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ジェイラボワークショップ第24.5回『これからのジェイラボワークショップ』【基礎教養部】[20220418-0424] #JLWS

Day1

■にしむらもとい

と、いうわけで、とりあえずまたジェイラバーにはおなじみの、WS(ワークショップ)のある日々!が帰ってきました。とはいえ、まだまだ肩慣らし期間。飛ばし過ぎずに少しずつ空気を温めてゆきましょう。ここから二週間は僕があれやこれやアンケートとったりしながら進めていきます。現行のWSは二週間で一回分の構成ですが、オリエンテーションの間は一週間ずつで進めてゆきます。この一週間は、そもそものWSの進め方について意見交換してみたいと思っております。とりあえず今日はアンケートを貼ってみますので、回答の上、何か意見ありましたらよろしくどーぞ。期間中は毎日僕の方から何かしら投下していきます。

■アンケート

WSを主催する側として考えた時、自分なら、WSは専門性(議論で前提として要求される特殊性)を
保ちたい    3
@Naokimen@Takuma Kogawa, @chiffon cake
なくしたい    15
@蜆一朗, @Hiroto, @イスツクエ, @シト, @Yuta, @コバ, @Yujin, @けろたん, @ゆーろっぷ, @Shun@YY 12, @チクシュルーブ隕石, @ていりふびに, @イヤープラグさざなみ, @Tsubo

■アンケート

WSに専門外の立場で参加する側として考えた時、自分なら、WSは専門性(議論で前提として要求される特殊性)を
保っていて欲しい    8
@Naokimen@Takuma Kogawa, @Yuta@Yujin, @けろたん, @Shun@YY 12@chiffon cake
なくして欲しい    10
@蜆一朗, @Hiroto, @イスツクエ, @シト, @コバ, @ゆーろっぷ, @チクシュルーブ隕石, @ていりふびに, @イヤープラグさざなみ, @Tsubo

■にしむらもとい

ジェイラボとして準備したこのワークショップという場の意味をどう捉えるかということですね。ひとまずはみなさんがどのように感じておられるかを調査してみたいと思います。どちらの意見にも、考え方次第で一定の理はあると思います。良かったら何故そう感じるかも書いておいていただけると助かります。

■Naokimen

ちょっと迷いましたが、専門性を完全に0にはしない方がいいという意味であえてどちらも「専門性を保つ」の方に投票しました。その理由は専門性を完全に0にしてしまうとYou Tubeとかに溢れてるような(言い方が悪いですが)“お遊び程度のもの”になりかねないからです。ただ、専門性を入れすぎると誰もわからなくなってwsの意味がなくなってしまうので専門性を多少入れつつ専門外の人にもわかるようないい感じにバランスがとれたところを目指すべきだと思っています。

■Takuma Kogawa

ワークショップは異文化交流のようなものと認識しています。多少は歩み寄りながらもお互いの文化を知っていこうとするのが楽しいと思います。専門的な内容については主催側は適宜補足する、参加側は質問することもできますので、過度な配慮は不要と考えます。まあ、数学部や物理学部が勉強した内容を発表していた回は、非理工系の私にはしんどかったのは事実ですが…。

■Hiroto

どちらも「専門性がない」方に入れました。
が、言いたいことはNaokiさんとほぼほぼ変わりません。僕はしょっぱなの出だしをゴリゴリ専門的にしてしまってあまり良い反応が得られなかったため、後半の方では「数学知っている人用」「数学知らない人用」といったレイヤー分けを駆使するなどの工夫をしました。その意味で「専門性のないレイヤーでも楽しめるようにするべきだ」と主張します。
元々の軸足が専門性の方に寄っていたため、選択肢としては専門性をなくす方向を選ばせていただきましたが、先述したようにNaokiさんなどの主張と対立するものではないように思います。
僕の中での理想は、専門的なことを知っていても知らなくても知的に楽しめるWSです(これもNaoki氏と同様)。しかし、究極クエスチョンとして
「専門的なことのみWS」vs「専門的なことは全くなしWS」
の2つから形式選ばなければならないのなら、昨年度の反省を鑑みるに私は「専門的なことは全くなしWS」を選びます。その場合は、巷に溢れる"お遊び程度のもの"との差別化のため、「ある程度閉じた空間で1人の人間の生の返答が返ってくる」環境をフルに利用するべきだと思います。哲学部さんのWSなどはその例として非常に参考にしています。
以下は超々個人的な感想ですが、
専門的なことめちゃくちゃ頑張ってやっても反応こないの、全然つまらないしWSの意味無ぇ!!!!!!!
という感じです。強烈に意識すべきなのは皆さんがある種「片手間」でWSに参加しているという事実です。専門外のことをウダウダと一方的に話されて、質問する気力が湧いてくる方が珍しいと思います。これには形式も関係していると思っていて、僕が過去潜入した某奨学金団体のように、「月3,4回強制的に場所を共にしてセミナーを開く」みたいなことをするなら、何もしないのも暇なので、専門外の内容でも聞いたり質問したりすることがあろうかと思います。しかし、このようなオンラインかつ強制力のない場では、障壁を死ぬほど低くしなければ参加は見込めないと思います。「質問できる環境があるのだからそれをしないのは聴衆側の問題だ」という意見はごもっともで正論ですが、単純に寂しいし、それならわざわざWSにする必要がない(部内のログを一方向的に公開すれば良い)ため、これからは"殿様WS"にならないようにより一層の工夫をしていくつもりです。他の部活もそうすべきとまでは言えませんが、少なくとも数学部部長の方針としては以上の通りです。

  • Hiroto
    アウトプットという行いにジェイラボが向き合わなければならない今、オーディエンスを意識する練習という意味でも、ある種の"媚び"は意識すべきだと思います。

■チクシュルーブ隕石

僕はWSに参加したことがないですが、ログを拝見して思ったことを述べてみようと思います。
まず僕はどちらも『専門性は必要ない』に投票しましたが、本当はその間ぐらいがベストなんじゃないかと思っています。ニュアンスが近い方に投票しました。
WSはあくまで足掛かりとして活用し、興味が出てくるようなら部活動に参加するというようにすれば住み分けも幾分スッキリすると感じました。WSではその部活動に関連小ネタを出すぐらい、つまり教養+αほどに止めればお遊び的にならずやや一般向けとなると思います。

