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【表現研】ゲームにおける個人名義の監督の必要性 - 『ラストオブアス2』を壊した者は責任を取らない

(注意)本記事はストーリーに関するネタバレは極力控えましたが、そもそもこの作品はストーリー、脚本に非常に大きな問題を抱えた作品なので、そこを触れずにレビューなどできません。わずかでもネタバレを気にされる方は、是非先にご自身でプレイされることをおすすめします。

前作があまりに評価が高かった(僕も自身でプレイして良ゲーであることは確認済)のでどうなることかと期待と不安を胸にプレイした『ラスアス2』であるが、想像と全く異なる(ダメな方の)裏切られ方をして、とてもがっかりした。少し時間も経ったところで、頭を冷やしてもう一度冷静に考えてみたい。

何が酷かったのか

極めて簡単な話なので、初めに言っておく。

プロットだけで引っ張ろうとしたこと。

それが全ての間違いを生んでいる。

キャラクターがただのイベントデータと化しており、血の通った人間として描かれていない。あまりにも素人仕事である。

別に僕はゲーム業界の人間でも何でもないし、詳しい事情など知らないが、『ラスアス2』の脚本はおよそプロが書いたとは思えない出来だった。ゲームというのは、そもそもは一人で全てのプログラムを書いて作ってしまえるような表現物であることが、確かに始まりではあった。完全に一人で本当にやりきったかはともかく、黎明期ではそれに近いゲームは多数あった。しかし、技術的にビデオゲームの本質というものが未完成であった時代には、それで十分に成立していたかもしれないが、いまはどうだろうか。ビデオゲームの表現力、特に映像面でのそれは、もはや純粋な映像作品と比較して遜色ないどころか映像作品に逆に影響を与えるレベルにまで到達した。つまり、ゲームは、「これはゲームですよ」というメタ認知をプレイヤーにさせるかどうかを制作段階で選ばねばならない次元にある。かつてのドット絵のRPGなら、それが「ゲームである」ことなど表現に盛り込まずとも、全プレイヤーが自覚的であったと思うが、表面上の見かけの映像がリアルになればなるほど、そこに現実との裂け目を感じるかどうかは、プレイヤーの感性に委ねられることになる。そして、このレベルの表現になってくると、多くのプレイヤーは裂け目を感じない。つまり、初めからゲームデザインとして線引きがなされていなければ、高い映像表現力を持ったゲームは、「単なるゲーム」としてプレイしてもらえなくなってしまう。そうなったときに、ファンタジーな世界観を演出したり、リアルではない超人的な挙動を敢えてアクションに取り入れたりすることは、かつてはリアルに近づくことを目指していたゲームという世界が今度はリアルに近づきすぎて抱えた新しい問題点だろうと思われる。技術の向上により、逆にゲームはただリアルを目指せば良いというものではなくなった。

では、この『ラスアス2』というゲームはリアルを志向しすぎたことが間違いだったのか。

そうとも言える要素はあるが、全てをぶち壊した要因はそうではない。

そうと言える要素は、ゲーム性の問題で、これは後述する。

全てをぶち壊したのは、あくまでシナリオの問題だ。表現力のおぼつかない時代のゲームなら、少々まずいシナリオでも、想像力による補完が強く働くので、良いように解釈できる余地がある。しかし、このレベルの表現でまずいシナリオが再現されてしまうと、補正される余地なく、そっくりそのまま「それ」が表現されてしまう。

ゲームという業界が、非常に狭い一部のオタクだけに向けたものであった時代、そしてゲームの持つ技術がまだ未熟であった時代なら、少々雑なシナリオでも許されていたことはあった。しかし、それはもはや許されなくなったのだ。

『ラスアス2』というゲームのストーリーは各方面で酷評されているが、この程度に酷いストーリーの「名作」ゲームは過去にいくらでもある。しかし、今後はもう許されない。

もちろん、敢えて表現力を落として作られるゲームもあるだろうし、そういうゲームに対しては当てはまらない要素ではあるかもしれない。それがゲームの面白いところではある。あくまで、予算が注ぎ込まれて限界まで映像表現を追求したゲームにおいての話である。

