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右手と左手とジェンダーギャップ

4月に書いて、しばらく眠らせていた文章です。時事がちょっと古いです。

数年前に左腕を怪我した。
スノーボードで、転んで。

恋なのか何なのか分からないままに、欲情に任せての女の子との旅。
前夜の宿での情けない告白の果ての、せめてもの抵抗で、ゲレンデを滑り降りた。
それが仇となり、無理な体制で手をついたため腕から肩にかけて痛めてしまった。

レスキューのモービルに乗って、ゲレンデを滑り降りていく。その時の屈辱的な気持ちは忘れ難い。

さて、どのような形にせよ左腕を怪我した僕である。
怪我自体は大したことはなかったけれど、とにかくその日から左腕を使わないで生活をしなければいけなくなった。

元々が右利きの僕は左手が使えなくても生活に支障はないだろう、と高を括っていた。

でも、実際はそうではなかった。シャワーを浴びた時にそのことに気がついた。

シャワーヘッドを壁に固定したまま右手で頭を洗う。
違和感を感じる。むずむずと思い通りに動かない。文字通り、痒いところに手が届かない。
一言で言えば「へたくそ」だ。右手は思いの外、頭を洗うのが下手くそだった。

そうか、ぼくは普段右手でシャワーを持ち「左手」で頭を洗っていたのかと。そこで初めて気が付いた。

しばらくして腕は治り、左手が再びその仕事を担うことになった。その時のホッと安心した気持ちは、今でも思い出せる。

とにかく痒いところに手が届く。何を考えずとも自然と指が動く。無意識に、自然に。
左手が、洗い方も頭の形も覚えていた。
それまでぼくは「左手は補助的な仕事しかしていない」と侮っていたが、実はそうではなかった。

それと同時に、右手。右手も「左手の頭洗い」同様に「シャワーづかい」に関しては、無意識にも熟練なのだった。

そして、ここで記しておきたいことは、何よりも右手の成長について。怪我をしたぼくは、左手が治るまでの期間、右手で頭を洗い続けた。
その結果、右手のテクニックは驚くほど向上した。もちろん20年以上その仕事を担ってきた左手には及ばないものの、初日に比べれば格段に上手くなっていた。

「慣れない仕事でも続けるうちに、自然とできるようになるよ」と、いつかの誰かに言われた言葉に、その時初めて合点がいった。



無意識といえば、ジェンダーだ。(と、こじつける。)

先日、日本のジェンダーギャップ指数が主要7カ国で最下位の120位(156ヵ国中)であることが話題になった。
世の中には、ジェンダーによって得意な仕事や苦手な仕事があるという意識、規範が存在する。女性は家庭、男性は仕事というイメージはとても根深く、無意識レベルで心の奥底まで浸透しきっている。

例えば、保育園でままごと遊びが始まる時、大抵は「ママが料理を作る」場面から始まる。そして「パパは仕事」にいく。

父母が共に働いていたり、あるいは母子家庭、父子家庭も当たり前に混在する。そんな「多様な家族」を持つ子どもたちが集まる保育園の場面ですら、こうである。

これほどまでに根深きジェンダー規範はどこで生まれるのだろう。何が根幹的な原因なんだろう。

保育園にある物語の影響もあるだろう。桃太郎で、山へ柴刈りに行くのはおじいさんで、川へ洗濯へ行くのはおばあさんだ。
だいたい悪者退治をするのは太郎だし、助けられるのはいつだって姫だ。

先日、何気なくサザエさんを見ていて、
「春眠暁を覚えず」的テーマの話で、春は気持ちよく寝ていたい季節だから明日は寝ていよう、と。「じゃあ明日は起こしませんからね」とサザエとフネがいう。カツオとワカメが「明日は姉さんのうるさい声を聞かなくて済むからせいせいする」みたいなことを言う。
いわゆるいつもの「サザエさん」だし、何も違和感なく観れる人の方が多数だと思う。

しかし、よくよく考えてみれば「朝起こしてもらう」というのは、家事の中でも極めてケア的な労働だ。
自分が自分であるために必要な事を、他人にやってもらう。他人にやってもらう事でその人は何とか立ち上がって社会に向かえる。

(今の僕の感覚では、自分のことくらい自分でやれよと思うが、自分自身も長きにわたって母を頼って母に助けられていた身なので、大きな声では言えない。)

その仕事が当然のようにサザエとフネに割り当てられていて、みんな違和感を抱かない。
波平とマスオは仕事に行き、帰るとサザエとフネの用意した晩酌を楽しむ。

昔懐かしの古き良き日本の生活だが、今の時代には合致しない。
平成という核家族の時代(クレヨンしんちゃん的時代)を経て、今はもっともっと多様な家族像が広がっている。

サザエさんこそが、日本のジェンダー意識・規範の象徴なのだな、と思った。
はっきり言って、図らずとも古いジェンダー意識を作り上げてしまうサザエさんはもう終わらせるべきだし、昭和の高度経済成長のノスタルジーにひたって、これを終わらせられない現状がジェンダーギャップ指数として数字に現れているのだと思う。



男性に向いた仕事、女性に向いた仕事というイメージはそういう「サザエさん」に代表されるような無意識によって作られたまやかしなのだと思う。

保育士は女性がやるものだというイメージがまだあるかと思うが、じゃあ男性である僕は保育士として劣っているのかと言われれば、そうは思わない。

料理を作るのは女性の役割か?給料を稼ぐのは男性にしかできないのか?男性は朝のゴミ捨てをすれば家事を手伝って偉いと褒められる。女性は?

たしかに、長年家事を行ってきた(行うことが当然とされてきた)女性には家事が上手い人も多いだろう。
あるいは、仕事で経験を積んだ男性に代わって経験の少ない女性が稼ぐのは至難の業かもしれない。

しかし、たまたまその役割に当てはめられて、その役割を長年こなしていたから、得意・不得意が生まれただけなのだろうと思う。

それは、僕の左手が頭を洗うのが得意だったように。繰り返しの中で経験値が積まれ、上手になっていたに過ぎない。

右手だって経験を積めば頭が洗えるようになるし、左手だって同じように文字を書いたり、箸を持ったり出来るはずなのだ。

仮に男性が右手で、女性が左手だとすれば。
男性も努力と経験で左手になり得るし、女性も右手になり得る。

そこにジェンダーによる向き不向きなど存在しない。

「あなたはそのジェンダーだから、こうするべき。」
「あのジェンダーの人はこれが得意/不得意。」
そういう意識はもうやめたい。

ままごとを見守る時。
昔話を読む時。
その他、保育園におけるあらゆる場面。

ジェンダー意識の植え付けとなりうる幼少期に関わる大人として、子どもたちにフラットに対応することを忘れないようにしたい。

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