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ワークショップ「所長所感」 - 第08回[20200525-0531]『生命は尊いのか』

今回のワークショップは自分で主催しましたので、伝えたいことはだいたいワークショップ内で伝えました。結構なボリュームのログになりましたが、良かったら目を通してみてください。

生命倫理というのは、いろんな切り口があるとは思いますが、僕は究極まで理屈を突き詰めた上でどうしようもない身体性に気づくという、極めて当たり前なことをお話しさせていただきました。最終的にこれは感情論になるのは当然の理屈なんですが、初めから感情論を爆発させるのと、感情論にしかなり得ないことを理屈で理解しておくのとでは、他者との共感可能性の拡張において大きな差が出ます。

そして、身近で素朴な感覚と共同体維持のために必要とされるルールは、そもそも一致する必然性は全くないということも、納得しておいた方が良いかなと思います。素朴な感情としては何を感じようが自由ですが、それを皆が好き勝手ぶつけ合っていると共同体が成立しない。

生命倫理なんてものは、原始のヒトには存在し得ないものです。ワークショップ内では、「概念」というヒトの脳神経系が見る夢(情報)を遺伝子系に上書きしていくことでヒトは新たな地平を目指しているという話をしました。生命倫理(というか全ての「概念」)には根拠も何もありません。それは、ヒトの脳が仮想的に作り出したルールです。どんなルールならより良い「夢」が見られるか。夢に根拠などあるはずがありません。

罪という概念についても少し話しました。罪とは、悪いという静的なカテゴリではなく、規範を越境するという動的な行為だというお話をしました。極めて個人主義的な感覚です。それに対し、日本には恥という文化もあります(ありました) 共同体の安定性を求めるなら、罪で逃げられないように内側に鎖で縛るより、恥で逃げ場としての外側を埋めてしまう方が効率的ではあります。初めから外側を無くしてしまえば、外に逸脱しようがない。個の独立性に任せるより共同体への身体的帰属意識を共有した方が「話が早い」ということですね。しかし、我々はもはや夢の世界の住人であり、いまさら身体性を取り戻すことは不可能に近い。情報という「夢」の中に身体を融かしてしまった我々が、恥の概念を再獲得することは難しそうです。しかし、「外側」を削除するための恥に取って代わる新しい概念を、もしも発明することができれば、それはこれからの時代の倫理において大きな意味を持つ気はしています。罪では、人を律するに限界があります。一度覚悟を決めてしまえば、人はたやすく罪を犯します。そうではなく、共同体の前提(身体性)として共有された恥(のような抑圧概念)で禁止事項の可能性そのものを削除してしまえば、皆の規範意識を統一することが可能になります。つまり、かつて当たり前に行なわれていた身体的な「しつけ」こそが、これからの倫理の大きなヒントになるのではないかと感じています。身体を失ったバーチャルな空間で、どうやって「しつけ」を再現するのか。あるいは、ヒトが到達可能な限界まで内側を拡張することで外側を無くす、そんな方法論もあり得るのかもしれません。もっとも、それをやってしまうと、生命の定義は大きく変わってしまう気はします。

繰り返しますが、生命とは身体であり、生命倫理という概念は、ヒトが個の身体を持つからこそ生まれるものです。生命倫理について考えるとは、ヒトの身体について考えることです。情報化とはヒトの身体(遺伝子系)を消す(脳神経系で上書きする)ことです。つまり、情報化が進めば進むほど、生命倫理という概念は希薄になります。それこそ、もしヒトが簡単にコピー可能になれば、「殺人」の概念すら変わるかもしれません。

ヒトの共同体の未来を考えるなら、そこまで突き詰める必要があるとは思いますが、同時に、身近な人間関係、たとえば肉親の生死を考えるとき、共同体の未来なんてものがどれほどの意味を持つか。比べるまでもありません。それがいまの我々の感覚です。

しかし、それこそいま「身近」という表現を使いましたが、身近という表現は、文字通り身体性を含んでいますね。「リモート」なんて言葉が意識されるご時世、物理的距離への意識も変わってゆくかもしれません。この文脈の物理とは身体です。身体はどんどん消えてゆきます。それこそ、いつかアバターを通じて社会活動を行うことが当たり前な時代になったとしたら、アバターが身体という属性を帯び、アバターに対する(アバターは尊いという)倫理が生命倫理と等しく並び立つような時代が来る可能性も、十分あり得ると思います。

生命倫理とは、それほど高度な情報概念だということです。全ての生命が皆平等であり、生命はただそれだけで尊い。それは、おそらく今後も変わらない「最も便利な」公理だろうと思います。しかし、生命とは何か。ヒトとは何か。その定義の線引きはスライドしてゆくでしょう。

生命倫理とは、生命の尊さについて根拠のない空疎な議論を重ねることではなく、「生命とは何か」の定義を時代に最適化することを意味している。

僕はそう考えています。

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