Day2

■にしむらもとい

アンケートへの回答およびご意見、ありがとうございます。参考にさせていただきます。意見はちゃんと目を通しておりますので、最終的に全部考慮して議論に反映いたします。引き続き同テーマに対してのご意見もお待ちしております。
さて、このまま専門性についての話を進める前に、「ワークショップ」という言葉そのものの意味について少し立ち戻って考えることを、意見を見直す一つのきっかけとして提案したいと思います。
いちいち辞書を引用することはしませんが、概ねどの辞書で調べても、「ワークショップ」という言葉については、元々は「作業場」の意味で、いまでは「自発的な実地訓練や体験を伴った参加型の研究会ないし学習会」という程度の意味で定義していることが多いはずです。僕も、その意味を込めてこの営みに「ワークショップ」という言葉を当てました。
ほんの二、三年ではありますが、この営みを続けるにおいて、どうでしょうか、いまではこのオンラインかつテキストのみの非同期通信という「形式」への最適化ばかりが考えられている気がします。
こういう形式でやるなら、まあこれくらいの感じでやれば、そこそこ何らかの効果は得られるのではないか。
僕がこの営みに元々込めた意味は、そういうことではありませんでした。しかし、実際に集まっていただいたメンバーの適性や都合を考慮するに、かなり遠慮気味にここまでむしろ「形式」だけでもなんとか維持してきたというのが正直なところでもあります。僕みたいに「しつこい」人間でなければ、もうやめてると思います笑 しかし、遂に、ちゃんとした「ワークショップ」への軌道修正を考えても良いタイミングが得られたのではないか。そう感じてお話をさせていただいております。
実際のところ、これまでずっと「学生の方は経験や知識の不足から匿名ではない発言に躊躇してしまう」「社会人の方は単純に忙しくて時間を割いていられない」という後ろ向きな「空気」が暗黙にこの空間を塗りつぶしていました。実質、一部のこの営みを前向きに捉えてくださっている方の協力だけで、どうにかこうにか形式だけ維持されているのに近い状態でした。今年度を始めるにあたって、従来のメンバーに対してさえかなりキツく厳選の圧をかけましたが、それはすなわち、ワークショップを形式的にも改めて見直すチャンスを得るためでもありました。
いま残っていただいた方ですら、まだ、僕が感じていることを全て同じように受け取っていただいているわけではないと思います。それでも、この状況でここに残って、あるいはそこにわざわざ新しく飛び込んできてくれた皆さんですので、この一年は、僕も皆さんを全面的に「信用」させていただきたいと考えております。そして、僕も全面的にワークショップの形作りを支えていきたいと思っております。
というわけで、専門性の話は後でちゃんとケリをつけますが、その前に、判断の基準を作るためにも、異なる論点として「参加型」という形式について問うてみたいと思います。
ジェイラボで行なわれているこの『ワークショップ』という営みの主体は、主催者か参加者か、いずれであるべきか、ということです。

■アンケート

この場は
主催者が有する知識や経験の「発表」の場である    1
@西住
参加者が準備された議論を「体験」する場である    1
@ゆーろっぷ
主催者と参加者が自由に「交流」する場である    15
@蜆一朗, @コバ, @イヤープラグさざなみ, @Hiroto@chiffon cake, @YY 12, @チクシュルーブ隕石, @Shun@Takuma Kogawa, @Naokimen@Yujin@Yuta, @イスツクエ, @Tsubo, @ていりふびに

■蜆一朗

僕が主催者としてワークショップを行うのであれば、もちろんそれなりに頭を使って準備をするし、参加者にも積極的に参加してもらいたいと思うはずです。ただ、最初から「こういう質問を立てればこういう意見が出るはずだ」という想定のもとでは予定調和になって事前に生産性が限定されかねないし、かといって問いをオープンにしすぎても収拾がつかなくなります。ワークショップから何か利益を得ようということだけに終始すると、発表者と参加者との間に軋轢や温度差を感じやすくなってしまうのではないかと思います。最初にも書いたように主催者側は時間をかけて準備をし、聴衆は初見でその活動に触れるわけですから、どうしても熱量が変わってきます。Hiroto 君も書いていた気がしますが、かけた労力に見合う見返りが欲しいと思うのも理解できます。ただ、これは僕が異常なのだと思いますが、僕にはかけた労力に見合うだけの対価が欲しいという感覚をあまり持っていません (もちろん Hiroto 君の意見への当てつけでもありません)。そういう感覚があれば文系入学して数学を専攻なんてしないし、過去問研究部なんて苦労しかない活動を提案しません。そして何より教育に関心を持ちません。だからこそ、僕の意見は活動に際する実際の負担を顧みないものになっているかもしれません。話半分で聞いてもらえればと思います。

専門性というのは内輪であるということです。視点を変えれば、内輪にアクセスしてくる外部が存在しないかぎり専門家は「ただのよくわからない人」になります。この異物侵入がないかぎり、自分が内輪であることすら自覚できなくなってしまいます。常に外部からの侵入の可能性を感じながら活動するだけでも、自らの閉じこもり具合により自覚的になれると思います。個人的にはなんとか共存しようとする心構えを持ってほしいなと思っています。そしてそれは、専門性を外部に可能なかぎり壊さずに伝えることとは独立させられると思います。活動の細部まで理解させたいと思う気持ちもわかるのですが、それは必要ではなく、「こういう雰囲気でこういう活動をしています」ということを等身大で伝えるのがよいのではないかと思います。聴衆がワークショップに参加するだけのメリットを求め出したら、哲学部さんは哲学部さんでいられなくなってしまいます。数学部さんや物理学部さんも、理解してもらうことを目的に活動してしまうと趣旨が変わってきてしまいます。他者を気にしすぎるあまりに内輪の活動が制限されるのもよくない、という意味では2番の意見にも近いかもしれません。しかしそれ以上に、活動に際して聴衆の目を意識できるようワークショップという場所がよく機能すればいいと思うし、自分が所属していなくてもそういう風に活動に影響を与えているという意味で「ある意味すべての部活に関わっている」という意識が聴衆にも芽生えれば、お互い歩み寄って壁が低くなっていくのではないかなと思います。

  • 蜆一朗
    出町柳から大学に向かう最中に書いた (歩きスマホデメ絶対) ので, 整合性がなかったり誤字脱字があったりするかもしれません. ゼミが終わったらまた見直します.

■Hiroto

昨年度初期〜中期の私は、2や3のための準備の労力を避けるため、1に逃げました。「WS用に作らずとも、部で議論したことを見せて、部の存在感を示せればいいんじゃないの?」という趣旨のアドバイスを所長にされたのをいいことに、それを拡大解釈して、なにも噛み砕かず(噛み砕こうとせず)に、WSに垂れ流していました。
現在1番の選択肢を否定したい理由は、まず一つ目に「主催者が寂しい・虚しい」ということです。これは見返りを求めていると言われればそうなのかもしれないですが、少なくとも僕はモチベが下がっていく一方だったので、大真面目に主張しています。主催者のモチベ減少が良い影響を及ぼすことなどあるわけがありません。「良い・悪い」という部分の必要性まで疑うのがジェイラボ的なのかもしれませんが、そもそも今は「べき論」があえて問われているため、ある程度俗っぽい価値観を受け入れても(むしろ受け入れた方が)"良い"のではないかと思っています。二つ目の理由は、「参加者に何も影響を及ぼしていない可能性が高い」ということです。この二つ目の理由の方がむしろ大事(おおごと)かもしれません。
部の存在を示す。専門的活動の中身ないしは雰囲気を見せる。
これは、「参加者がwsルームを開いて目を通していたとしたら」の話です。正直言って、第一回目の雰囲気で違うなと思った場合、そこからの2週間テキストを読みすらしていない(なんならSlackを開きすらしていない)人が多いのではないでしょうか。それが悪いというわけではなく、片手間かつ強制力がないなら当たり前だと思います。僕は主催側なので、なるべく聴衆側に回った際レスポンスを返すようにしていますが、そうでなかったら目を通しもしていないようなWS(主に自分のですが)がなかったとは言えません。WSがWSたる理由は、双方向性にあると思っています。そこで参加者が"のれん"状態になってしまっているのなら、前も言いましたがWSである意味がないと思います。これは参加者が何かメリットを得る得ないという次元の話ではなく、参加者がほぼいないというそれ以前の問題だと思います。それは解決されるべきだ、少なくとも主催者側が解決する意思を少しは持つべきだ、と主張します。
1番を否定した理由は以上です。それでは2番ではなくどうして3番を選んだのかですが、2番の「体験」というワードにかなりの無理があると感じたためです。時間と場所の共有がない(≒身体の縛りがない)中で、体験などできるのでしょうか。体験させるといった主催者側の意識は、少し参加者に求めすぎている感じがします。ということで、3番を選びました。交流は即参加を意味します。それが何らメリットを与えない参加であったとしても、WSの(僕なりの)定義を満たすためには最低限必要なことだと思っています。