では、話を少し戻すが、肝心のストーリーの一体何がいけなかったのか。

多くのプレイヤーは、はっきりした自覚はなく、よくわからないがともかく不快感を感じたようではある。しかし、僕の中では理由ははっきりしている。

登場人物の性格(人格)の一貫性という、ストーリー作りにおいて一番初めに設計されねばならない基本的要素があまりにデタラメだったことだ。一般に批判を受けているような、ストーリーの大まかな流れ、非常に単調な復讐劇にしてしまったこと、それ自体は登場人物の設計がしっかりしていたなら、正直どうでも良いことだ。

アビーという人間の性格の設定が狂っていたことが全てを台無しにしている。序盤に非常に残虐性を発揮したこのアビーという人間が、後半で実は話せばわかるタイプの人間として描かれる。いや、アビーだけではない。エリーもだろうか。ともかく、生きている人間同士があまりにも簡単に殺し合いすぎる。ストーリーとは、単なるイベントの連なりではない。ストーリーとは人間である。たとえば、人間も動物も出てこない、山を転がり落ちる岩という無機物を撮り続けるという映像作品があったとして、そこにストーリーが成立するか。岩が転がって起こるイベントをただ配置しただけでは基本的にはストーリーなど成立しない。しかし、岩の動きや周囲の環境の変化などを意図的に選択して並び替えて取り込めば、何らかのストーリー表現はできるかもしれない。「意図的」とは、そこに「人間」を表現するということである。岩が山を転がって木にぶつかって海に落ちた。それだけではストーリーにならない。イベントをストーリーに昇華するには、それなりの「必然性(人間性)」の設計が必要になってくる。

仲の良い家族がいた。ある日突然父親が殺された。一見人の良さそうなその娘は、犯人を見つけ出して残虐な拷問のはてにその犯人をなぶり殺しにした。しかし、その犯人にも家族がいて、その犯人の娘がまた復讐にやってきた。

そうやってただ機械的にイベントを配置しておけばストーリーになるというのは、あまりにも素人の仕事である。人間の行動原理、動機、必然性の設計こそがストーリーの全てであり、そこで起こる見かけ上のイベントなど、正直どうでも良い。つまり、このゲームはストーリーが酷いというのではなく、そもそもストーリーになっていない。だから、評価対象にすらならない。

今後、この手のいわゆるAAAタイトルというやつは、ちゃんとしたスタッフによってシナリオが作られることを切に願う。本当に残念である。

最高の表現

しかし、それは裏返せば、映像表現が最高レベルであったことを意味してもいる。最高レベルであったからこそ、シナリオの拙さがダイレクトに表現されてしまったということだ。映像表現のリアルさは、そのボリュームを考えると、PS4で表現されたゲームとしては、過去最高レベルであったと言っても良いのではないだろうか。それが今後に生かされることを思うと、単なるクソゲーと切り捨てて良い作品ではない。技術的には大きな意味のある作品であったという評価はできる。人間は裏切るが技術は裏切らない。そういうことなのかもしれない。

リアルとゲームのバランス

ここまで散々酷評を続けてきたが、実はゲーム性そのものに関する批判的意見を見かけることはあまりない。批判のほとんどはストーリーにまつわるものだ。つまり、批判のほとんどの責任は、ストーリーに関わった一部の人間のみのものだ。僕自身も、ゲーム性に大きな批判はなく、技術者には敬意を表したい。ただ、リアルの追求に伴うゲームデザインの問題を多少は感じた。日常的にゲームをプレイすることを当たり前にしているゲーマーにとっては大きな問題ではないのかもしれないが、広大なマップを探索するという要素は、リアル志向になればなるほど、プレイする楽しみとケンカし始める。

