の名前をずっと挙げてきた。ウィトゲンシュタイン氏からは勇気を、養老氏からは現代における知性の在り方を教わった。実は、わりと最近の話であるが、もう一人現在進行形で密かに影響を受けている人がいる。

望月新一さんという数学者だ。

ほとんどの人は名前だけを聞いてもピンとこないだろう。以下の癖のあるワードを挙げれば、少しは聞き覚えがあるだろうか。

そう、IUT理論すなわち「宇宙際タイヒミュラー理論」の提唱者である。

世間的にはABC予想を証明した「らしい」というカタチで認識をされている。実際は、ABC予想を証明したなんてことは些事で、もっともっと壮大な理論であるらしい。「らしい」と言っているのは、発表からもう数年経過しているのに、いまだ論文が全世界的に「オフィシャル」には認められていないからだ。なぜ、認められていないかというと、テクニカルな問題は高等数学の素養のない僕なんぞには理解できないが、理論体系があまりにも異質かつ膨大だからということらしい。IUTeichの論文だけで600ページほどある。そして、当然それを読むために必要となる数学的素養もかなりのレベルが求められる。そして、確かに難解ではあろうと思いはするが、一番問題なのが、たぶんその異質性だと思われる。

異質のレベルが桁違いなのだ。

これまでの数学の体系の枠組みを外させるというドラスティックな異質さを持っているらしい。

異質かつ、同時に膨大、このコンボがヤバい。

特に数学者というのは「かっちりした公理体系の中で正確な手続きを遂行するプロ」であって、慣れ親しんだ箱庭の外に出ることは、数学者というよりどちらかと言うと哲学者の素養が求められる仕事である。

IUTeichの提示に従い、慣れ親しんだ箱庭の外に全く新しいルールの箱庭を作る。そのルールが、とんでもなく膨大である。

そうなったとき、そのルールを学ぶのにつぎ込む時間的コストがはたして回収できるのか、そこが気になるのが人情というものである。突っ込んで勉強してどうにか理解した結果、実は間違ってました、なんて日には、投入した時間が無駄になる。

そんな皮算用がネガティブ要因となり、初動としてこの論文を解読しようという流れは、しぼんでしまった。その辺の細かい話は僕などではなく本物の数学者に聞いて欲しい。けれども、中身自体はよくわからなくとも、僕は、望月氏の活動に、勝手ながら、密かな共感を得ている。もちろん、脳みその出来は全く違うだろう。しかし、世間で言う望月氏は単に「天才」の一語で片付けられている気がするが、僕が共感を得ているポイントは天才かどうかではない。

僕が共感を得ているポイントは、周囲との違和感を感じながら、どれほど異質なことを考えようが、どれほど大きなことを成した実感があろうが、それでも彼は、おそらく身の丈の思想を守り淡々と毎日をこなしている、少なくともそう見えるところにある。

もちろん、僕は、直にお会いしたことも話したこともなく、彼のプライベートな思想など知る由もない上に、そもそも僕の素養では彼と数学という言語で対話することすらかなわないだろう。しかし、ほんの二、三のエピソードを耳にするだけで、避けがたい共感が生じるのだ。そして、興味を持って調べてみて、二、三ではなく、十のエピソードを聞いたところ、やっぱり全部に共感する。なので、これはたぶん表面的なことではなく、本質的な共感なんだろうと勝手に判断している。

とにかく、僕が共感している中で最も大きなポイントは、二点ある。

急いで理解されたいとか評価されたいという焦りがないこと。

なすべきことは慎重に確実に成すべきだと考えていること。

スピード感重視でただがむしゃらに動いているだけのいまのビジネス感覚とは、完全にズレた意識である。しかし、同時に、これは僕が日頃から言っていることとほぼ完全に同じ意識のように感じる。自己啓発系の「すぐ行動」とか「多動力」とかとはまるっきり別物の、いつも僕が言っている"Think Difficult!"思想のことだ。

まとまった難しさを持った抽象性の塊を他者と共有するためには、頭の中に1万のボリュームの理論の塊があるとして、自分が及ぼせる効果が100万として、100万人にあわてて1ずつの理解をさせても何の意味もない。

たった100人にちゃんと1万の塊を丸々理解してもらうことを地道に繰り返すことだけが意味をなす。

僕が日頃から言っていることはそういうことで、望月氏のエピソードを聞いていると、彼もほぼそう考えているように感じる。本人のブログなども参考にした感想なのでそれなりの根拠はあるが、又聞きのエピソードや二次情報もたくさん含む中での判断なので、もちろん解釈が間違っている可能性もある。僕の解釈が間違っていたなら当然訂正するが、印象としてはそんな風に思っている。

真に重大なものというのは、原理的に、少しずつ広げていくことしかできないということだ。

逆に言うと、一気に広がり得る、つまり「バズる」ようなものは、その全体のスケールとは裏腹に、単体では非常に小さな塊にしか過ぎないということだ。

そんな、僕の感じていることを感じている人がいるのかもしれないという可能性から、数学者としてではなく人間として、望月新一さんという方に勝手に共感を覚えている。

彼が天才なのかどうかは、正直僕は判断を下すレベルにすら立てていないので言及はしない。IUT理論が正しいのかどうかも、数学者ではない僕にとっては、究極のところ、どうでも良い。もっとも、望月さんの精神性というものを鑑みるに、限りなく正しいという信念があるのだろうとは思う。テクニカルな部分はプロの仕事を待ちたい。

さて、僕の話に戻ろう。

僕も自分の抽象度の高い大きな塊の話が、すぐに簡単に多くの人にポンと伝わるなんて最初から期待しておらず、じっくり少人数の人たちと考えを共有していくという、茨の道を歩んでいる。でもそう感じているのは僕だけではないのかもしれないという共感を胸に、僕もこれから勇気を持って、全く誰にも伝わらないかもしれない話を進めていきたいと思う。

ただし、誰に伝わらなくとも、僕に介錯は要らない。僕は生きてゆく。

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新シリーズに続く。


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