■チクシュルーブ隕石

2つ目のテーマについての僕の意見を投下させていただきます。
まずこの場が1番のような場であるならオーディエンスの人たちは必要なくなってしまうと思います。主催者が発表をするだけならそのような掲示板に淡々と内容を貼り付ければ良く、わざわざ反応する必要すら無くなってしまうと思ったので1番は選びませんでした。
次に2番の選択肢に書いてある『体験』であるかどうかについて考えましたが、僕はこの活動は体験とまでいうことができないと思いました。というのも僕の中で体験するというのはかなり自分に大きな負荷または責任を負ってするものだと思ったからです。例えば数学であれば、発表された内容に対して実際に自分で計算をしてみたり論理展開を1行づつ追って行くことが『体験』であり、自ら負担を負わずに結論を知ることは『体験』たりえないと思います。以上のことから2番も選びませんでした。
最後に3番についてですが、交流については概ねhirotoさんと同意見です。参加することと交流することはほぼ同義と言っても良いと考えたため3番を選択しました。

■Takuma Kogawa

3が望ましいと考えますが、一年間在籍しての現状認識は1が最も近いかもしれません。
一般的な意味のワークショップはテーマに賛同する受講側が参加希望をして参加費を払いますので、参加する意欲のある集団が形成されています。その前提で講義をするなり共同作業をするなりができています。一方で、ジェイラボのワークショップは参加希望のステップがなく(テーマに関心がなければ一般的なワークショップに参加しないように)、主催者以外には温度差があると考えられます。年を食った人間として、多数派である若いみなさんと異なるコメントを出せればいいなと思い続けていますが、すべてのワークショップに一定以上の関心があったわけではありません。別の言い方をすれば参加するつもりのなかった回があります。
私は一度も主催者になっていないため、主催側のテーマ設定に文句をつけることはありません。難しい議論も追いかける努力はしたうえで「あまり楽しめない回だったな」と一人思い返すことがありました。学会発表をただ眺めているような感覚だった回もあり、そのときは体験も交流も感じていませんでした。主催者がtake、参加者がgiveできるようなワークショップを一緒に構成できるとうれしいです。少なくとも私はワークショップで知識を得ようとは思っていない(それは基礎教養部に期待しています)ため、体験よりは交流がいいですね。

Day3

■にしむらもとい

ご意見ありがとうございました。
ワークショップの主体がどこにあるのか、そして、アンケートで提示した「発表」「体験」「交流」いずれに寄せるべきなのか。一つ一つ潰して検討してみたいと思いますが、大前提として、Kogawaさんが指摘してくれたように、皆さん全員がワークショップに参加すること自体折り込み済みでジェイラボに所属してはいるはずですが、各ワークショップで扱われる実際のテーマそのものについては希望に沿っているわけではないという事実があります。つまり、
自分の興味、好奇心、目先で自分の何らかの利益になるという計算から離れて、専門外の、しかもアマチュアの話を聞かなければならない
ことになります。この状況をまずしっかり想定して欲しいと思います。その上で、ここで何ができるのか、以下、検討してみます。主催者側、参加者側双方に一定の学びを生むためにはどうすべきなのか。僕がゴリゴリに意見を押し付けることになるとは思いますが、一緒に議論を追ってみていただければと思います。
case1:発表
主催者の発表の場であることを重視する。おそらくこれが最もその場で提示される知識レベルが高まる方針だと思います。と同時に、最も得られる学びが双方ともに小さくなる方針だろうとも思います。主催者側は確かに発表のために一定の準備をして情報を整理するので、準備作業程度の学びは成立すると思います。しかし、専門性そのままに発表するだけであれば、参加者が専門家ではないがゆえどうせテクニカルなツッコミも出ないだろうし、わざわざこの場で出力することに追加で多くの手間をかける必要も認めないでしょう。要するに、「専門家同士での研究会ではない」この場は、情報をそのまま出すなら主催者からすれば単なる学習記録を吐き出す程度の場にしかならないと思います。ナマの塊のまま触れた専門外の知識に対して、その場でそれなりの密度のツッコミを入れるなんて、かなり特殊な能力がなければ普通はできません。結果、この方針でいくなら、ワークショップを主催した側の人間が、少しばかり自身の知識を整理し、反応が薄いなりに「進行を担当するという行ない」からいくばくかの経験を積む、その学びを得るだけで、実質的な参加者を生むこともなく終わることになると思います。客観的に見るなら「提示される知識レベルが最大化される」という部分にだけ唯一価値はありますが、やはりわざわざ専門外の人間を巻き込んでやることではないように思います。
case2:体験
参加者の体験の場であることを重視する。僕はこの状況こそが最も学びの実りがあると考えています。身体的な縛りがない中で参加者に体験を求めるというのは主催者の勝手な願望で、それは求めすぎであり、机上の空論である。そういう意見も出てましたね。もっともな意見だと思います。この話を詰めるには、また例によって「体験」という言葉の定義を確認しなければならないようです。この言葉の意味を詰めるためには「経験」という言葉も持ち出して並べて比較するのが手っ取り早いと思います。具体的な使用例をいくつか考えてみればなんとなく違いは浮き彫りになるのではないでしょうか。
経験値とは言いますが体験値とは言いません。
経験論とは言いますが体験論とは言いません。
逆に臨死体験とは言いますが臨死経験とは言いません。

