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語ることと書くことの境界、あるいは僕がYouTubeではなくnoteで語る理由について


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僕が「教育系YouTuber」として初めてYouTubeに動画をあげたのは、調べたところ2016年らしい。それから2020年の大学入試シーズンの2月ごろまでは定期的に動画をあげていた。主に「教育系」と呼ばれるジャンルの高校数学カテゴリの動画である。当時のYouTubeコンテンツとして、動画だけでなくちゃんとした資料まで完備した高校数学全範囲完全網羅型コンテンツは、僕の作ったものだけだったと記憶している。僕は既に教育系YouTube活動からは撤退したので現在の界隈の状況には明るくないが、網羅型コンテンツは価値があるのでたぶん何処かの誰かが似たようなことはやっているだろう。他にも、初見からいかにして難問を解くかという「解き崩し」に徹底した重点を置いた問題解説動画もあげていた。あるいは、難関大学の入試問題を完全初見から方針立てるまでのヤラセなし実況動画などもあげていた。当時、この手の問題解説動画は、ハイレベル受験生に一定の支持を得ていたように思う。しかし、僕は界隈の空気感に嫌気がさして教育系YouTube活動からは撤退した。

その話は、既に下の動画で触れた。けれども、本質的にこの問題点を実感している人間があまりに少ない。仕方がないので、今後改めてより具体的に少しずつ話をしてゆく予定にしている。今回の記事は、僕は動画で話すのをやめたという話なのだが、その辺の話は「敢えて」動画であげてゆくので、またYouTube動画で確認して欲しい。

https://youtu.be/x8yhvKKFMhI

ちなみに、僕は「教育系」からは少し距離をおいた「教養系」のような活動も並行して行なっており、その活動をベースに教育系の需要も合わせた上で、現在のジェイラボのコミュニティ活動が行なわれている。ただ、教養系に関しても、YouTubeで動画で何かを語るという活動は、いまとなってはもうほとんどやめてしまっている。僕の動画メディアでの活動は、現在のところほぼTwitchでのライブ配信のみである。

それにしても、一体何故、僕は動画で語ることをやめたのか。

皆さんは多少なり疑問に感じてはいるだろう。しかし、これは僕の中では極めて簡単な話である。

話し言葉に「知」は宿らない。

別に有名な哲学者の言葉を引用したわけではない。僕の言葉である笑 けれども、僕はここに確信がある。これは真実であると断言できる。断言なんて言うと、じゃあ根拠を言え、データを出せ、と言う人も出てくるだろう。それこそが話し言葉が「知」足り得ない理由である。

話し言葉の何がいけないのか。別にいけないわけではない。用途が違う。話し言葉は反応をリアルタイムに確認しながら時間を共有するための言語である。そして、そこに並ぶのは既に引き出しに入っている材料だ。つまり、話し言葉というのは、引き出しに貯めた知識のやりとりであり、引き出しに入っていないものは出てこない。また、対談や議論というのは、トレーディングカードゲームのようなものである。言ってみれば、リアルタイムな対談議論「メタ」なデッキがあり、相手も必要なカードを揃えて対応したデッキを組んでいないとなかなかその場では対応できない。

確かに、デッキを組む段階と、そもそもオリジナルな強いカードを手にいれる段階で頭の良さは必要である。しかし、頭の良さと言っても、頭の回転の速さと手持ちのカードの強さだけが頭の良さとしての説得力を決めてしまうので、そこで特に新しい何かが建設されるわけではない。もちろん、他のメディアにも活動の場を持ちながら多様な活動の一環として「話す」場も持てば良いと皆さんが感じるのは理解できる。「それはそれ」として活動できるのなら、全く僕もそれで良いと思う。しかし、現実にはそこで気持ち良くなれるくらい「能力の高い」人間は、ついつい気持ち良さを追求してしまうはずで、どうしても活動の軸足はそっちに移動してしまう。

改めて本題に戻るが、仮に「話す」が知的になりにくい(絶対ならないとまでは言っていない)として、では「書く」は「話す」より本当に知の純度が高いのだろうか。

当然である。

最大の理由は、速度にある。話し言葉においては、スピード感が重視されるので、あらゆる可能性をいちいち丁寧に検討している暇は与えられない。どう話せばその場で「賢く」聞こえるか、それだけが全てを決める。ここで正義や真実といった大層なものを振りかざすつもりは僕にもないが、少なくともそんな場にあるのは、ただの「賢さ」原理主義である。正しさより賢さが優先される。

正義が賢さと同義になる。

知とは、到達した座標のことであり、到達するまでの過程の話ではない。道順の説明がいくら上手くても、そもそも宝の地図を持っていなければ宝は見つからないし、さらにそれ以前に、そもそも地図を片手に泥臭くマッピングをしなければ宝の地図は作れない。

そう。そもそも知の深みに到達するのに、必ずしも「賢さ」は必要ない。ただ覚悟を持ってやり抜くこと。求められる素養はそれだけのはずだ。

もしかしたら、僕が特にそれを意識するきっかけになったのは、病気であるかもしれない。僕は、数年前から三叉神経痛という病気と付き合っており、年に一ヶ月ほど歯に激痛が走って口が動かせなくなり、物理的に話すという行為が不可能になる期間ができたりできなかったりする状況にある。なので、話すという行為が常時絶対的に求められる働き方はもうできないと感じている。その影響も、間違いなくある。

話し言葉の最大のメリットであり最大のデメリットであるのは、それが表面的(時間的)であるということだ。表面的というのはパッと目に見える部分ということである。メリットとしては表面に現れる感情が良く伝わるということが言えるだろう。精密さをさておいて強い印象を相手に植え付けるのには非常に向いている。その代わり、表面しか伝わらないので、深い部分に眠るあらゆる可能性について相手に検討してもらうことはできない。

書き言葉のメリットデメリットも同様に裏表であり、良くも悪くも構造的(空間的)であるということだ。構造というのはパッと見では伝わらない。ちゃんと自分の手で触って確認してもらわなければならない。伝達に手間も時間もかかる。その代わり、詰め込める情報の奥行きには、かなりの自由度がある。その自由度こそが書き言葉の最大のメリットである。

僕が伝えたいと感じる類の情報は、話し言葉には乗せにくいものが多い。それは、一人語りでも対談や議論でも同じことだ。動画での一人語りについては既にやめてnote記事に移行している。念のために言っておくが、Twitterは書き言葉ではなく話し言葉である。また、対談や議論については、これまで特に積極的にはやってこなかったが、今後仮にそういう機会ができたとしても、もはや直接会ったりビデオチャットなどで話すより、書面(記事)で往復書簡の形でやり取りをするのが、最も知の到達点が深まると感じている。

YouTubeでは、世の中を斜めに見下しながら半笑いで社会問題を切れ味よく斬っていくといったタイプの動画が人気なようだが、僕はアレを全く知的とは思わないし(その人間が知的かどうかは関係なくただ行為が知的でないだけである)、アレが社会に変革をもたらす効力を持つとも思わない。

もっと小さな閉じた宇宙(空間)の中で少しずつ確実にアイデアを共有しながらじわじわ進めてゆくというアンチSNS的、漸進的な知の在り方に大きな可能性を感じている。僕自身はアカデミックな類の人間ではないが、アカデミックな人間もそうでない人間も関係なく集まって(関係なくというのはどちらの否定でもなく共存)、ただインセンティブだけにドライブされることから解放された自由な研究空間が、世の中にもっとたくさん独立して乱立すれば良いと思っている。

ジェイラボもその一環である。

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