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ポスト科学という知の可能性はあるのか

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現代の人類の文明は、古代ギリシャの哲学辺りに始まり、いったん、宗教という断絶を経て、今日、科学という枠組みに支えられている。人類以前に地球に知的生命体がいたのかは知らない。たかだか数千年でここまできたのだから、それ以前に我々より高度な文明があったとしてもまぁおかしくはないが、わからないのでそれはおいておこう。

ともあれ、現代は科学の世紀である。そして、おそらく統計の世紀でもある。純粋な理論を追求する科学と、実社会への応用を目指す科学は少しだけ乖離している。同じものを違う側面に投射しただけではあるが、少し見た目は違う。実社会での科学は、役に立ってなんぼなので、それはすなわち結果主義である。結果主義と言っても、科学はこの世の全ての因果関係など明らかにしていないので、それは確率を上げる手法に過ぎない。これが統計である。経済学だろうが医学だろうが全て、その根源は統計である。もちろん、手術をする外科医の天才的な技術というのは統計ではないが、統計によってその手技を磨くことでより多くの命を助けることができるだろうという予測が立つからこそその手技を磨くのだ。根源はやはり統計である。

現代の人類の文明はほぼ西洋文明に塗りつぶされているので、ここでも西洋の文脈の話に限定している。それ以外の可能性については、各自で派生的に考えていただければと思う。ともあれ、かつて、世界は宗教で塗りつぶされていた。貴重な人類の理性の目覚めたる古代ギリシャ哲学もスコラ哲学なる名前を着せられて飼い殺しにされていた。その間、人類の文明はほぼ停滞していたと言って良い。そこから再び理性が目覚め、科学が世の中を埋め尽くした。

科学の正しさを疑う人は少ない。なぜなら、科学は役に立つから。そう、宗教よりはるかに役に立つのだ。正確に言うと、役に立つ確率が高い。統計である。場面によっては宗教こそが役立つ場面もあろう。しかし、確率という概念を持ち込んで、科学は全てを塗りつぶしてくる。僕は、幼い頃からこの科学の傲慢さが大嫌いだった。

いずれ、科学はそれなりの収束点を迎えるはずだ。AIの話が好きな人は、シンギュラリティなんて言葉を持ち出すかもしれない。いずれにせよ、それらは全て「私とは何か」という発想から出発したものだ。僕はシンギュラリティというものにはかなり疑問を持っている。性能で中身は作れない。そこに「神」を宿すというのなら、「私」を離れていわば霊能力者のように「神」を降ろさないといけないのではないか。

なかなかトンデモ発言だと感じておられるだろう。しかし、枠組みが変わる時というのはそんなものだ。もちろん、これは僕の予感でしかないのでなんの根拠もない。しかし、世界の真実に本当に近づくためには、現世から地に足をつけて登るという手段は間違っている気がしている。そういう意味では、科学者よりも、疑似科学、似非科学の方が、真実に到達する可能性は高い気すらしている。問題は、いまこの時代においてそれを盲信するという性質の人々には、性格上少々厄介な方々が多いということだけである。

話を戻そう。世間的にアインシュタイン博士はとてつもない天才だと思われている。確かに天才である。しかし、相対性理論は「神を降ろした」理論ではない。彼がいなくともいずれ誰かが発見したであろうと言われている。しかし、ラマヌジャンという、これもまたそれなりに有名な数学者がいる。彼は、証明も論理も根拠も何もなくいきなりおびただしい数の定理を次から次へと導き出した。一体どうやって。インド生まれでヒンドゥー教徒である彼は、「寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた」などと説明していたらしい。ラマヌジャンの発見した定理の数々は、いずれ時間の問題で発見される類のものではない。彼がいなければ何百年も発見されなかったかもしれない類のものである。

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