どうでしょう。多少なり一般化されたのではないでしょうか。経験という言葉は、情報の入力だけでなくそれが大なり小なりの力となって身に付くというところまでを射程にしていると思います。経験を積むということですね。体験は積めません。体験は、その一回きりの情報入力というニュアンスです。初体験は初経験とは言いません。初体験程度では、まだ経験と言えるレベルには届いていないようです。そうした定義において、僕はこの場で参加者に何としても「体験」をして欲しいと願っています。主催者にはなんとかして参加者へ「体験」を与えてあげて欲しいと願っています。たとえば、どのようにすればこのような縛りのユルい(身体経験を強要できない)オンラインのチャットスペースで「体験」を起こし得るでしょうか。
ジェイラボに集まってくれている皆さんは、少なくとも外の一般社会と比べれば、「文章を読む」ことへの抵抗は比較的少ない人間ではあるはずです。ですよね?(圧力) 僕自身がそういう情報発信をしている中で集まってくれた人間ばかりですので、そのはずです! なので、この場にいる人間に対して、最低限共有している「前提」として認めて良いものは
自然言語で書かれたものについては読解する意志がある
ということだと思います。この前提すら崩してしまうと、もうこの場でできることは何にもなくなってしまいます。つまり、専門性は排しても、文章の長さは排さなくても良い。これはかなり大きなポイントと思います。ですから、僕がこの場での体験として提案することは、
自然言語で記された「物語」を読む
というものです。そして、物語に深く入り込んだ時に、場合によっては自分からその物語へと自然と干渉したくなることもあるでしょう。物語をただ読むだけで何も手を出さぬまま満足することもあるでしょう。とにかく、参加者を物語の中へ引きずり込むこと。主催者はそれを目指して準備をするべきではないかと考えています。究極的には、参加者の誰からも明示的な反応がなかったとしても、主催者が「きっとこの物語は読めば読者に届く」と信じてこの営みを主導することができたなら、たぶん虚しさは発生しません。主催者に虚しさが発生するのは、「届いていない」からではなく、「届かないと諦めている」からです。この営みを提案した張本人である僕が全WSにいっちょ噛みして口を出しまくるというのも考えましたが、やはり一定の責任は各自に投げないと僕ばかりが経験を積むことになって組織として得るものがなくなるので、各自の創意工夫でやって欲しいという気持ちは大事にしたいです。
この形式でのWSを想定した当時の僕の中での理想形(に近いもの)は、一応表現研WSとして『倍速視聴といふこと』の回で示したつもりではありました。あの回がはたして目立って議論が大きく盛り上がった回だったかというと、この試みには比較対象がありませんので判断は難しいですが、少なくとも「物語の提示」という部分はそれなりにクリアできていた回だと思います。もっとも、表現研で扱っていた内容は「専門性」ではなく「趣味性」であったため、比較的物語を作りやすかったというのはあります。全ての部活動のWSにおいて同様の形式を目指すことにこだわる必要はないと思いますが、主催する側の分量、熱量としてはこれくらいのものを「事前に準備しておく」ことは重要な気がしています。せっかく専門性や趣味性が高い人間が何かの情報発信をするわけですから、全体の枠組みのデザインは参加者に依存せずに自分たちで作っておいた方が価値あるものになるのではないでしょうか。結果、後からログを読み直す時にも次に述べる「交流」が主体であるよりも、物語を読むという「体験」が準備されていた方がずっと興味を保ちやすいと思います。
case3:交流
主催者と参加者の交流の場であることを重視する。多くの方がこの方針を支持しておられました。いきなり物議を醸して恐縮ではありますが、僕はこの方針にはかなり懐疑的な立場です。双方向的な交流というのは聞こえは良いですが、そこから果たしていかほどの「学び」が生まれるのかには疑問があります。交流を主軸に据えるのは、参加者の意志が反映される余地が大きすぎると思います。なるべく参加者に興味を持ってもらえることを扱おう。それはわかります。そのために、たとえば参加者が興味を持っているテーマを事前にリサーチするのは良いと思います。ですが、WSの期間中の交流、触れ合いを重視しすぎてしまうと、表現の部分で専門性を排するだけでなく、内容そのものも参加者に引きずられてしまうのではないでしょうか。マーケティング的な最適化をやりすぎると、内容が本当に『YouTube大学』みたいになってしまいます。WSとしてどんなテーマを選ぶか、そして、それをいかに日常の言葉で物語化するか。受け取り手への「媚び」という表現をすくい取るとしても、「そこまで」だと思います。実際の内容の構成にまで「媚び」の要素を入れるのは、わざわざ「長文を投下しまくっても許される場」を苦労して整えたにしては、かなりもったいないと思います。参加者との交流の記録が果たして、その後ログとしてどこまで価値を持つのかも、なかなか怪しいものがあります。昨年度は、研究員同士の交流の要素がシステム的にもあまり準備されていなかったため、WSもひっくるめて交流の場としてとらえようというのはとても自然な感情だとは思います。でも、「ワークショップ」という名を冠するなら、多少元々の「体験」の定義からはズレるとしても、それでもやはり「交流」に逃げずに「体験」の要素を準備するべきではないでしょうか。以前、竹中工務店が神戸に開設している大工道具館という博物館に甥や姪を連れて行ったことがあります。その時に「一緒にお箸を作る」という木工ワークショップに参加しました。世間一般でのワークショップとはだいたいこのようなものでしょう。僕としては正直お箸を作ることより、その場で大工道具に詳しいおっちゃんに大工道具の歴史などを詳細に質問して「交流」することの方が楽しかったですが、甥や姪には「お箸を作った」という体験しか残らなかったはずです。専門外であってもある程度のリテラシーがあれば「交流」に意味は生まれます。先ほど、参加者に「体験」を求めるのは求めすぎという意見もありましたが、僕は参加者に「交流」の意義を成立させるリテラシーを求める方が求めすぎな気がしています。Kogawaさんが言っておられたように、交流によって「参加者側が主催者側にgiveができる」ような場になれば、それはとても素晴らしいとは思いますが、現実的にはそれができるメンバーはまだ一握りだと思いますので、いずれそうしたメンバーが多く育ってきたと感じることがあれば、また新たな形も検討したいとは思います。あるいは、リテラシーなどなくても、そもそも交流自体素晴らしいものじゃないかという意見もあるかもしれません。それは、もう、D号棟でやれば良いのではないでしょうか。そのために整備したわけですから。わざわざこの場で専門家や同じ趣味の集団が、一定の労力をかけて枠組みを準備するのです。僕としては、「語り合い」ではなく、強い独自性を持って物語の「一方的な語り」を聞かせて欲しい。そう感じます。
というわけで、一方的に僕なりの物語をめちゃくちゃ語りました笑 後もう一つだけ聞きたい項目がありますので、今日そのアンケートを取ってから、明日以降最終結論に向けて詰めていきたいと思います。全ての議論ともまだ閉じてはおりませんので、引き続きどの論点に関してでも、ご意見お待ちしております。

■にしむらもとい

後、もう一つ聞きたいことというのは何かと言いますと、WSに対するリアクションを義務化する案はどうかなという相談です。ひと世代前に個人でWSやってた時代には、WS後に僕が所長所感という形でリアクションを記事にしておりました。そこまで大袈裟なものでなくとも、単にわかりやすかったとかわかりにくかった程度の感想でも、WS終わって参加者から何らかリアクションがもらえるとなれば、主催する側にも意欲が生まれると思います。導入するなら、一番簡単な形式としてはWSログのまとめが上がってから各自がnote記事として軽い感想程度のものを上げる感じで十分かなと、ふんわり考えています。考え次第ですが、たとえば部活動に積極的に参加していない立場の方などには普段自身の意見を吐き出す場所が少ないため、こうした試みがそれこそ「交流」の機能を部分的に担えるような気もします。僕は無限に文章書ける人間で、文章書くことを課されても全く苦に感じないため、それを義務化した場合にどの程度の負担なのかが、正直想像できません笑 まだ思いつき段階ですが、導入を検討する前段階としてアンケートを取ってみたいと思います。

■アンケート

【匿名アンケート】WSへのリアクション記事を研究員に義務化するという案について、義務化は
あった方が良いと思う    14
ない方が良いと思う    4

■Hiroto

(今回のアンケに関する語りはこのスレッドに埋めます。匿名であることにも意味があると思うため、僕の意見をはじめは見ないで投票していただくのが良いと思います。)
多分僕の中には一方向か双方向かの軸しか存在しておらず、その一方向性が昨年度あまりに評判悪く手応え悪かったので、じゃあ双方向にしてやりましょう!!という若干の開き直りもあったのですが、所長の文章を読む"体験"を通じて、なるほどなと感じる部分がありました。
さすがに長い文章を読むくらいのリテラシーを持っているというテイで進められるように、コミュニティの人間を厳選したという側面もあるのかもしれません。部外の人間のリテラシーを信じて準備を進めることを少なくとも主催側の意識としては手放していた(文字通りリテラシーを信じていないわけではなく)のですが、そこを信じて良いとなるとだいぶ楽になります。長文を読むという行為そのものが、こういった形式で主催者が参加者に与えられる身体的拘束である、というのは非常に納得がいくものでした。体験させるなんて無理だろうという諦めが僕を苦しめていたため、解放された気分です。
数学で物語作るのはだいぶ僕にとって難しい(というよりも、そういった類の数式なしで自然言語でごまかした数学の記述が好みではない)ですが、所長もおっしゃっている通りどうせこちらの主催側も専門家でもなんでもないので、専門性を勝手に背負わず、気負わず、自然言語長文数学物語を書いていく心づもりになりました。