表現がリアルになればなるほど、プレイヤーはゲームとして設定されたフラグ回収(オンオフ)というデジタルより、純粋なプレイ体験(ゲームデータ的に意味のない行ない)というアナログを求め始める。この位置まで移動すれば次のイベントが発生するだろうというような予測をプレイヤーにさせるのは、純粋な体験を奪う。そして、何よりもリアルの追求によってゲーム性を壊すような煩わしさを発生させるのは問題だ。僕は熱心なゲーマーではないので、探索要素と戦闘におけるリアルな時間経過を伴うステルス要素に、大きな煩わしさを感じた。

広大なマップの隅々まで探索すると、確かに隅々までアイテムが置いてある。それは、表現力のない時代のゲームなら、探索要素としてプラスに評価されたものだろうが、ここまでマップがリアルだと、そんな目を凝らして部屋の隅っこまで調べ尽くすことよりもマップの美しさそのものを楽しみたい。だから、探索というのは完全に余計な要素だ。一定のチェックポイントごとにでもアイテムが配給されるようにするか、わかりやすい配置の敵を倒せば必要なアイテムが手に入るようにすれば十分だろう。これはマップのリアル志向が生み出し得るゲーム性への影響の、大きな課題である。

もう一つ感じたのは、戦闘におけるステルス要素だが、これも熱心なゲーマーなら文句はないのかもしれないが、僕には煩わしかった。僕は、アクション要素のあるゲームは、ゲーム性評価のためにできるだけ難しい難易度でプレイすることをこころがけており、ラスアス2も難易度ハードでプレイしていたのだが、後半の敵との戦闘で、一部あまりに敵が多く慎重なプレイが求められすぎて、敵の行動範囲の観察と予測を踏まえて丁寧にプレイすると時間がかかりすぎてしまい、かなり煩わしく感じた場面があった。実際、あまりの煩わしさに、その場面においては難易度を下げて作業的に戦闘をこなしたほどだ。「難しいのではなく煩わしい」というのは、ゲーム性において確実にマイナスである。実際の戦闘やサバイバルにおいては、何時間も何時間も慎重にチャンスをうかがうというのは当たり前ではあるのだろう。しかし、ゲームでどこまでそれを再現するのか。あくまでも積極的にプレイする「楽しみ」を演出することがゲームの本質である。シミュレーターであるなら話は別だが、もちろん『ラスアス2』はシミュレーターではない。だから、単純に煩わしい戦闘を演出してしまっている場面があったのはマイナス評価だ。しかし、総合的に見て戦闘の要素はよくできていたとは思う。ちょっとした調整を行なうだけで文句ないものになっただろう。

まとめ

要するに、この『ラスアス2』というゲームは、最高の技術で作られた最高のゲームであったが、ただ一点、ストーリーのみが酷かった。そして、それが決定的だった。たとえば、映画の批評として、映像は美しかったがストーリーは酷かった、なんてものはよくある。ゲームも「本気で」そういうレベルに到達したのだと思えば、ある種喜ばしいことではある。『ラスアス2』の批評における比較対象はゲームではなく映画である。だからこそ、この手のゲームは、今後一部の人間に台無しにされないよう、ちゃんと才能ある人間によって制作がなされることがシステムとして機能することを、切に願う。

ゲームも、もはや制作会社ではなくプロデューサー、ないし「監督」によって評価されるという時代は、もうそこまで来ている。そう願っているのは僕だけだろうか。そうなってくれれば、プレイヤーとしてもゲームの評価がしやすくなる。そのハシリはもちろん小島秀夫監督であるが、今後そういう体制で作られるゲームの方向性というのも、もっともっと感じたい。もちろん、そうではない体制で作られるゲームを否定するものではないが、ひとつの可能性の問題として、そういう方向性も認めて良いのではないか。ゲーム業界においても、個人名義の監督がもっと全面に出て活躍する時代が来るのが健全ではないだろうか。

少なくとも、この『ラスアス2』というゲームは、もし個人名義の監督がいたなら、当たり前に叩かれて、その結果同じ過ちは繰り返されないはずだから。

これからのビデオゲームのより一層の発展を願って。





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