  • Hiroto
    僕は1を選びました。結局Case2を選んで長文を投下するにしても、相手の顔が見えないこの形式でそれを延々と続けるのが難しいためです。WS主催は義務は義務なので淡々と実行すれば良いのですが、どうせならリアクションもらって楽しみたいので、主催者側として1番を推します。参加者にどれくらい届いているのかを一言でも確認できるだけで、どれくらい我々がリテラシーを求めて良いのかという問題も解決に向かうと思います。
    オーディエンス側としても、そのくらいの義務があったら後からでも追い直そうとすると思いますし、それによって見過ごしていた学びや気づきがあるかもしれないと思うと、プラスがあるように思います。しかし、それが負担になってジェイラボそのものから離れていくみたいなことが起こってしまうのは本末転倒であるため、字数の下限などは定めず、一言でも良いから何か具体的な内容についての言及をしていただく、という形式が良いと思います。

  • Hiroto
    「WS中に発言する」ということ自体がもしかしたらハードルなのかもしれない、ということも考慮しました。流れと関係ないこと言ってもいいのかな?とかいろいろ考えてしまって発言を躊躇するというのは分からない感覚ではないため、note記事によるある種の自分語り(独り言)ならその制約がなく伸び伸びと書いていただけるかなと予想しました。たまたまWSの2週間が激務で追えなかった!みたいな場合でもこれなら対応できるため、身体的制約の無さをむしろ利用してやれる仕組みだとも思います。

  • Hiroto
    「媚び」については、嫌々ながら葛藤の末するべきなんだろうな〜という意識だったため、そこまでしすぎなくて良いよというのは主催者側としてはむしろ助かります笑。専門性を排すという時点でだいぶ媚び(「サルでもわかる」の失敗作にならないための労力の面で)なので、その分思う存分自然言語で語り散らしていくというのは、良いバランスだと思います。

  • Hiroto
    形式がnote記事かどうかはあまり気にしていません。Naokiさんのおっしゃるように、ほかにそれ用のチャンネルを作るなどでも全然良いかと思います。むしろnoteだと分散してしまうという意見も一理あります。主催側が反応を追いやすいか、参加者側が人目を気にせず投稿できるか、たまたまnoteを見た外部の人が面食らわないか、などなどさまざまな因子があると思うため、参加者の方からなにかしら具体的なリアクションはいただきたいという意思は変わらずとも、形式に関しては今後の議論ないしは最終決定に委ねたいと思います。

■Naokimen

なんらかのリアクションをしてもらうようにすることには賛成ですが、note記事にまではしなくてもいいかなと思います。既に部活動参加者(D号棟の民)に義務を課していますし(課す予定)、こちらのSlackの方ではそこまでの義務を課さなくてもいいような気がします。また、各個人がnote記事に書いてしまうと情報が散らばってしまう(外部に公式に出すものは部長のwsまとめ1つで十分だと思う)ので、するとしたらnotion内かこのSlackに感想等を書き込めるところをつくって書き込めるようにするという方がいいような気がします。もしくは、「各wsで1人少なくとも1発言することを推奨(最終日に感想を述べるのでも良い)」くらいでいい気もします。

  • にしむらもとい
    (仮にやるとして)
    note記事だと情報が散逸するという方法論の問題は、ハッシュタグをルール化すれば解決するとは思います。ハッシュタグを各WSに一意に割り当てれば後から記事をまとめて参照することは容易と思います。いちいち管理するの面倒なのでそういう雑な扱いを想定しました。WSは今のところジェイラボにおいて外部公開前提の数少ないコンテンツなので、可能性はしゃぶり尽くしても良い気はしてます。そのついでに #JLAB タグをnote上に無限増殖させるのにも一役買う気もします笑

  • Naokimen
    たしかにnoteにハッシュタグをつけるのが一番管理が楽ですが、notionとかに1箇所にまとめた方が整理されてて良いような気がします(note記事に書いた場合はリンクをそこに貼るとかして)。
    個人的に、少なくとも院試が終わるまでは2週間に1回note記事を書くのはまあまあ負担かなと思っています。

■ゆーろっぷ

うだうだ悩んでたら議論が先に行ってしまっていた笑。2つ目のアンケートの投票理由(と意図せず書いたWSへのリアクション義務化云々にも関わること)をスレッドに埋めたいと思います。所長の投稿を見る前に書いたもので、推敲もしてません。すみません。できれば見直したいと思います。

  • ゆーろっぷ
    あえて2を選んでみました。個人的には、2をベースとして、その上で3の「交流」の場を作るというのが理想的なのではないかと考えていますが、投票の状況を見る限り多分僕は異端派(過度に理想主義的とも言える?)ですね笑。とはいえ、とりあえず意見を投下してみます。
    前提として、主催者と参加者の間にある、ある種の「非対称性」について触れておきたいと思います。主催者と参加者、この二者間には確実に、熱量の差や知識量の乖離があります。特に、題材が専門的になればなるほど乖離は大きくなるはずです。この状態で「主催者と参加者で交流をしよう」と言うのは、いわば「異国の地に一人で行って現地の人と交流してこい」と言っているようなものだと思います。現地の人がいくら歩み寄ってくれたとしても、多くの人にとっては、文化の違い──より正確には、無意識下の知識体系(スキーマ)の違い──がネックとなって、積極的なコミュニケーションをし、それを通じて学びを得る、というのは難しいのではないでしょうか。
    対して、主催者がある程度議論の流れを用意し、参加者がそれを追体験するというのは、いわば「ツアーガイド付きの観光」です。ここでの「ツアーガイド」は主催者、参加者は「観光客(お客さん)」というふうになるでしょうか。このシステムの利点は、ワークショップで扱われる(時に専門的な)題材を「観光地化」することにより、そこに興味を持って参加し、何かしらの学びを得ることへのハードルが低くなるということです。そして、重要なことですが、ここでいう「何かしらの学び」は、専門的知識のこととは限りません。専門知識を得たければ、その部活動に入るか、専門書を読んだ方が「効率的」です(Kogawaさんも指摘している通りです)。この場が「観光ツアー」を提供する場所であることの意義は、そのようなある種の「効率重視」でない学び──「弱い」学び──を得ることができる「可能性」を生み出すことであろうと、個人的には思います。蜆さんが「専門性というのは内輪であるということ」と表現していますが、この「可能性」は、専門に入れ込めば入れ込むほどゼロに近くなっていき、また、外部に対してそれを提供することもなくなっていきます。扱う学問が専門的であればあるほど、それを「観光地化」してみることは、より価値のある、独自性の高いものになるはずです。また、ツアーガイド自身も、「観光客」からのある意味で「軽薄な(この言葉にはちょっと語弊がありそうですが)」質問を、自分の「弱い学び」としてフィードバックしていくことができるのではないでしょうか。
    これに対して予想される一番の反論は──Naokiさんが既に指摘してくれていますが──その題材が「お遊び」となってしまうことでしょう。「観光地」というのは要するに、オリジナルの「コピー」です。これは、「難しいことはきちんと難しく」という(特に専門に対して真摯に取り組んでいる皆さんが持っているような)考えとは完全に相反します。さらに専門的であればあるほど、それを「観光地化」するのは難しいし、労力がかかります(このような問題が存在するにもかかわらずこの意見を主張しているのが、僕自身を最初に「過度に理想主義的」と表現した理由です、反論は自由にしていただいて構いません)。ただ、せめてコピー(紛い物)になることを恐れない、そうしないと伝わらないこともあるのではないか、ということくらいは主張したい次第です。
    もう一つネックとなるのは、「体験」が可能か、という問題です。ここはオンライン空間なので、現実の観光と違い「身体」を拘束することができません(Hirotoさんが指摘してくれています)。このこと自体はどう足掻いても解決することは不可能です。そうすると、せめて「時間」を拘束する、という選択肢しか取れなくなります。言い換えれば、ある程度、WSの参加に対する強制力をつける他ないということです。
    極端なものであることは承知ですが、その仕組みの一つとして考えられるのは、WSの「休止期間」を設ける代わりに、WS期間中は他の活動を制限し、WSに関わる時間を強制的に増やすということです。さらに、各人がWSに参加するだけでなく、部活動単位で話題を共有し、「弱い学び」のための「軽薄な質問」を「全力で」考えてみる、ということも面白いかもしれません。旅行も一人で行くより大人数で行く方がハードルが低く、また盛り上がるのと同じように、グループで参加するシステムを作るというのも一つの方法かなと思います。

  • Takuma Kogawa
    にじみでる東浩紀感。

  • にしむらもとい
    にじみでるどころではない笑 使いこなしてますね。

  • ゆーろっぷ
    自覚してます笑(観光のアナロジーが使いやすすぎるのが悪い!)
    意見投下できなかったのも東思想が強すぎたからからですが、もういいやって感じで開き直りました() もう少し「自分の意見」が言えるようになりたい。

■Takuma Kogawa

枝葉の部分で恐縮ですが、ワークショップ各回に対するリアクションを義務づける場合は、そのリアクションをまとめてログの最後に記載するのがよいと思います。個別にnoteに書くことは外部に発信する練習になりますが、固有のタグをつけるとかジェイラボタグで塗り潰すような感じはなんかイヤだな、という感覚です。

  • にしむらもとい
    まぁやるとなってから決めれば良いことですが、テクニカルな部分で、全部初めからガッチリログと紐つけるのはログ作成時にリアクションが全部ピタッと揃うか怪しいのと、揃わなかった時にその後の管理が非常に面倒くさいと思います。書評でさえ管理がどれほど大変だったか笑 タグで「塗り潰す」と言ってるのは冗談半分ですが笑、 固有のタグを割り当てて情報整理するのは他のクラウドメモなんかで僕は普通にやってるので普通の感覚と思うんですが、イヤな感じというのはどういう感じ方なんでしょうか。自身の名義での情報発信に制限をつけて欲しくないという感覚でしょうか。

  • Takuma Kogawa
    ジェイラボ全体としての活動を発信するなら、ログの数を減らした方がシンプルでよいのではないかという考えです。書評などの個人での発信はみなテーマが異なるためタグのついた投稿数が増えるのは自然だと思います。CCに入れられたメールで細かいやりとりがたくさん届くとイライラするという個人的な性質が関係していると思われます。

  • にしむらもとい
    あー、そっちですか笑 ありがとうございます。なんとなくイメージできました。また後で考えることにします。

Day4

■にしむらもとい

さて、昨日のアンケートの投票数が少ないので本日は少し足を止めて、新しい議論は追加せず中休みの日とします。足を止めている間に、ちょっと箸休めの軽い議題を。
以前、匿名で意見を投稿できる仕組みの導入を検討していた時期がありました。WSルームあるいは別なチャンネルで匿名投稿を可能にする仕組みを導入することは、このジェイラボという特異な空間において何かしらコミュニケーションの問題にポジティブな作用があると思いますか?
ある 1
ない 14

■コバ 

以下、私のWSに対して現状考えていることをアンケートの解答と絡めながら投稿します。
まず、今年度のWSの進め方について今度「どう進めていくか」ということを話し合うのが今回のWSの議題だと思います。
そしてこの「どう進めていくか」を考えるために、私はまず「現状の確認」から始めることを提案します。
「現状の確認」
①今年度のジェイラボの状況
・基本的にワークショップに参加するラボメンは部活動へ所属、参加している。
・部活動へ所属していない方はSSサポーターとして参加している。
・Facial Dの登録
②タスクの確認
・基本的には部活動へ参加しているので、公式から+その部活動ごとのタスク有り
・部活動所属無しの方は上記無し
・基礎教養部書評
・WS委員はWSの進行
上記を鑑みると、所長のおっしゃられる通り、所長の「この場は」のアンケートの[1]主催者が有する知識や経験の「発表」の場であると、[3]主催者と参加者が自由に「交流」する場であるは、部活動内ですれば良いと私も思いました。
[2]参加者が準備された議論を「体験」する場であるについて
ジェイラボの歴史はWSの歴史と言っても過言ではないかと思います。
これまで様々な手法、形式が提案、トライ&エラーが繰り返されてきました。
その中では、私のWSの一つの在り方のアンサーは第20回WSの「ミニマリズムについて考える」です。
『「ミニマリズム」という「非日常」をラボメンの皆様に思考、想像していただきながら、ゼロベースな思考に基づき、思考、意見の交換をしてもらいたい』というのがそのWSの設計思想でした。
しかし、個別のケースを1つの「型」として持ってきて、その「型」通りにしようとしてもなかなか上手くいかないのがWSの難しい(また面白い)ところで、それはWSが活性化するかはその時のジェイラボの状態と密接に関係があるからだと私は思っています。(そのために「現状の確認」も行いました)
その意味で、所長の仰られる、WSを「参加者が準備された議論を「体験」する場」として各部が準備する、そのWSの在り方を「今期のジェイラボ」で目指してみるのは私としては非常に面白そうだと感じました。
ただこれは単純に好き嫌いの問題だとは思うのですが、私はジェイラボの面白いところは様々な経歴を持っている人達の中で意見が交換される中での「化学反応」、つまり想定外の事態も含めてジェイラボが好きなので、その1つの可能性の場としてのWSを(部活動はそもそもある程度その部活ごとの専門分野に関心がある方が集まっており、WSほどのごちゃ混ぜ感は無いため)、所長の仰られる「一方的な語り」に振り切ってしまうというよりはある程度「化学反応」の要素は残しておきたいと思いました(これはWSの主催者の裁量でコントロールできる範囲だとは思うのですが、一応私の「WSの好きな部分」は残しておきたいな〜という気持ちの部分の話です。)
なので、そこから考えていくと「専門性」の範囲も、物語を読むという「体験」の範囲内の「専門性」という話になってくると思います。
つまり、スタートとしては素人にも分かる範囲内の専門性で、その「体験」、「物語」が終わったときに少しだけでも新たな「学び」につながっているという状態が理想だと思います。よって、その範囲の中の専門性は「保つ」ということになります。
そう考えていくと、
【匿名アンケート】WSへのリアクション記事を研究員に義務化するという案について、義務化は
のアンケートについては、義務化は自然なこととも思います。「体験」というのは、発信者側と受け取る側、両方がいることで初めて成り立つことでしょう。
とはいえ「現状の確認」をした通り、今年度はそもそものタスクが結構ありますので、工夫は必要かと思います。
例えば、WS2週間、体験記事作成の1週間、合わせた3週間を1つのWSのサイクルにする等。これはあくまで1つの案で、WSを3週間制にすることによりその分年間で回せるWSの回数が減るというデメリットがありますので、そこの具体的な仕組みの調整は後の議論に譲ります。
また、上記で述べたように『「体験」というのは、発信者側と受け取る側、両方がいることで初めて成り立つこと』とするならば、記名性の方が受け取る側も自ずと主体的となるため、匿名投稿を可能にする仕組みを導入することはこのジェイラボという特異な空間において(もっと狭めると今年度のWSにおいて)何かしらコミュニケーションの問題にポジティブな作用は「無い」という結論に達すると思います。
以上、アンケートの回答に絡めながら私の考える今年度のWSの在り方について投下させていただきました。

Day5

■にしむらもとい

コバさん、ご意見ありがとうございます。いままさに、そろそろ意見をまとめようとしていたところなんですが、まだ異なる論点を提示いただける可能性もあるかもしれないと思い、もう1日だけ待ってみようと思い直しました。異論というほどでなくても、まだ意見いただいていない方は、ご自身の立場を簡単にでも表明しておいてもらえたら助かります。この場での発言には-100から+100までの評価が与えられてランク付けが為されるというわけでは全くなく、単に0か1かなので、無発言だと0のままです。よろしくお願いします。
一応、土曜日に僕からの意見をある程度まとめて投稿させてもらって、日曜日までに明確な異論が出なければその方向でいかせてもらおうと思います。明確な異論が出て議論が紛糾した場合(とても喜ばしいことです)は、延長戦をするかもしれません笑

Day6

■にしむらもとい

さて、そろそろWSの方向性についてケリをつけないといけませんが、一昨日にふわっと置いた【匿名記名】のアンケートについて、最後に少し触れておきます。

「匿名で意見を投稿する意義」について記名で投票を求めても、そらもう「匿名要らん」側にしか投票されないのはわかりきっていました笑 票が集まれば集まるほど一層その空気も強くなりますね。
これは明確に意図があって敢えてそうしたんですが、現時点で投票いただいていない方というのは

積極的な意味で匿名でのみ意見投稿したいと感じている
消極的な意味で記名での意見投稿を面倒に感じている
単に多忙(という名目)で目を通せて(通して)いない
何らかの自身のこだわりによって回答する質問を選り好みしている

だと思います。他のアンケートの投票状況と照らし合わせることで、概ね各研究員のこのWSへの参加モチベーションが測れます。すいません、勝手に測りました笑
単に多忙と推測される方はいずれ遅ればせながら目を通してはもらえると思いますので、現在検討しているような「WS終わってからの全体的なリアクション手段」を何らか準備すれば、そのうち手が空いた時に後追いでコメントする程度の作業はやっていただけるとは思います。それ以外の方については無理に義務を課してもどうにもなりません。正直、そうした方々に対しては僕も昨年度は完全に諦めてましたが、今年度から部活動に参加いただく方も増えると思いますので、せめて「主催者側での参加を体験」してもらう中で、WSへの参加意識を変えてもらえればと思っております。
そもそもこのWSという営みを、レイヤー的にD号棟より一つパブリックに寄せた所に配置してあるのも、意図があります。D号棟は今年度はそこそこ内輪の義務で回る場になると思いますが、WSという場では少なくとも参加者に望まない義務は極力課したくないと感じてます。WSを主催することで、ある種「運営」する側の気持ちを体験して欲しいと感じてます。ジェイラボをコミュニティとして始めた一年目からメンバーには「情報発信者」であって欲しいと願い続けてきましたが、なかなかそれも伝わりません。せめて、この閉じた場において自分が主体となって情報を発信する経験を積んで欲しいと願っています。
僕の狙いとしては、このWSという場は、実は参加者のためではなく主催者側の目線で準備したものです。当初のWSが個人担当で発表をしてもらうという形式であったことも、それが理由です。訓練としての情報発信者養成所のような意味合いを込めました。それは、いまとなって参加者として参加する場合も同じことで、情報発信者としての自覚があれば参加動機も大きく変わってくると思います。
で、話を戻しますが、さしあたってのこの場での匿名意見投稿については、当然僕も否定的な立場です。昨年度は、部活動もまだ始めたばかりで、運営の手数に入れられる状態ではありませんでしたので、少しでも場の活性化に役立つかと、匿名botみたいなのを導入しようとずっと検討しておりました。今となっては、もうその導入は未来永劫なさそうです笑

■にしむらもとい

【これからのワークショップ】
では、これからのワークショップをどうするか問題、片付けてしまいましょう。
二日目に問うた「発表・体験・交流」の形式の問題に対するアンサーで、僕からの意見は提出済みであろうとは思います。ついでに、「偶然」にもほぼ同内容の意見を「東浩紀」文脈で語ってくれたゆーろっぷ君の「弱い」意見も参考になると思います笑
もう一つのヒントは初日のアンケートにおいて、「自分が主催者側なら専門性はなくしたいが参加者側なら専門性は保っていてほしい」という、立場によって意見が異なった方もいたことです。その逆は一人もいなかったことは、大いに注目すべきポイントと思います。まずこの事実を議論の足がかりとしてお借りしましょう。
おそらくこれは以下のような意図に基づいていると思います。

自分が伝える側なら、専門外の相手にも伝わりやすい形にしてあげたい。その努力は自分で負う。
自分が伝えてもらう側なら、専門外のことであってもごまかしなくそのまま伝えてほしい。それを解釈するための、その努力は自分で負う。

悪く受け取らないで欲しいんですが、これは能力の高い人によく見られる傾向であろうと思います。強いて分類するなら、自身の能力への強い信頼に基づくある種のプライド、エゴを反映した意見です。もっとも、普通の人なら逆に感じるかもしれません。それはそうです。だって、

その努力は自分で負う。

と言っているわけですから。それが何故エゴなのか。むしろ、その逆の方がエゴではないのか。しかし、一般論としては、これこそが能力主義の根源であると僕は感じています。(この辺りの議論は翌週扱う予定です)
自分の人生の責任は当然自分の努力で負う。そして、多少なり自分から周りの他人に対して何かしてあげられることがあるなら、それも自分の努力で埋める。自分にはその能力があるから。それは、「世の中を自分の能力で線引きする」ということでもあります。では、自分の努力で溝が埋まらない時は?

そいつが悪い。

少し極端にデフォルメしてお話をしているだけですので、あくまで一般論としてお聞きください。そして、その意識を変えるというのは、全く簡単にできることではないと思います。僕自身、20代前半くらいの頃は、おそらくここにいる誰よりもスーパーエゴイスティックで、自分の能力を過信し、自惚れ、世の中を舐め切っていたと思います。正直あの頃の僕がいまこの場にいたら、皆さんを小馬鹿にするような発言しかしなかったと思います。それでも、いまとなってはその意識は変わりました。それは僕自身が絶望的な「挫折体験」をしたからです。そして、そこまででなくとも、何らかの「体験」が発生すれば、多少なり意識は変わり得ると思います。僕がここで為すべきこと、為し得ることは、みなさんを無理矢理に折伏することではなく、体験を準備して、意識を変えるきっかけを作ることだけです。そのための一つの場としてWS空間が設定されています。
先の投稿において、僕は主催者が物語を準備し、参加者がそれを体験することで学びが得られるはずと述べました。皆さんは、その時にこの空間では「参加者こそが主体なのだ」と僕が主張していると感じたと思います、僕もそのように書きましたから。もちろん、それは正しいです。しかし、僕が皆さんに真に願っていることは、「『参加者が主体となる』空間を主催する」主体となって欲しいということです。僕にとっては、皆さん全員が「まだ参加者」だからです。この数年間、どうあがいても皆さん全員が積極的にこの場に参加してくれることはありませんでした。それは、小規模ながらもこの場が一応「舞台」としての体をなしているからだと思います。木工ワークショップに参加して、参加者Cとして隅っこの作業台で淡々とお箸を作る体験をするのとは違い、ここには明確に「観客」がいます(「観光客」とは違います笑)。それが積極的に意見を投稿してくださらない皆さんの送信ボタンを押す最大の阻害要因と思います。それは、もう、口でいくら伝えても、無理に義務を課しても、本人の意識が変わらない限り、絶対に強要できないことです。もちろん、何もそこまで必死になって参加するようなことでもないだろうという意見も尊重します。ですから、せめて主催者側となった時に、今述べたような「体験を提供する場を主催する体験をする」メタ体験をして欲しいと願っています。
そう考えた時に、専門的な議論をそのまま加工なしにこの場に投下することは、参加者だけでなく主催者にとってもほとんど何の「体験」にもならないということは共感いただけると思います。専門知識を正しく伝える啓蒙活動がしたいのであれば、その舞台(ステージ)はこの場ではないということです。そう、それは、この場で情報発信の訓練をしていただいた上で、今度は各自で外を向いて実践してもらえればよいことです。この場が「体験」の場であり「訓練」の場であることをご理解いただければ、この場から専門性を排することは自然な流れとご理解いただけるのではないかと思います。
僕が「一方的な語り」を前提として皆さんにお話したのはそういうことです。最後に、コバさんが良い論点を提示してくれましたんで、違う角度で議論を追加しておこうと思います。
一方的な語りに振り切って準備することで、議論を型にはめてしまうことは参加者がごちゃまぜであるがゆえに起こり得る化学反応を阻害してしまう。あるいは、そもそも準備した型にはめようとしても実際にやってみると全く違う方向に行ってしまうこともあり、それが面白いところなので、型を準備しすぎるのはこの場の良さを消してしまうのではないか。
この意見は、実際にこの場を何とかしようと試行錯誤を重ねてきた経験に基づいた、とても貴重なものです。これは、捉える側の意識の問題で、コバさんも裁量の問題と言っておられますが、僕が言う「一方的な語り」の中にも化学反応を取り込むことができる程度の余地はあると思います。
これも先の意見の中で少しだけ触れましたが、割と重要なポイントとして、参加者は基本的にそのテーマに関して素人である可能性が高いことと、舞台で役割を演じる(情報を発信する)ことに慣れているプロの演者ではないということが挙げられます。そこに関しては、司会進行側ですらそうなので、本当に素人同士が準備なく限られた時間の中で言葉を交わして、それが本当に化学反応を起こすまでに至るのかという問題に行き着くと思います。特にジェイラボの哲学部というのはゼロベース思考というのを重視して活動されてますので、この問題は永遠について回ると思います。
僕自身も、哲学とは何もこれまでに先人たちが体系化してきた理論を知識として知ることではないという意見を、むしろ率先して主張してきました。ただ、とは言え僕自身は相当量の思考体験をくぐり抜けてきたことは事実ですので、全てが自分だけという完全なるゼロベースであるはずがありません。先人の影響を受けまくっています。何らかのテーマをゼロベースで深く突き詰めて皆で根気よく考え抜くある種の「思考道場」のような場としてここが機能するなら、それもまた良しと思いますが、現実問題としてこのテキストチャット形式で議論を形作るのを即興(インプロヴィゼーション)に任せるのは実りが多そうに感じません(実りを求めることだけがこの場の意味ではありませんが)。
以前「哲学のスピードは日常会話のスピードではない」といった趣旨の意見をどこかの記事に書いたことがあった気がしますが、哲学に限らず、深く突っ込んだ議論全般にこれは当てはまると思います。何かの意見をパッと見て、その場でパッと「気の利いた」意見を書いて返すなんて芸当は、なかなかできるものではなく、そして「気が利いていなければ」意見を投稿するのを皆躊躇します。「熟考された長文の意見のやりとりの場になっている」というのも、ここが活発になりきらない要素の一つだと思います。ですので、進行をコントロールしている側がむしろ参加者をある程度の型にはめて導く事前準備というのは、絶対に必要だろうと感じてます。陳腐な表現を借りるなら、能や歌舞伎で言う型破りや形無しの話が似ているとは思います。それをこのWSに当てはめるなら、事前に進行の型をしっかり決めておけばこそ、時にそこから逸脱した時にそれを面白さと認められる余裕も生まれるのだと思います。テーマだけ決めておいて後はその場の直感を積み上げようという営みが面白さを生むためには、双方に相当なリテラシーが求められると思います。現状認識としても、マッチしないと思います。ですので、「即興の化学反応が面白い」という意見については、「進行について十分に準備されていることが前提」という条件を足したいと思います。

以上、長々とお話をしてきました。今年度の方針についての僕の意見を改めて箇条書きにして最後に並べておきます。何かご意見ありましたら明日中までにお願いします。

  1. 専門知識を前提とせず読めばわかる内容を扱う

  2. 専門性は排するが文章の長さは問題にしない

  3. 主催者が準備した内容を一方的に読むだけでも一定の体験になる程度の物語の流れは事前に準備する

  4. 参加者は主催者のモチベーションのためにも投下された意見に対してその都度極力リアクション(意見)を投稿する(事後の何らかのリアクション義務化については引き続き別枠で検討)

  5. 参加者のリアクション次第で適宜脱線するのは面白いが、それは個別のやりとりにとどめ、全体の進行は即興では変えない(変えるなら根本から変える)

■Tsubo

議論の最後の方ですが,特に意見もなく感想だけ垂れ流したいと思います(笑)
「あ,これ自分のサークルの新歓の時に,“いかにして新入生にサークル活動を楽しいと思わせるか,サークルに入ってもらうか“と似たような議論だな」と感じました.僕のサークルはご存じの通り(?)「経済科学研究会」という世界革命を目指す秘密結社みたいな名前の学術系サークルなんですが,その「学生同士で研究会(輪読)を行い議論する」活動内容や,特に活動の楽しさを新入生に伝えるのはかなり難しいんですね.普段のサークル室,飲み会での繰り広げられる「資本主義についてお前はどう思ってるねん!」みたいな議論に参加してくれさえすれば大体の人は面白みを感じて入ってくれる(僕はそれで入りました)のですが,新入生をそこに至るまでに持っていくのがかなり苦労した経験があります.道ゆく新入生にいきなり「君,社会問題に興味ある?」とか「資本主義についてどう思う?」とか聞くわけにもいかないですし.つまり,スポーツ系サークルや数学とか物理とかある程度活動内容を把握しやすい学術系サークルと比べ,「参加する楽しみを味わうためには実際に深く参加しないとわからない」というジレンマが存在していました.
で,実際にどうしていたかというと,やはり新入生むけの研究会を上回生が主催し,少くとも研究会で議論する楽しみくらいはわかってもらおうという仕組みがあり,そのためにいろいろな工夫をしていました.
例えば,「いきなりレジュメ発表の後新入生に自由議論をさせるのは難しいので,チューター(ファシリテーター)が新入生のそれぞれに話や感想を話すようしむける」とか,もちろん,研究会のある程度の流れを決めておくとか具体的には新書レベルくらいのある程度の専門性は確保しておくとかもしていました.
もちろん,サークルの新歓の研究会とJLABのWSは目的など色々異なった部分があると思いますが,少なくともその「できるだけ議論に加わってほしい」,「ゆくゆくは“参加者“が主体的に議論を回す側に立ってほしい」などの面は共通していると思います.
その新歓を一度は主体的に行ったものとして,昨日所長が箇条書きにされた方針は「あり」だなと思いました.
(寝て起きればもう少し自分の考えを言語化できるかもしれないので,追記するかもしれません)


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